エヴォリューション

02

「ああなんか緊張する」
「私も朝からずっとドキドキしてるよ」

神奈川県予選決勝リーグである。なんとか予定をねじ込んだ公延は久々に地元に帰ってきた。

「今日はどこと対戦するの?」
「いきなり海南だよ。あーなんか胃が痛い」
「清田くんとか。私たちがきりきりしたって仕方ないのにねえ」

試合会場である某市営体育館に向かうと公延は表情が固い。は宮城と桜木と流川が気になって、公延は2、3年生全員が気になって仕方ない。しかも対戦相手が海南ということで、はともかく公延は余計に緊張している。昨年の死闘が蘇っているのだろう。

「赤木くん来られなかったの?」
「いや、来るはずだよ」
「一緒に帰ってくるかと思ってた」
「何かっていうと文句言うけども大概だな」
「どういう意味よ」
「赤木と帰ってきたらずっと赤木と一緒だろ」

が大概だというよりも、公延がそんな気遣いの出来る人間だと思われていないというのが正しい。

「後で合流はするだろうけど、それまではふたりでいいだろ」

公延は繋いだ手を引き寄せた。

今年の海南ももちろん強い。強いのだが、湘北にとって牧のいない海南には威圧感も恐怖感も感じないというのが正直なところだった。しかも中心となっているのは宮城桜木流川で、特にメンタルが強い3人だ。なかなか決まらないと晴子が零していたスタメンには新入生が入った。これがまた強気だった。

昨年の湘北の試合を見て入学してきたというだけあって、湘北のプレイスタイルをよくわかっているし、桜木のような先輩がいても物怖じしないというだけで相当な度胸だ。彩子や晴子は手を焼いているというが、頼もしい1年には違いない。彼らも海南だからといって怯まなかった。

結果、海南大附属は異常事態を迎えることになる。僅差ながら決勝リーグで1敗を喫したのだ。

観客席はそれこそ蜂の巣を突付いたような大騒ぎ。海南大附属バスケット部というものは、県予選決勝リーグを全勝で優勝して当たり前だったからだ。それに慢心することなどなく、十数年も常に最強であり続けてきたのに、初っ端から黒星がついてしまうとは。

そんな大騒ぎの体育館を公延はの手を引いてこそこそと出た。試合が終わってしばらく経つが、混乱が大きく赤木とも合流出来ず、とりあえず外に出ようと思った。体育館を出たところで公延は湘北の制服を着た男子から声をかけられた。男子生徒は肩に大きなバッグを担ぎ、首から巨大なレンズのカメラをぶら下げていた。

「もしかして、木暮さんじゃないですか?」
「おお、新聞部の、久し振りだなあ」
「みなさんあっちのロータリーの方にいましたよ」
「えっ、ほんとか助かったよ、ありがとう」

公延は人混みをかきわけて体育館裏手の搬入用ロータリーに回った。湘北の選手たちが集まっているのはわかるのだが、人だかりが出来ていて近寄れない。赤木がいればと思うが、生憎どこを見渡してもあの長身は見当たらなかった。

それでもなんとか前に進み出ると、晴子が見つけてくれた。

「ああっ、木暮さん、ちゃーん!」
「えっ、来た!?」
さん!?」

晴子の声に彩子と桜木が顔を上げる。OBよりが優先とは、公延は少し寂しい気がしたが、それがという女である。人だかりが少し緩み、公延はの手を引いて部員たちの方へ近付いていった。

「みんな、すごかったな、おめでとう!……こっちは予想通りだよ」
「木暮さん、ご無沙汰っす!……、来てくれたんだな」

感慨深そうな表情で進み出てきた宮城の肩を叩くと、公延は手を引いてを突き出した。号泣している。

「ほら、言った通りだったろ」
「リョ、リョータくん、私」

上手く言葉にならない。顔もろくに上げられない。公延に背中をさすってもらい、なんとか立っている状態だ。

「途中からずっとこんな。殆ど泣いてたよ」
、みんなかっこよかったでしょう。先輩もこうだったのよ」
さーん、この桜木の活躍見てくれましたか!」

ちょっといいことを言いかけた彩子に被せて桜木が声を上げた。試合後に足がつったとかで、桜木はロータリー外周にあるベンチに座っている。なんとか顔を上げたの目に、にこにこと有頂天の桜木の顔が飛び込んできた。その瞬間、の保っていた理性が全部空のかなたに吹き飛んだ。

「花道ィィィ!」
「うわあああさん!」

は地面を蹴って飛び出し、桜木に抱きついて嗚咽を漏らした。を見るのは初めてでも、その存在は知っている2、3年生に緊張が走るが、公延はもちろん彩子も宮城もにこにこしている。昨年の中間対策合宿以来、と桜木はまるで姉弟のようだったから。

さんマズいっすよ、ちょっと!」
「バカ、花道バカ! なんなのあんたもうやだ!!」

桜木の頭を抱え込んだは締め上げつつ、頭やら背中やらを力任せに叩きつけている。その様子を1年生はぽかんとして眺めていた。一体この女は誰なのか、そして一緒に来たやや影が薄い方は先輩ではなかったか、しかし誰も教えてくれないので声をかけづらい。

「やっぱりこうなるわね」
「でも、気持ちはわかるよ。今日の試合、素晴らしかったな宮城」
「はは、これでダンナに顔合わせられますよ。来てるんでしょう?」
「そのはずなんだが、まだ合流出来てないんだ」

彩子たちがそんなことを話している向こうでは、が今度は流川に襲い掛かっていた。さすがに抱きつきはしなかったが、両手でぽかぽかと殴りかかっている。流川の方も慣れたもので、両手でそれを軽くいなしている。1年生はますます混乱して来た。

「すまん流川。ほら、そろそろ落ち着け」
「平気っす。ご無沙汰してます」
「もうやだ帰るー」

公延が流川から引き剥がすと、は今度は公延と宮城を殴り始めた。初めて見る高校バスケットは刺激が強すぎたのだろう、女子校育ちのは半ばパニックである。その横で訝る1年生に気付いた彩子は苦笑いで説明してやる。

「木暮先輩よ。聞いたことあるでしょ、後で挨拶するのよ。あとあの暴れてるのは先輩の彼女なんだけど、私たちずっと助けてもらってるのよ、主に勉強の面でね」

彩子は顎をくいっと桜木と流川の方に振った。ああ、という遠慮がちな声が上がる。

「なんせアナソフィアだからね、彼女。お近付きになっておいた方がいいかもしれないわよお」

1年生はその言葉に目の色を変えた。アナソフィア女子というだけでも珍しいのに、それが噂に聞く去年の3年である木暮の彼女で、宮城はじめ桜木や流川に遠慮なく殴りかかっているという状況がいまいち飲み込めない。

「彩子、この後学校戻るのか?」
「そう、一度戻ります。後で来ます?」
を落ち着かせたら行くよ。体育館にいるよな。赤木も探しておくから」
「わかりました。OBが来るって言っておきますからね」

公延は泣きすぎてしゃっくりが止まらなくなっているを抱えてその場を離れた。

出来るだけ人のいないところにを連れて行こうとした公延だったが、湘北も海南も人気のあるチームなだけあって、まだまだ体育館の周辺には人が多い。うろうろしている間には少しずつ落ち着いてきたが、赤木に連絡を取ろうにも彼の携帯は繋がらないし、姿も見えない。

その上、うろうろしすぎた公延とはうっかり海南の選手たちと行き会ってしまった。

「まずい、戻ろう」
「あれ、木暮さ……さん!」

逃げようとした公延だったが、またもや清田が気付いてしまった。公延の顔がサーッと青くなる。今顔をあわせたい連中ではない。選手たちの真ん中にいた神がどす黒いオーラを放ちながら、公延を睨んでいる。を連れているとはいえ、公延はあくまでも湘北のOBだ。憎悪が向いてしまうのも無理はない。

清田の方は険しい顔をしながらも落ち着いている。輪を離れ、公延との方へ近寄ってきた。

「ご無沙汰してます」
「すまん、人を探してて迷っただけなんだ、悪いな」
「別にいいっすよ。木暮さんはもうOBじゃないすか。……ってさん、大丈夫すか。泣いちゃったんすか」

どうにも涙が引っ込まないに気付いた清田は、体を屈めて覗き込む。

「あ、き、清田くん」
「かっこわるいところ見られちゃったっすね。ほんとはもっとかっこいいんすよ」
「清田、そんなことないだろ。すごかったよ、試合」
「うん、かっこよかったよ、清田くんすごいんだね、ほんとに、ほんとに……

また涙が溢れてきたは、清田の手を取って俯いた。

「ええと……
「生まれて初めて見たんだ、バスケの試合」
「うわあ、それなのにオレら負けちゃったんすね。すげえかっこわりい。さん、また見に来てくださいよ」

背が伸びて公延より少しだけ高くなった清田は、また屈み込んでに声をかけた。海南の選手たちが後ろにいるので、こそこそした小さな声だったが、清田の天真爛漫な性格を知る公延は肌にちくりと危険信号を感じた。そういえば夏祭りのときにもに纏わりついていたことを思い出す。

「都合がついたらまた連れてくるよ。決勝リーグ、頑張れよ」
「あざっす。木暮さんて今大学っすか」
「そう、赤木と同じところだよ」
「え、じゃあ東京ですかあ。さん、寂しいですね」

やはり清田とは思えないほどの静かで優しい声だった。公延はと繋いでいる左手に力を込める。三井も藤真もいない、流川は極端な一過性、宮城や桜木がいれば少しは安心だと思ってたのだが、こんなところに伏兵がいたとは。まさか顔を合わせる機会もないとは思うが、放ってもおけない。

「そうは言ってもも受験だしな」
「清田くんありがとね、大丈夫、次はきっと勝つよ」
さん……

海南に入学して以降、清田にとっては滅多にない敗北で気落ちしているというのに、憧れのが手を取ってそんなことを言う。清田は照れと切なさが混じって眉間に皺が寄りつつも眉が下がっている。

だが、そんな清田のセンチメンタルな時間はぬっと頭上にさした影に寸断された。

「うわ! 赤木さ……牧さん!!」
「えっ」

清田の声に公延とも振り返る。そこには赤木と牧が並んで立っていた。

「すまん木暮、オレが赤木を引き止めてたんだ」
「すっかり話し込んじまってな」
「あれ、ええと確か夏祭りのときの……大丈夫か」

は真っ赤な目をしたまま牧に会釈した。

「初めて試合を見たんでちょっとパニック起こしてな」
「そうか、初めてが海南の負け試合とは貴重な体験をしたな」
「牧さん、すいません……

偉大な先輩の登場で清田の背後はにわかに色めき立った。赤木が一緒で都合はよかったが、そもそもは迷いこんでしまっただけの公延たちは牧に挨拶をして清田に手を振り、その場を離れた。去り際、繋いでいた手を名残惜しそうに離した清田は、囁くような声でに言った。

さん、またね」

公延はそれを聞き逃さなかった。またね? 清田が言うような台詞だろうか。桜木たちのような、まだまだ幼さの残る1年生だと思っていた清田はいつのまにか背が伸び、顔の輪郭がシャープになり、には声音を使い分けるようになっていた。

まさかもう会うこともないだろうけれど……公延はそう自分に言い聞かせた。

「言った通りだったなあ、。瞼がパンパンだぞ」
「もう散々言われたよ、それ」
「興奮して桜木たちをガスガス殴ってきたもんな」
「ぶっちゃけ殴り足りない」
「桜木ならいくら殴っても構わんぞ」

と公延に赤木は3人でのんびりと湘北に向かっていた。赤木はそのまま帰ってもいいと考えていたようだが、公延が赤木と合流出来たことを彩子に伝えると、絶対に連れてきてくれとせがまれた。1年生たちも全員残っているから、顔だけでも出して欲しいという。

正直は湘北に行くなど遠慮したいのだが、彩子や桜木ともう少し話がしたかった。OBふたりが部員たちと話している間、彩子が相手をしてくれると言うのでふたりに着いて行っている。

「なんだか、みんな違う人みたいだった」
「そうか? 桜木なんかはそう変わらない気がするが……
「まあの前では異様にいい子だからな、あいつ」

コートの上の彼らをよく知る公延と赤木には理解出来ないだろうが、どちらかと言えば気が抜けている状態の桜木たちしか知らないにとっては、彼らの真剣な眼差しは殺気の篭った鋭い眼光にでも見えていたに違いない。しかも今日は両校人気で観客も多く盛り上がった。余計に興奮してしまったのだろう。

もう泣いてはいないが、真っ赤に充血した目のを連れて、公延と赤木は母校の門に足を踏み入れた。

「私どこにいればいいの」
「一緒にいていいよ」
「いやそういうわけいかないでしょ。私まだ他校生なんだし」

体育館に到着すると、赤木は大きな声で迎えられた。公延もさっさと入っていこうとするのをはこそこそとドア口の影から引っ張っている。知った顔はもちろんいるのだが、完全なる部外者というのは居心地が悪い。

「私ここで待ってるから」
「なんだよ、気にすることないのに」

そして関係者というのは得てしてこう無神経なものである。赤木や公延にくっついていき、居並ぶ部員の前で彼女ですと頭を下げさせるつもりだとでもいうのだろうか。普段桜木軍団がうろちょろしているドア口に寄りかかり、は体育館の中を眺めていることにした。

赤木と公延は桜木に冷やかされつつ、後輩たちに笑顔で迎えられている。公延とのことでは面倒くさいことが多くて、そのせいで公延を厭わしく思ってしまうこともあるだが、後輩たちに慕われている姿を見るのは好きだった。自分は5年間耐えていたけれど、公延は素敵な時間を過ごせていたのだと思うと嬉しかった。

赤木は後輩たちを前に今日の試合のことやら、牧と会ったことやらを話して聞かせている。その横で腕組みをした公延がにこにこしている。彩子も晴子も笑顔だ。負けてしまった清田には申し訳ないが、勝った湘北は今幸せな空気の中にいた。

赤木と公延の話が終わると、彩子がやって来た。小走りで近付いて来て、ぎゅっと抱きつく。

〜見てもらえて嬉しいわあ」
「んもー、泣きすぎて目が痛いよ〜」

彩子は満面の笑みでに抱きついたまま揺れている。

「先輩たちがいなくなってからでよかったわよ、。見ない方がよかった」
「うん、そうだね。それでよかった。アヤちゃん、ごめん、ありがと」

見なくてよかったのだ。泣くほどかっこいい公延も、三井も。