世界のはじまりについて

01

世界のはじまりに、まずひとりの男の子が生まれた。その翌年、女の子が生まれる。ふたりが生まれ落ちたのは家を隣り合わせるという環境であり、さらに両の親が親しい関係であったという作り物のような世界だった。

男の子は1歳で女の子に出会い、女の子は生まれたその時から男の子と一緒だった。

男の子は温和で優しく、女の子は男の子によく懐き従順であった。ふたりは兄と妹のように毎日転げまわって遊び、2組の親は男の子も女の子も分け隔てなく育てた。それは男の子が1年先に幼稚園に通い出しても小学校に入学しても、変わることがなかった。

全力で男の子を慕う女の子、それをしっかり受け止めてよく面倒を見る男の子。ふたりはよく出来たパズルのようにきっちりと噛み合い、それぞれの成長とは別に言葉も話せない頃から何も変わらないのであった。

この状況は当然女の子の方に恋心を呼び、女の子が幼稚園に通い出すようになると、男の子のお嫁さんになると言い出した。だがそれも4歳児5歳児の言葉であるから、親は微笑ましく思って歓迎したし、実際のところ、それでもいいような気がしていた。どちらも自分の子供のように育てているのだし、それならばそれで。

だが結果としてこの展開は女の子の決意を固め、彼女は一生の恋の相手をお隣に住む1歳年上の男の子と決めた。幼い心に必ず彼のお嫁さんになるのだと刻み込んでしまった。

そしてそれは、いつまでも覆ることがなかった。

「公ちゃん、まんがかして」
「まんが? 取っていいよ。届かないの?」
「ううん、届くけど、公ちゃんも一緒にいこうよ」
「いいよ。あ、ちょっとまって、おやつ持っていこうよ」

男の子は公延といい、女の子はといった。は公延を「公ちゃん」と呼んだ。よちよち歩きの頃に全部正しく言えなかった名残だ。これは両の親にも馴染み、2つの家の間では誰にでも「公ちゃん」と「」と呼ばれている。

さて、小学生になったふたりの生活というのは万事こんな調子だった。漫画が読みたいなら勝手知ったる公延の部屋から借りていけばいいのだが、は公延の部屋で公延がいる状態で漫画を読みたい。それを公延はよくわかっているし、嫌とも思わないからおやつを手に部屋についていく。

そうしては公延の部屋で過ごし、漫画でなくとも、一緒に宿題をしたりゲームをしたりビデオを見たりして、夕飯時にが隣の家に戻るまでそうやって過ごしている。逆に公延がの家で過ごすこともあるし、とにかく家がどちらであろうと関係なく、ふたりはいつも一緒だった。

それぞれ学校の友達と遊ぶこともあるけれど、それ以外は常に一緒に過ごす。例えば、どちらかの親が不在になるようなことがあれば隣の家に転がり込んでいればいいし、公延とにとって、隣の家は他人の家であってそうでないのも同然だった。

そうしてふたりはすくすくと成長し、やがて小学校高学年になると、の方は徐々に女性へと成長する兆しを見せ始めていた。だからといって一瞬で色気付くわけでもなし、には母親がふたりいるようなものだったから、女としての品性というものに対してはやや厳しいくらいの育て方をされていた。

しかしそれでも、ただひとりこの状況に危機感を感じた人物がいた。の父親だ。

意地の悪い表現で言うならば、要は父親の嫉妬だ。可愛いひとり娘は早くも自分以外の男に夢中で、飽きる様子もない。もちろん彼も公延をよく知っているし、自分の息子とも思って接してきた。だがそれとこれとは話が別だった。彼にとって、まだあどけなさが残る公延は最愛の娘を奪う予定の「男」であった。

とはいえ、以後接触するなとも言えないし、そこまで公延を拒絶したいわけではない。公延がいてくれたおかげで愛娘が楽しい時間をたくさん過ごして来られたのもまた事実だからだ。だが、距離が近すぎる。

彼は悩んだ。公延が小学6年、が小学5年であった1年間彼は悩み続けた。その結果、彼は公延が小学校卒業を控えた年の1月、隙を見てふたりだけの時間を作った。1度きりの釘を刺すために。

親も同然という関係が幸いしてか、公延はの父親の言わんとすることがよく解った。男の子である分、女の子より精神的な成長が遅いとはいえ、公延は聡明な子だったから、小父さんの言っていることはとても大切で、例え相手が自分のような子供でも、言うには勇気がいることなのだとよくわかっていた。

「小父さんにとって、ふたりは自分の子供だと思ってきたし、今でももちろんそう思ってる。だけど、公ちゃんも自覚が出てきてると思うけど、人間はずっと子供ではいられないじゃないか。ずっと小父さんたちの可愛い子供ではいられないじゃないか」

そうであったなら、彼もこんなに悩まなかったであろうことも公延はよく解った。

「もし公ちゃんに女の子の子供が出来たらわかると思うけど、娘っていうのは、特別なんだよ。本当に特別な存在なんだ。よく言うじゃないか、結婚の申し込みをしにきた男を殴るとかって。あれは相手がどんな男でも、娘を連れて行ってしまうのだと思うと、そうしないではいられないんだよ」
「小父さんは……どうだったの。小母さんと結婚したとき」

興味を引かれて質問した公延に、の父親は苦笑いしながら咳払いをした。

「いや、実は小父さんは殴られてない。ただ、のお祖父ちゃんは昔とても大酒のみでさ。呑まされた」

オレより先に潰れたら結婚は認めない――そう言って湯のみで日本酒をグイグイ呑む義父にの父親は真っ青な顔をして挑んだものだった。の母方の祖父は公延も会ったことがある。頭が良くて厳しい人だと聞かされている。それは想像に難くない風景で、公延は思わず吹き出した。

「今はお祖父ちゃんの気持ちがよく解る。幸い小父さんは潰れずに小母さんとの結婚を許してもらったけど、あれは、何だっていいんだ。娘を奪う男に勝って、オレはお前より上なんだって思い知らせたい、ただそれだけなんだ。娘を持つ父親なんて、本当にかっこわるいもんなんだよ」

まだ12歳の公延だが、そうは思わなかった。愛情がなければ出来ないことだと感じていた。

「公ちゃんもまだ12歳だし、必ずと結婚するとは限らないし、そんなことには縛られずに青春を謳歌して欲しいと思ってる。公ちゃんだって今から絶対と結婚するんだなんて、思ってないだろ? はそう言い張ってるけど、それだってまだ子供の夢のうちだ」

確かに、に比べて公延は「好きだ」とか「結婚したい」なんていうことは真剣に考えていない。は可愛いので、結婚でも何でも夢見ていてもらって構わないが、何しろまだ12歳なのだし、よく知っているなら結婚してもいいけど、という程度にしか思っていない。そもそも結婚て、何?

「こんな話をして本当に申し訳ないと思ってる。けど、言わせてやって欲しい」
「はい……

話が進むにつれて、公延はの父親が何が言いたいのかを漠然と理解し始めていた。一応保健体育の授業も受けているし、自分とがもう間もなく思春期に突入するのだということは痛いほどわかっていた。子供ふたりでいられるのは、もうあとほんの少し。もしかしたらもう終わっているかもしれない。

これから公延とは少年と少女になり、やがて男と女になっていく。それも、10年とかからないうちに。

「公ちゃんももうすぐ中学生で、やがて高校生になって、そのときに、もしを好きだと思ったとするね。そう思わなかったらそれでいいけど、もし、を女の子として可愛いなと思ってくれたとして」

の父親の喉が鳴る。

には、そう、せめて18歳になるまでは、手を出さないでくれないか」

「手を出す」ということが具体的にどういうことなのか、はっきりとは思い描けない公延であったが、それでもだいたいの想像はついた。手を繋ぐとかキスするとかよりも、もっと先のことなんだろう。それはいわゆる「エッチ」のことなんだろうか……そんなことをにしたいと思うのだろうか。

「おそらく18歳の少年少女たちにこんなことを言ったら、厳しいだの頭が固いだの時代遅れだのと言われるに決まってる。現代的ではないだろう。小父さんもそう思ってた。だから、小父さんが今公ちゃんに話していることは、とても身勝手で、自分でも出来なかったことを偉そうに言っているに過ぎないんだ」

それは苦しいに違いない。の父親は組んだ手に額を押し当てて、苦悶の表情を浮かべている。

「でもさ、公ちゃんとは距離があまりに近いんだ。その上、とても仲がいい。正直なところ、実は小父さんは公ちゃんをとても信頼していて、公ちゃんが一方的にに何かをするとは思ってない。しかしこの点については小父さんはをまったく信用出来ないんだ」

それは公延も承知している。は、特に公延に対してはアグレッシヴ過ぎて、この件に関しては父親が娘を信じられないのも無理はない。また、よろず温厚である公延が信用に足るのはこれも日頃の行いの賜だ。

「まだ決まってもいない未来に釘を刺すような、見苦しいことを言ってるのは小父さん、自分でよくわかってる。だから、これっきりだよ。公ちゃんとのことについて、小父さんが何かを言うのはこれが最初で最後にする。だから、どうか頭の片隅に小父さんの言葉を置いておいてくれないか。
公ちゃんのことは大好きだ。とってもいい子で、オレの自慢の息子だよ。
だから、の猛攻に負けないでくれ。はすぐ近くにいる公ちゃんともっと仲良くなって、彼氏彼女になりたいって既にそう思ってるはずだ。それに押し流されないでくれ。
公ちゃんが大人になって本当にを好きだって、心からそう思うまで、絶対に負けないで欲しい」

「小父さん」は公延を「オレの息子」と言った。その声が耳にこだまして、公延は大きく、しっかりと頷いた。

「娘を案じるあまり、バカなことを言い出した小父さんとしては、公ちゃんに身も心も逞しい立派な青年になって欲しいとも思ってる。公ちゃんのことは大好きだけど、愚かな怠け者にはやりたくないのが本音なんだよ」

公延はの父親の声色が変わるのを聞いて、勢いよく顔を上げた。彼は、目に涙を溜めてこぼさないよう堪えていた。大人が、それも父親にも等しい男が涙を浮かべているのを見るのは初めてで、公延は動揺を隠せなかった。母親たちならドラマを見てもすぐ泣くけれど、大人の男の涙は少し怖い。

「そうは言っても、まだ12歳の公ちゃんにこんなことを言って困らせて、もしかしたらとふたり、楽しい中高生生活を送れたかもしれないのに、それを邪魔するようなことを言った。一方的に公ちゃんに理想を押し付けるような、バカなことを言ってるとわかってる。だから、これっきりだ」

涙の浮かぶ瞳での父親は公延に微笑みかけた。

「もし今後公ちゃんとがどんな関係になっていこうと、小父さんはもう何も言わない。大事な公ちゃんにこれだけ言いたいことを言った報いだ。もし、公ちゃんがを嫁にくれと言い出しても、小父さんは殴らないし酒も飲まさないし、もしかしたら泣いちゃうかもしれないけど、黙って受け入れるから」

そうおどけながら、の父親は目に溜めた涙を一筋、ポタリと落とした。

「公ちゃんも中学高校と、存分に青春を謳歌して、素敵な大人になってくれな」

そう言って目をぐいとこすりあげたの父親をまっすぐ見上げて、公延は言った。

「小父さん、これは、男の約束なんだよね。僕、きっと守るよ。約束も、も」

眼鏡の奥の公延の瞳は真剣だった。の父親は、たまらず彼を抱き寄せて頭を撫でた。

公延12歳、11歳の冬のことだった。