バイプレイヤーズ!!

05

バイプレイヤーズ・フォーエバー!!!

3月、式次第が終わり、湘北高校の正門付近は卒業生でごった返していた。遊びに行く相談をしている者、別れを惜しむ者、せっかくの学ランなのでボタンをもらう女子、ボタンあげようかと聞いて断られる男子、様々であるが、その一角ではちょっと面白いことが起こっていた。

「あっちはまだわかるんたけど、これは正直、意外過ぎて」

腕組みをして唸っているのは会長だ。本日卒業生答辞を仰せつかった彼女だが、何しろあまり情緒的な性格でないので、元気に明るく読んでしまい、いわゆる泣きの演出が飛んだ。その会長が驚愕の表情で見ているのが、目の前にいるキャップである。何と、ボタンがひとつも残っていない。

「内訳は?」
「密偵3人、ロミオ、
!? あいつ木暮がいるだろうが」
「それがその木暮と一緒に来てさ」

要するに、全員「感謝を込めてボタン下さい」だった。5つあるボタンは完売、貰い手がなかったら可哀想だからという割と失礼な動機で貰いに来たロミオ含め、キャップの学ランは途端に締まりがなくなった。

「おお、会長残念だったね、キャップのボタン残ってないよ」
「ロミオ。いやまさかキャップが完売するとはさ」
「あれ、聞いてない? キャップのボタン、対人関係のご利益があるって評判なんだよ」
「いやわけわかんないから。仏像かよ」

昨年末から妙に仏にされるキャップはまた吹き出した。対人関係のご利益があると割と本気で思っているのは密偵3人だ。コミュ障なので必死な顔をしていた。対しては、赤木のボタンももらってきたらしく、木暮のものと合わせて全部繋げておくんだと嬉しそうだった。彼らも無事合格、カップル進学である。

「それにしてもあっちはすごいね。気持ちはわからんでもないけど……
「全部引きちぎって投げて逃げてくればいいのにねえ」
「どっちも引き下がらないから悲惨だな」

三井だ。女子に取り囲まれてボタンをせがまれているが、数には限りがあるし、これと決めた人もいないので乗り気でないらしい。どうやったら逃げられるかを必死で考えている顔をしている。そこへ密偵3人と青田が連れ立ってやってきた。青田のボタンも密偵3人に取られたらしく、こっちは下から3つがなくなっている。

「よかったね魔王さま、ボタンなくなって」
「ロミオ、憐れむような目で見るなよ」
「会長、こっちは身体健全のお守りになるんだってよ」
「まあ、胸毛が眩しい魔王だしな」

また密偵が真剣な顔で頷いていると、と木暮もやって来た。

「魔王さまやっと見つけたー!」
「おう、木暮もお疲れ」
「魔王さまボタン下さい!」
「おう!? 何言ってんだ、木暮の貰えばいいだろ」
「それもあとで貰うよ。キャップと赤木くんのももらったの」
「全部繋げておきたいんだって。予定がなかったらくれないか」

と木暮はまるで邪気のない顔でにこにこしている。予定はないがなんとなく諦めきれない魔王さまは、しばし唸っていたが、やがて第一ボタンを引きちぎり、に差し出した。

「これで勘弁してくれ」
「えっ、どうして、充分だよありがとう!」
「いいのかよ木暮」
「まあボタンくらい。てか三井のも欲しかったんだけど、厳しそうだなあれ」

こだわりのない木暮はと一緒に関係者ボタンハント気分になっている。そこへヒヨコもやって来た。

「三井すごいねー。さすが」
「ねえねえ木暮、三井ってほんとにバスケ上手いの」
「そりゃもう」
「そうか……もし将来有名な選手になったりしたら……
「会長、最後まで下衆だね……

だが、知った顔が近くに現れた三井は逃げ出して来た。必死な顔で走ってきて、木暮の肩にすがりつく。

「お前らいいところに! ヒヨコ、、会長、浅間、あとえーと、よし、木暮! これ、貰ってくれ!!!」
「ええええええ!!!!!!」

三井は勢いよくすべてのボタンを引きちぎると、木暮を含めた5人に押し付け、校章は素早く外してポケットに隠した。そっちは自分で取っておきたいらしい。だが、男からもらうつもりのない木暮は真剣に目が泳いでいる。

「ちょっと待て三井、オレはいらない……
「うるせーな、男女差別すんな。ボタンくらい……よしわかった」

突き返されても困る三井は、木暮の一番下のボタンを勝手にむしり取った。

、交換で付け替えといてくれ」
「おっけー!」
「マジかよ」
「てか三井、私らも貰っても……

特に接点の少ないロミオは持て余し気味だ。

「いいからいいから。お前らには体育祭で世話になったから、貰って欲しい」
「欲しがってる子いっぱいいるのに……
「その中からどうやって5人に絞るんだよ、ヒヨコ、お前はお守りにしとけ、いいな」
「お守りねー。何のご利益……あ、歯の健康とか」
「またそのネタかよ!!!」

黙って成り行きを見ていたキャップが激しくむせる。

「ま、そんなわけだから、お前らも元気でな!」
「おう、またな」

ボタンの件が片付いたので、三井はやっと肩の荷が下りて、友人たちのところへ戻って行った。それを潮に、と木暮、青田も去っていく。会長と密偵3人も離れていく。後にはキャップとヒヨコとロミオが残った。

「ボタンはもらえてよかったけど……ヒヨコ、言わなくてよかったの」
「えっ?」
「三井のこと、好きだったんだろ」

ヒヨコの肩やら背中やらに手を添えて優しく語りかけたキャップとロミオだったが、直後にヒヨコが音を立てて吹き出した。一緒にしんみりしてやるつもりだったキャップとロミオは驚いて身を引いた。笑うとこ違うですよ。

「何、ふたりともそう思ってたの!?」
「え、違うの……
「私そんなこと一度も言ってないじゃん」
「そ、そうだっ……け?」

すっかりヒヨコは三井が好きなのだと思い込んでいたふたりは目を丸くして首を傾げている。

「三井とは将来の夢の話とかして、それですごく勇気もらって感謝してるけど、好きというわけでは」
「そ、そかそか、それはごめん勘違いしてたマジごめん、おおキャップ、編集長どうしたよ」
「あのバカはまだPC室だよ。移し忘れてたデータがあるとかで。まだかかる」

ヒヨコがあまりにも心外という顔をしているので、キャップとロミオは笑顔でそんなことを話しているが、目が笑っていない。そのふたりを見たヒヨコはゆるりと微笑む。

「ふたりはいないの、好きな人」
「オレは今そういうのちょっといらない感じ」
「教習所の先生がかっこよかったけど既婚者だった」
「そ、そうか、うん……

妙に気まずい空気が流れたが、人が少なくなり始めた正門付近には春の風が吹き込む。ヒヨコは舞い上がる髪を抑えて、手のひらの中の三井のボタンに目を落とした。

「もう卒業しちゃうけど、好きな人に、好きって言った方がいいのかな」
「え、ヒヨ……うん、言ってきなよ、言った方がいいよ」
「言うだけ言って逃げてきたっていいじゃん、頑張れヒヨコ、もしなんだったら待っててあげるよ」

これはこれで衝撃の告白で、キャップとロミオは一瞬で興奮状態。ふたりともヒヨコの肩や背中をバシバシ叩いて大丈夫を連呼した。ヒヨコは頬が強張って、ぎこちない笑顔になる。

「でも恥ずかしいなやっぱり……迷惑とか言われるかもしれないし」
「そしたら走って逃げておいでよ、ついでにボタンブッ千切って奪っておいで。もし何か失礼なこと言われちゃったら、私今日イトコと工場のお兄ちゃんたちが卒業祝いしてくれるんだけど、一緒に行こうよ。焼き肉とカラオケだから、元気出るよ! うまくいったらそう連絡くれればいいだけだし!」

姿勢よく胸を張るロミオのよく通る声に、ヒヨコの目が開く。

「ヒヨコ、友達としてだけど、オレも好きだよ。ひとりじゃないから、頑張れ」
「おお、私も好きだよ! みんなヒヨコのこと好きだから、ちょっと言っておいで!」
「う、うん、陽里ちゃん、廣瀬、ありがとう、私も好き」

ふたりの言葉に勇気づけられたヒヨコは、ロミオの手に押し出されるようにして去って行った。

……超展開だな」
「ロミオ、どうなったか連絡来たら後で教えてくれ」
「おう、任しとけ。んじゃ私も帰るわ」
「直接会社?」
「そう。みんなが仕事終わるの待って、それからカラオケ、焼き肉!」
「オレは明日昼からだから、またよろしく〜」
「編集長のお守り大変だけど、キャップも最後だから頑張れ」

そうして、ほとんど人のいなくなった正門前に、キャップはひとり残った。しかし編集長のデータコピーにはまだまだ時間がかかりそうである。腹減ったから駅前のファストフード店にいるよ、と連絡をしたキャップもまた、湘北を後にして歩き始めた。

キャップとロミオの勢い余った応援の言葉に背中を押されたヒヨコは三井のボタンをぎゅっと握りしめ、早足で歩いていた。ドン底までグレていた三井が髪を切って喧嘩吹っかけたバスケット部に戻ったのは、とんでもなく勇気のいったことだっただろう。それに比べたら些細なことだと自分に言い聞かせる。

好きなんだという自覚が出てくるのには、少し時間がかかった。好きだという感情だと思っていなかった。けれど、気付いてしまった時には、その気持ちはきれいに恋の形を象っていた。

見込みはゼロ、むしろマイナスという気しかしない。容姿にも性格にも、その他のどんなことにも自信なんかない。声だって、アフレコ体験で褒められるまでは変な声だと思っていた。ずっとコンプレックスだった。けれどその声は自分を夢に導いてくれる光になった。

会長のふざけた悪巧みのおかげで、その声を体育祭で少し活躍させてやることが出来た。だから、高校生活の締めくくりに、自分の声で気持ちを伝えてみたくなったのだ。

見込みはゼロなので、キャップとロミオの言う通り、言うだけ言ったら逃げてこよう。幸い今日で卒業なのだから、うっかり顔を合わせてしまうこともないだろう。好きだということ、そして人を好きになれたことへの感謝を伝えてこよう。例え伝わらなくても、この湘北高校に気持ちを置いてこよう。

ヒヨコは大きく息を吸い込み、足を止めた。PC室である。

ドアは少しだけ隙間が開いている。中からは、カチカチというクリック音が聞こえてくる。夏場は熱地獄のPC室だが、寒い時期は全機稼働させると中々に暖かくなる。授業では何度も足を踏み入れた教室が、こんなに緊張する場所になるとは。ヒヨコはたっぷり3分ほどもその場でうろうろしていた。

だが、うろうろしていても時間が過ぎるだけで、何も変わらない。ヒヨコは意を決してドアに手を掛ける。喉はカラカラ、手は汗ばんでいる。ポケットに移動させた三井のボタンにもう一度触れ、気合を入れる。遅くも早くもない速度になるように気をつけながら、ドアを引く。その音に、中から声がする。

「すまん、まだ終わんねえんだ、もう少し待ってくれ」

ヒヨコは一歩踏み出し、後ろ手にドアを閉めると、声のする方へと歩いて行く。PC室は絨毯敷きなので、足音はほとんどしない。自分の足の裏にだけ、サクサクという感触が伝わる。そして、声の主の近くに立ったヒヨコは、肩にかけたバッグのストラップをぎゅっと掴むと、声をかけた。

「編集長」
「うわ!? なんだよお前か。おどかすなよ、キャップかと思った」

どう考えても100%キャップしか来ないわけで、編集長は珍しく本気で驚いてキャスター付きの椅子で後ろの方へ滑って行った。編集長がいじっていたPCにはポータブルHDDが繋がれており、大容量のデータを転送中のダイアログがモニタに表示されている。

「どうしたよ、なんか用か? あ、DVDはもう在庫ないぞ100枚スピンドル全部使いきったからな」

編集長が暇潰しにやっていたゲームらしきウィンドウを閉じながらそんなことを言うので、ヒヨコはいくらか気楽になった。まさかここで告白が来るとは露ほども思っていないに違いない。

「ううん、そうじゃなくて、ちょっと、話、いいかな」
「おお、何だよ一体」

ヒヨコはまた少しだけ編集長に近付くと、きょとんとした顔で見上げている編集長に向かって、話し始めた。

「体育祭の時さ、会長と編集長に実況で選手を『イジれ』って言われて、私そんなこと出来ないって思ってて、ていうかそんなの放送部のすることじゃないし、人のこと悪く言って笑いを取るなんて最低だと思ってて」

結局イジりの内容は密偵その2が持っていた情報を元にキャップが考えたので、個人を侮辱するようなものにはなっていなかった。しかしそれでも、ヒヨコのように生来善良そのものというようなタイプには荷が重かった。

「そんなことを強要してくる編集長も何考えてるのかわかんなくて、ロミオと一生懸命練習したけどダメ出しばっかりで、あの頃は編集長のこと大嫌いだった。私に人の悪口を言わせようとしてるって、そう思えて仕方なくて」

そんなだから、やる気もないし、のためと思いはするけれど、気乗りがしないので、いくら練習しても上達するわけがなかった。ロミオも根気よく指導してくれたが、それもちっとも身につかなかった。

「だけどそれって、私が、ほとんどアドリブの実況なんて放送部のやることじゃないって思ってた、ってだけで、ちゃんとあの時の自分の役割に向き合ってなかっただけで。だけど、レースの間はもう夢中で、なんとかしてたちのことがバレないようにしなきゃって必死で――

それでもヨコシマな会長と違って善良なヒヨコだったおかげで、部活対抗レース「湘北クエスト」最大のピンチは最高のフォローを持って回避されたのである。

「それで、終わった後に、編集長、言ってくれたでしょ、ただ原稿読むだけでそれが声の表現なわけがないんだからな、って。私、本当にそう思ってた。いい声だって褒められたから、その声で上手に読めばいいんだって思ってたことに気付いて、私そんな程度の考えで声優目指してたのかって、びっくりして」

一生懸命話すヒヨコを前に、編集長はまだポカンとした顔をしている。何の話なのかわからない様子だ。

「そこから少しずつ自分の夢に対しての考え方とか、覚悟とか、たくさん見えてきて、応援してるって言ってもらったり、褒めてもらったりして、それも体育祭の実況があったからで、文化祭のナレーションも、やらせてもらえて本当に嬉しかった。今度こそちゃんと自分の役割と向き合えたし、喜んでもらえたし、少し自信も、ついて」

そんな風にヒヨコの目の前が晴れるきっかけになったのは、他でもない編集長の言葉だった。

「だから、その、諏訪、諏訪くん、本当にありがとう。色んなアドバイスくれて、感謝してます」
……お、おお、そう、なんか」

編集長はまだわけがわからない顔をしていて、ぼんやりと返事をした。その編集長を見下ろしていたヒヨコは、言いたいことを言い終わってしまった開放感からか、感謝を伝えるだけで、告白はしなくてもいいんじゃないかという気になってきた。好きは感謝の副作用で、主成分ではないような気がして。

「もっと早くに言わなきゃいけなかったんだけど……聞いてくれてありがとう」
「いやオレ別に、そんな大したことじゃ……何も考えてなかったぞ」
「いいのいいの、ナレーションの練習の時にもらったアドバイスもすごく参考になったよ」

ヒヨコはそのナレーションの練習の時に好きだと自覚してしまった。放課後、放送室でふたりで練習した時間はとても幸せだった。その時のことは一生忘れないと思った。そしてこれで別れるのだと思ったら、悲しいのと同時に、少しだけ欲が出てきた。ボタンを握りしめていた手がじわりと熱くなる。

……元気でね。色々ありがとう」
「お、おう、お前もな。専門頑張れよ」

一度だけでいい、あなたに触れたい――熱くなるばかりの手をヒヨコは差し出した。

握手にも驚いている風な編集長だったが、まだポカンとしつつ、ヒヨコの手をそっと握り返した。だが、するりと手のひらが握り合わされた瞬間、ヒヨコの目からポタリと涙が落ちた。

あなたが好き、誰よりも好き、離れたくない。

そしてその気持ちは息をするように唇から飛び出てきた。

「好き」
……は!?」

言ってしまってからヒヨコは何をしでかしたか気付き、その場で凍りついた。ヒヨコの肩に掛かっていたバッグがどさりと床に落ちて、卒業証書の入った筒がコロコロと転がる。直後、ヒヨコとは逆に瞬間沸騰状態で飛び上がり、握手したまま大慌てになったのは編集長である。顔が真っ赤だ。

「お、おま、どうしたよ何の冗談だ、そんなこと言っても何も出ないぞ、泣くようなことかよ、いや待て、そうか会長か? 最後の締めになんかドッキリやりたいとかそういうことだろ! キャップを騙すのは心苦しいからオレにしたんだろ、どこで撮影してんだよ、キャップもいるのか? なあ、お前なんでこんなこと引き受けたんだよ、また断れなかったのか? それで、嫌で、泣いてるんだ、ろ、なあヒヨコ、そうじゃ、ないの、かよ――

ベラベラと思いつくまま喋りまくった編集長だったが、手を繋いだまま自分を見上げているヒヨコの表情が変わらないので、徐々に尻すぼみになっていき、最後は掠れた細い声を残して黙ってしまった。

「誰も、何も関係ないよ、嘘でもなくて、全部本当で――
「いやおかしいだろ、映像部だぞ!? オレだぞ!? キャップならまだわかるけど、おかしくね!?」
……ごめん」

目が泳ぎまくっている編集長は無理矢理笑おうとしていて、頬がひきつっている。編集長の言葉は決してヒヨコの気持ちを嫌悪したり迷惑に思っているなどとは言っていないけれど、それでもヒヨコは気持ちがしぼんできて、また涙が溢れてきた。

「ただ、今日で最後だから、少し、話したかっただけなの、ごめん、ごめん、ね――

ヒヨコは俯いたまま、繋いだ手を解いて逃げようとした。だが、編集長はその手をぎゅっと掴んで引き止めた。

「嘘じゃ、ないのか」
……うん」
「気持ち悪いんじゃないのかよ」
「そんなこと、ないよ」
「お前、オレのこと、す、好きなのか」
……うん、好き、です」

ぼそぼそと言うなり、ヒヨコは抱きすくめられて硬直した。編集長の方もきちんと腕をヒヨコの体に沿わせてやれず、かき合せたような格好になっている。ふたりとも心臓が破裂するのではと思いながら、他に何も出来ない。

キャップはそんなこと、なんて言っていたけれど、編集長は恋愛なんてものは自分の人生には存在しないイベントだと思っていた。それを周りの人たちのように渇望する感覚もなかった。友達に彼女ができればめでたく感じたし、彼女優先になってしまってつまらないとは思うけれど、羨んだりはしなかった。

そんなわけで、改めて言われれば興味がないわけではないのだけれど、きっと自分は二次性徴を過ぎても本能の方が少々鈍くできているんだろうと結論づけていた。女の子に対しての興味なんかは、人並みよりちょっと少ない程度、そんなところだろう。

だがそれは、編集長の楽しい毎日の中に埋もれて静かに眠っていただけだったらしい。

ガチガチになっていた腕が少しずつ解けて、しっかりとヒヨコの体を抱き締める。ヒヨコの髪から立ち上る優しい香りに、背筋にぞくりと痺れが走る。やがて恐る恐るヒヨコの腕が背中に伸びてくると、それがもうたまらなくくすぐったくて、けれど胸を激しく疼かせる。

「ヒヨ、ヒヨコ、ごめん、名前、下の名前知らない」
「智紗」
……智紗。智紗」

口元がむずむずするのに言わずにいられなかった。編集長に耳元で名前を呼ばれたヒヨコはそのたびにびくりと体を震わせる。こんな風に抱き合っていて嬉しいに決まっているのに、震えが止まらないし、緊張がピークを超えてしまって、少し怖くなってきた。

「オレなんか、自分でも何がいいんだろうって、思うんだけど……
「そんなこと、ないのに」
「うん、ヒヨ――智紗がそう言うんだったら、それでいい」

ほの暖かいパソコンが一台静かに起動しているだけの教室、やがてふたりは身を引き、編集長はややあってから体を屈めて顔を近付けた。ヒヨコも少しだけ爪先立って首を伸ばす。

……彼女に、してくれるの」
「なって、くれるんなら」
「なりたい、編、じゃなくて、周路くんの彼女になりた――

言い終わらないうちに、キスが降りてきた。ぎこちなくて固かったけれど、静かで優しいキスだった。それを2度、3度と繰り返す。言うだけ言ったら逃げるしかないと思っていたヒヨコは、胸が一杯になってしまい、また一筋涙をこぼす。まさか受け入れてもらえるなんて、思っていなかった。

「周路くんは、私でいいの」
「いいのって、嫌な理由もないし、その、ありがとう」

編集長はまた両腕にしっかりとヒヨコを抱き締めてゆらゆらと揺らした。

「オレ、あんまり複雑な精神構造してないし単純だし、好きになってもらって嬉しいから、だからオレも好き」
「そ、そうなの……
「智紗大好き、彼女になってくれてすげー嬉しい、オレ超大事にするから!」

単純というより、編集長の場合は感情の回路が常に一方通行なのである。好かれた嬉しさはいつものようにプラスにばかり働き、あっという間にヒヨコが可愛くて愛しくてならないほどに変化していく。まあ、それは時として大袈裟な成長を見せ、慣れたキャップでも驚く突飛な発想になることも、珍しくない。

「だから智紗、オレと結婚しよ!!!」

――そう、こんな風に。

驚愕にあごが外れそうになったのはまずキャップである。頑張れと送り出したヒヨコと、データのコピーを忘れたと言って卒業式の日までPC室に戻って行った編集長が照れくさそうにくっついた自撮りが送られてきたので、キャップはファストフード店であやうく悲鳴を上げるところだった。ポテトは吹き出してしまった。

先に帰るからふたりでゆっくりすれば、と返したのは、気を利かせたからではなくて、衝撃が強すぎてドッと疲れてしまい、早く帰りたくなったからだ。ヒヨコの好きな人が三井ではなく編集長だったというだけでも驚天動地の大事件という感じがするのに、それをすんなり編集長が受け入れてこんな自撮りを送ってくるとは。

そしてそのショックを抱えたまま、翌日。小さな社員食堂でキャップはふたりの画像をロミオに突きつけた。

……………………意外過ぎてどう反応したらいいかわかんない」
「オレも昨日はなんだかショックで食欲なかった」
「わかるわ……

どちらも友達だから喜びたいけれど、完全に明後日の方向から襲いかかってきたので、反応が鈍い。

「あれ、私のとこにも来てた。周路くんと付き合うことになりました、ってうわあ、周路くんうわあ」
「こっちは『嫁ゲット』だもんな。てかあいつらコレ会長にも送ったらしくてさ」
「なんでまたそんなデンジャーゾーンに」
「一応体育祭がきっかけだからじゃない? 会長パニック起こして電話してきた」

なんかヒヨコに申し訳ないことしたんじゃないだろうか、本当に編集長で大丈夫なんだろうか、画像はラブラブ風だけどヒヨコがこれから酷い目に遭わされるんじゃないだろうかと会長は本気で心配し、それはつまり自分のせいということになるのでどうしよう、と半泣きで電話かけてきた。相変わらず失礼だ。

「まあその、ヒヨコが幸せならそれでいいけど、編集長って女興味ないんじゃなかったの」
「ゼロってわけじゃなかったんだけど、まあ、告白されて爆発しちゃったんだろうな」
「ああ……バカップルになりやすいタイプだ……
「既にそんな匂いがするんだよな……
「キャップ、がんば……

ふたりは目がマジの苦笑いだが、やがて揃ってため息を付き、携帯を覗き込みながら緩く微笑んだ。

「誰だよ、負け慣れてるとか言ってたの。全然負けてないじゃん。超幸せそうじゃん」
「ショックが抜けてくると、なんか嬉しいよな。周路がこんな顔してるの初めて見た」
「ほんとほんと、三井みたいなのに比べたら私らなんて脇役みたいなもんだけどさ、嬉しいよね」

ニマニマしているロミオに、菩薩のキャップは顔を上げるとビシッと言い放つ。

「元ブタカンのくせに何言ってんだ。脇役がいるから主役が成り立つんだろ」

一瞬きょとんとしたロミオだったが、また携帯に目を落とすと、にんまりと目を細める。

「それに、誰だって自分の世界じゃ主役だろ」
「いやいや、主役なんか御免被るね。私は渋い脇役の方がいい。そういう存在がドラマを作るんだからね」
……ま、オレもそうだな」

バカップル道を既に走り始めている風なヒヨコと編集長の画像を眺めながら、キャップとロミオはまたニヤつく。部活対抗レースで活躍した三井や木暮は、そりゃあ主役だっただろう。しかし、言い換えれば、彼らを主役にしたのは、キャップやロミオたち「脇役」だったのだ。

「脇役ってなんか悪い言葉みたいだけど、結構楽しいもんだよな」

キャップはにっこりと微笑む。全ての脇役に幸あれ!

END