「小母さぁん、公ちゃんいる?」
「帰ってないと思うわよ。まだ部活じゃない? ……あ!」
の父親と公延が「男の約束」を交わしてから1年が過ぎた。中学生になった公延は唐突にバスケットボール部に入り、以来自宅にいる時間が激減した。部活動なんてそんなものだが、それまで夕飯時には必ず自宅にいた公延がいないことにはしばらく慣れなかった。
しかもは公延と同じ市立北村中ではなく、私立の女子校を受験することになっていた。と公延の母親が通った中高一貫の女子校だ。政令指定都市にある数校を除けば、県下でも指折りの高偏差値を誇る学校であり、近年になって制服を一新したことにより大層な人気を誇っている。
公延が部活で忙しくしているのを不服に感じつつも、彼がいないことで空いた時間を受験勉強に費やし、は割とあっさりと大変な倍率と厳しい面接で知られる中学受験をパスした。
「もとうとうアナソフィアの生徒になるのね」
「どう似合う?」
聖アナソフィア女子学院の制服を着たは、公延の母親の前でスカートをつまんでくるりと1回転した。届いたばかりの制服を着て飛び込んできたということは、公延に見せびらかしに来たのだろうが、あいにく本人は不在だった。公延は勉強とバスケットと睡眠で24時間の殆どを使い切っている。
「まったくもう公ちゃんてば、部活ばっかりなんだから。何がそんなに面白いんだろ」
「たまにヘトヘトになってしかめっ面してたりもするんだけど、楽しいみたいよ」
「私は部活なんてどうでもいいなあ」
木暮家の居間で制服のままソファにひっくり返り、は足をばたつかせた。
「もうすぐ帰ってくると思うんだけど、公延の部屋で漫画でも読んでたら?」
「うん、そうする」
公延の母親からしてこの有様だ。の父が危機感を抱いたのも無理はない。は階段を駆け上がり、公延の部屋に迷わず飛び込んだ。中学1年生にしては片付いている部屋を横切り、公延のベッドにごろんと横になる。中学に入ったのと同時に公延のベッドは大人用のものに買い換えられていて、ずいぶん広く感じた。
部活部活って、公ちゃん急にバスケなんかに夢中になっちゃって、なんなのよ。私たちもう中学生同士なんだし、カレシカノジョでいいのに。そしたら公ちゃんアナソフィアのカノジョ持ちになるのに。バカだなあ。
は公延の枕に頬を擦り付けながら、ぼんやりと考える。
なんだっけ、この間遊びに来てたっていうかごはん食べてたデッカイ人。赤なんとかくん。私1コ下だから先輩って言わなきゃいけないの? 赤なんとか先輩とばっかりつるんでるんじゃないのかなあ。部活ってそんなに忙しいもん? 学校終わって、1時間とか2時間くらいやればいいじゃん。なんで帰って来ないの。
いくら学業で優秀な成績を修めていても、所詮は恋に恋する12歳である。
春休み、ふたりっきりで遊びに行きたかったのになあ。
「あっ、、何やってんだよ」
いつの間にか眠ってしまっていたらしいは、公延の素っ頓狂な声で目を覚ました。
「こんなとこで寝るなよ……ってそれ新しい制服だろ、しわになるぞ」
「公ちゃんが帰ってくるの遅いからいけないんでしょ」
「いや、部活だって」
ジャージ姿で重そうなスポーツバッグをどさりと落とした公延。はその真向かいでのそりと起き上がり、精一杯不機嫌そうな声を作ってみせた。実際のところ公延が帰ってきて嬉しいので、不貞腐れたようなことを言ってはいても、楽しそうだ。公延はのそういう単純なところをよく理解していた。
「制服、見せに来たの? 母さん喜んでたんじゃない?」
「小母さんにも見せたけど、公ちゃんに見せに来たんだよ」
ぴょこんと立ち上がる。順調に背が伸びている公延を少しだけ見上げる格好になる。
「どう? 可愛い?」
「……母さんたちの頃とは全然違うんだね。なんか、お嬢様学校って感じ」
「お嬢様学校じゃないんだけど、そう思われてるよね。可愛い?」
「うん、似合ってるよ。いいんじゃないかな」
公延は、昔のようにを可愛いと言わなくなった。小学校中学年くらいまでは、が可愛いと言われたがっていることをすぐに察知して言葉をかけてあげたものだが、今は一切言わない。故意に避けているのはもわかっていたが、それでも言って欲しいのが女心だ。
「もー、公ちゃんつまんない!」
「つまんない上に疲れたよ。今日夕飯なんだか聞いてる?」
の相手をして早13年、公延はのあしらいなど朝飯前だ。だが、も引き下がらない。
「公ちゃん、私そんな話してるんじゃないんだけど」
「頼むよ、疲れてるんだってば」
「部活始めてからずーっと疲れてるじゃん。たまには話、聞いてよ!」
背を向けて、バッグから取り出した着替えを壁にかけている公延の背中にはギュッと抱きついた。
「……、やめなよ」
公延の声はとても落ち着いていた。巻きついたの手を優しく解こうとするが、それに負けじとは公延の体を締め上げた。公延の尖った肩に顔を埋め、目一杯体を押し当てて抵抗した。
「、やめなって。中学生じゃんか」
「中学生だからでしょ」
「だけど、子供じゃないんだから」
公延は体を丸めての腕から逃れ、向き直った。すかさず抱きついてこようとするの両手首を掴んで押しとどめ、少しだけ困った顔をした。もめげずに顔を突き出してにっこりと微笑む。
「そうだよ、もう子供じゃないし、中学生同士なんだし、付き合おうよ」
「付き合ったら何か変わるの?」
「何言ってんの、彼氏と彼女になるんだよ。当たり前じゃない」
「それは言葉だろ。付き合うことになったら、僕とは何か新しいことでも始めるの?」
は予想外の問いかけに黙り込んだ。公ちゃんの言ってることが解らない。
「そりゃ今僕は部活忙しいよ。でもだって電車通学なんだし時間はもっと合わなくなるよ。だけど時間が合わないだけで、僕たち何も変わらないじゃんか。わざわざ付き合います、彼氏彼女になりますなんて宣言しなくても、何も変わらないのに。はなんでそんなことにこだわってるの」
それは一応もっともな理屈ではある。が、色気付き始めているにとっては屁理屈、もちろん納得しない。
「……公ちゃん、北村中に好きな子できたんでしょ」
「どうしてそうなるんだよ」
ハァ、とこぼれる公延のため息には苛つく。
「だってじゃあ、好きな子いないんだったら付き合ったっていいでしょ」
「だからなんでそんなにこだわるんだよ」
「こだわるよ! 付き合ってなかったら手も繋げないしキスも出来ないじゃん」
言ってからちょっと照れる。それを見下ろして公延は少し呆れた。の父親の不安が的中している。
「あのなあ、。付き合うってそんなことだけじゃないだろ」
「私と付き合いたくないんだったらそう言えばいいじゃない」
「……付き合いたくない」
「はあ!?」
少しためらったものの、さらりと出てきた拒絶の言葉にはひっくり返った声を上げた。自分が公延を好きなように、公延も自分のことが好きで、相思相愛なのだと信じて疑わなかった。公ちゃんのお嫁さんになると言っても、絶対に嫌だと言わなかったのに。付き合うのが嫌なら結婚できないじゃん。
「あのさあ、僕別にのこと嫌いじゃないよ。けど、クラスのチャラいやつらが言うみたいにのこと好きかって言われたらちょっと違うし、彼氏彼女になってイチャつくのがそんなに大事とは思わないよ」
好きか嫌いかの二択しか持ち合わせていないにとっては、まだ少し難しい感情だった。
「部活と勉強と、一生懸命やってるんだよ僕も。も中学頑張りなよ」
理解は及ばないが、突き放されかけていることに焦ったはふいに爪先立って公延に顔を近付けた。
「うわ、おい、やめろって!」
「なんでよ!」
ふいうちでキスをしてしまおうと思っただったが、バスケットで鍛えられてしまったのか、公延は軽々とを避けてしまった。も公延も、顔が赤い。
「なんでよ、って、そりゃ今、キ、ス、したいのだけだからだよ!」
声を潜めて真っ赤になりつつ、公延はまた拒絶する。
「公ちゃんは、私とキス、するのいやなんだね」
可哀想な公延は困り果ててうな垂れている。嫌なんじゃない、したいと思っていないのだ。
「、そんなに焦るなよ。よく考えて、僕は13歳は12歳、こんなことでゴチャゴチャ言ってる場合じゃないんだよ。こういうことは、もう少し時間経ってからちゃんと考えようよ。少なくとも僕は、今は部活やりたいし、しばらくそういうこと、考えないでいたいんだよ」
公延に「男の約束」がなく、本気でこんなことを言っているのだとしたら、それはそれで憂慮すべき事態だったかもしれないが、12歳の冬に公延は自身に誓いを立ててしまった。が幼心に「公ちゃんのお嫁さんになる」と決めたのと、同じように。小父さんとの約束を、そしてを守る。そう決めてしまったから。
「時間が来たら、僕は僕なりにちゃんとのこと、考えるから」
そう、約束したから。
「その時になってもが僕のこと、す、好きだったら、それでいいんじゃないか」
とてバカではない。理解できない理屈と感情でも、何やら固い決意を持って公延が拒絶を示していることに気付いた。何か心にしまっておきたい理由があって公ちゃんは私を遠ざけようとしている。それはなぜかすっと心の中に入ってきた。
言葉に出来るほど明確に読めないけれど、子供みたいに「なんとなく」ではなくて、確固たる決意と覚悟でもって時間が欲しいと言っている。そんな公延の心が少し誇らしかったし、自分の愛情が試されているのだろうこともわかってきた。甘い試練てやつ、かな。それは案外胸をくすぐる気持ちのいい痛みだ。
「……公ちゃん、私、公ちゃんのこと好きだよ」
「だから――」
「聞いて! だけど公ちゃんの言いたいこともわかったから、我慢する。今まで通りにするから」
掴まれたままの手が緩む。その隙をついてはするりと抱きついた。
「おい、――」
「好きなの! 好きだけど我慢するの! するから、だから、お願い」
は爪先立って顔を突き出している。浮ついた気持ちで付き合えだの彼氏彼女になろうだの言ったのとは違う、はなりに真剣な願いだった。もう邪魔しない、我慢する、だからその代わりに。
「……もしかして、好きな子が出来ちゃったりしてもいいから、1度だけ」
「バカ、ほんとにバカだなもう」
「バカでもいいもん」
公延の頭の中では「男の約束」が渦を巻いて暴れまわっていた。こんなにも自分を求めているを目の前にすると、理性がぐらぐらと揺さぶられて、今にも崩れ落ちてしまいそうになる。近隣の中高では一種のステータスとなっているアナソフィアの制服を着たが、愛しかった。と同じように相手が愛しかった。
応えてやれないことが申し訳ないし、そのために心を痛めるが可哀想で、絆されてしまった方がは幸せなんじゃないか、そう思えて仕方ない。だけど、公延はもう約束をしてしまったから。予想通りの猛攻に耐えるべくシミュレーションしたまま切り返せたし、それを後悔してはいない。
我慢を自らに課したのは、公延も同じ。だから、自分とのためにも1つだけ禁を犯しておこうと決めた。
「バカ」
なんでそんなに僕のことなんか、好きなんだよ。
やり方なんかよく解らなかったけれど、それでも公延はどうにかガチガチに固まった唇でにそっとキスした。あくまでも軽くの背に手を回し、首だけ突き出して、ちょん、とくっつけたようなキスだった。あまりに不恰好ではあったが、自分とのささやかな約束でもある、ファースト・キスだ。
さすがに照れくさかった。少々気が抜けているらしいがぼんやりしているので、間を持て余した公延はをそっと抱き締めた。抱き締めたというより、真正面から寄り添ったという程度のものだったけれど、それでもなんだかコイビトドウシみたいなことをしてしまった気恥ずかしさと快さと罪悪感を一緒に抱え込んでいた。
「……公ちゃん、ありがとね、私、ずっと好きだからね」
そう言ったに「僕も」と言い返したかった。そう言ってもう一度キスしたかった。
「ずっと、待ってるからね」
返すことが出来ない公延は、少しだけ腕に力を込めて、その代わりとした。
公延13歳、12歳の春のことだった。