回帰

01

が大学に進学してからというもの、彼女の身辺から高校バスケットという世界は急速に遠くなっていった。にも新しい世界が開けたし、例えば湘北バスケット部ひとつ取っても、よく知っているのは3年生だけなので、以前のようにひっきりなしに顔を合わせることもない。

学業の方で成長が見られないふたりの主力選手の勉強の面倒を見るという妙な習慣だけは残ったが、それもふたりの進路が決まり、卒業も問題がない頃になると、必要がなくなった。

の周囲を騒がせていた三井や藤真、清田といった連中も会う理由がどんどんなくなっていってしまった。彼らも自分たちの世界でそれぞれに頑張っている。広がっていく世界の中で、という要素は少しずつ小さくなっていったのだろう。

関係も距離も変わらないのは赤木兄妹くらいだろうか。彩子と宮城でさえ、は連絡を取る機会が激減した。アナソフィアで仲の良かった友人ですら似たような状況だ。携帯のアドレス帳の登録件数は増えるが、履歴のラインナップはすっかり様変わりしてしまっている。

その中で一切の変化がないのは公延だけで、彼を通しての周囲に存在していた諸々のものは、ひとつひとつ零れて剥がれて、いつのまにか遠くに置いてきてしまったようだ。それを思い返すこともなくなっていく。

公延と一緒にいて話が出れば思い出すし、懐かしく思うし、近況なら聞きたいとも思うがそれだけだ。

そうして公延は大学を卒業し、それを期に「バスケット選手」という側面をきっぱりと捨てた。無事に就職も決まったので、彼にとってバスケットは人より熱中していた過去になり、乱暴な言い方をすれば「趣味」になった。それは赤木も同じで、ふたりはしばしバスケット禁断症状と戦う羽目になった。

その翌年、今度はが卒業を迎える。「公ちゃんのお嫁さん」が将来の夢である彼女にとっては大学も就職も要は暇つぶしなのであるが、皮肉にも有能な人物であるので、家庭に入る前提であることはどこでも惜しがられた。だが、物心ついたときからの夢だ。誰がなんと言おうと覆らなかった。

そんなわけで、は大層な学歴を手に父親の口利きでとりあえずの仕事に就く。近いうちに結婚をする上に子供が出来たらすぐに辞めたいというふざけた希望だったが、厚待遇は望まないのだし、自宅最寄り駅にある父親の後輩がやっている不動産屋に事務職として引き受けてもらえることになった。

そうしてが働き始めた年の秋頃、就職して2年目の公延は、日曜だというのにスーツを着てネクタイを締め、自分の部屋を出た。職場は地元から通えるところなので、東京の部屋は引き払って戻ってきていた。階段を降り、両親のいるリビングに顔を出して声をかける。

「じゃあ行って来るよ」
「本当にひとりでいいの?」
「親が着いていく方がおかしいだろ」
「そりゃそうだけど……

苦笑いの公延だが、彼の母親は気が気でない。

「お母さん、男の大勝負なんだからひとりで行かせなさい」
「でも普通とは事情が違うでしょ」
「そういうのは後で女だけでやんなさい」

真面目な顔でそう言う両親のやり取りにくすくす笑いながら、公延は時計を見る。ちょうど約束の時間だ。

「そんなに長くかからないと思うよ。何かあれば呼ぶから」
「そんなこと気にしなくていいから、しっかりやってこい」
「ありがとう。じゃあ行って来る」

まだ気を揉んでいる母親と、それを宥める父親をリビングに残して公延は家を出た。家を出て数歩で足を止め、インターフォンを鳴らし、応対を待たずに玄関ドアの前まで歩いていく。ドアの向こうで何やらバタバタと騒ぐ音がしている。公延は緩んでしまう頬を落ち着かせて背筋を伸ばした。

公延は今日、の両親に挨拶をするのだ。娘さんを下さい、と。

インターフォンを鳴らしてからたっぷり30秒は待っただろうか。家の玄関ドアの向こうからはまだドタバタという大きな音が聞こえてきていて、親子3人の慌てぶりが伺えるようだ。庭の方からリビングを覗いてみようかと思うが、公延はじっと我慢する。今日ばかりは馴れ合ってはいけない。

「ごめん公ちゃん! あ痛!」

突然ドアが開いて、が転がり出てきた。

「大丈夫か、そんな慌てて」
「ごめん、お母さんがなんかもうちょっとパニック起こしてて」
「なんだこっちもか。うちも母さん落ち着かなくて」

公延の母親が言うように「普通とは事情が違う」せいだ。ふたりの母親にとってふたりの子供はどちらも自分の子にも等しく、のことを考えても公延のことを考えても心配でいてもたってもいられない。緊張は2倍だ。

「ふうん、公ちゃん、かっこいいじゃない」
「えっ、特に何もしてないけど」
「気持ちの問題じゃないの」

そう言われてしまうと途端に居心地が悪くて、公延はわざとらしくネクタイを締めなおす。

「大丈夫そうだね。行こうか?」
「あ、ちょっと待った、、先に少しだけ」

ドアの隙間から家の中を覗き込んだの手を引いて、公延はを正面に置いた。

「な、なに」
「時間、かかっちゃってごめん。しかも改めてちゃんとプロポーズとかしてないのに挨拶が先になっちゃって、それもごめん。指輪も間に合ってないし、家もまだちょっと時間かかりそう」

慌てて言う公延に、はぷっと吹き出す。

「そんなこと気にしてたの。公ちゃん、もう私たちを邪魔するものなんて、何もないんだよ」
「そりゃそうだけど、とにかくごめん」
「もういいよ、後でまたゆっくり話そ」

は公延の手を引いて、玄関ドアを開いた。そこには、の両親が並んで待っていた。緊張が取れていない母親と、険しい顔をしている父親は、と公延が入ってきても、何も言わなかった。

「お休みのところ、お時間を取って頂いてすみません」

一歩引いたの手を離した公延は、ふたりに向かって頭を下げた。そして顔を上げた――次の瞬間。

「公ちゃん!!」
「えええええええ」

なんと靴も履かずに玄関に飛び降りたの父親が、公延に飛びついて抱き締め、嗚咽を漏らしながら泣き出したのだ。公延も感極まって抱き返す。の母親は驚いて声を上げたきり、何も言葉が出ない。何やってんだこの人たち、という目をして固まっている。

だが、男ふたりには相通ずるものがあるのだ。約束と12年という時間である。

「小父さん、オレ、言いつけ通りには結局……
「いいんだ、そんなことはもういい、公ちゃんには感謝してる」

抱き合う男ふたりにの母親はわけがわからなくて傾いている。

、なんなのこのふたり、気持ち悪い」
「お母さん聞いてなかったのね……お父さん公ちゃん、ちゃんと説明してよ」

に背中を押された公延は、男泣きのの父親と共に家へ上がりこんだ。リビングへ通されると、ひとりだけ事情がわからなくてむくれるの母親と、まだまだ語り足りないの父親に挟まれてしまい、娘さんを下さいどころではなくなってしまった。

それこそ「普通とは事情が違う」わけで、今後のためにも、も例の「約束」についての説明はあった方がいいと思っていたし、30分くらいは我慢していた。だが、の両親は公延と楽しくお喋りをしていて、ちっとも「娘さんを下さい」が始まらない。

お茶を入れては3人が話しているのを黙って聞いていた娘さんは徐々に苛々しはじめ、とのことにとりあえずは関係ないインターハイの話が始まってしまったところでブチ切れた。

「ちょっと! 何の話をしに来てるのよ!!」

そこで3人は今日が「娘さんを下さい」のための集まりであることを思い出した。慌てて公延は夫妻の間から飛び出ると、ふたりの正面に正座して手をついた。まだ若干鼻息の荒いも、公延の斜め後ろで膝を揃えて正座する。

「ええと、順番がおかしくなってすみません。――お父さんお母さん」

公延がそう言った途端、ふたりはぶわっと涙を流す。はため息。

さんを、僕に下さい。との結婚を、どうかお許し下さい。お願いしま――
「もちろん、もちろんだ公ちゃん、こちらこそよろしくお願いします」
「これで本当に私たち家族になれるのね」
「ふたりともひどい! ちょっとは惜しむとかないの!」

娘さんはまた憤慨しているが、夫妻は公延が晴れて自分たちの息子になるということが嬉しくてならない。

「そうは言うけどね、お父さんたちはお前が幼稚園の頃に『公ちゃんのお嫁さんになる』って言い出してから20年近く、この日のことをずっと覚悟する日々だったんだからな。もう今更惜しむもんか」
「そうよ、だいたいあんたは口を開けば公ちゃん公ちゃん、それしかなかったじゃないの」

これは反撃出来ない。その上父は、あんな約束をさせておいたくせに、勝ち誇った顔で畳み掛ける。

「それに、東京だってよかったのに、わざわざこの辺から通える所に就職してくれて、近場に家まで見つけてきてくれて、それで娘はやらんなんて言う親がどこにいるよ」

それはそれ、これはこれ、なのだが、はとりあえずこれも反論出来ない。

「あ、その家なんだけど、もう少し時間かかりそうで」
「いいわよそんなの、少しここを離れるのが遅くなるってだけでしょ」

公延が見つけてきた「家」というのは、来春から長期海外赴任が決定している上司の持ち家のことだ。今ふたりがいるこの家の最寄り駅からほんの2駅の場所で、少なくとも5年は帰らないというので借りることにしたのだ。上司の方も渡りに船だったようで、結婚のご祝儀だと言って家賃を1年タダにしてくれた。

「さあさあ、それじゃほら、公ちゃん、今日は飲もう!」
「今日は私も混ぜてね!」
「え、もう終わり!?」

堅苦しい話をしたいわけではないのだが、は自分が晴れて「公ちゃんのお嫁さん」になるというのに、どうにものけ者にされている気がしてならない。キッチンへすっ飛んでいって酒を用意している両親に怒りが沸く。その間に挟まれている公延は何も言えない。

「もういい! 私、公ちゃん家行って来るから勝手に飲んでれば!!」
「えっ、ウチ!?」

は家を飛び出し、いつものように庭から木暮家に飛び込んだ。慌てて後を追おうとした公延だったが、夫婦に捕まって身動きがとれない。は驚く木暮夫婦に全てブチ撒けると、こっちはこっちで気が気でなかったふたりに囲まれて似たような歓待を受けることになった。

と公延、それぞれが解放されたのはすっかり日が暮れてからだった。両家の両親は天にも昇る気分で酒も入り、今度は子供ふたりを放り出して馴染みの店に繰り出してしまった。ぐったりと疲れたと公延は、家のリビングでひっくり返っていた。

「もうなんなのこれ〜主役は私たちなのに〜」
「まさか交互に捕まるとはなあ」
「とりあえず公ちゃん着替えておいでよ、私たちも外で食べてこよ」

疲れているし、おそらく両親2組は遅くなるだろうから、ふたりは駅前で食事を済ませると、ぶらぶらと歩きながら帰ってきた。こんな風に並んで地元を歩くのは久しぶりだった。見慣れた景色が少し縮んで見える。

「結局私、一度もひとり暮らししなかったなあ」
「ひとり暮らししたかった?」
「そう言われるとまあ別にそういうわけでもないんだけど」

どちらの家でも構わないのだが、ふたりはとりあえず家へ入る。リビングは酒宴の跡がそのままで、自分は関係ないとは一切手をつけずに公延を自室へ押し込んだ。窓を開けると、やっと温度の下がり始めた外気がするりと流れ込んでくる。

、指輪も間に合ってないんだけど」
「まだ言ってるのそんなこと」
「いや、そうじゃなくて」

学習机がなくなった代わりにの部屋にはふたり掛けのソファが入った。そこに腰を下ろした公延は、の手を取って横に座らせる。の左手にはホワイトゴールドとルビーが輝いているが、もうしばらくしたら今度はプラチナとダイヤに代わる予定である。公延は咳払いをひとつ。

「何年も前に言ったようなもんだけど、、オレと結婚して下さい」
「公ちゃん……

は何度も頷く。ほんの4、5歳の頃からの夢がやっと現実のものとなる。

「はい。私を公ちゃんのお嫁さんにして下さい」
……もうこれからは、離れないからな」

感慨深いのは公延も同じ。静かに寄せた唇が重なると、の右目から一滴、涙が零れ落ちた。