君と犬と僕が日曜の空の下

2

態度が大きく不遜でも、信長はまだ1年生である。午後からの練習ということは、だいたい10時半くらいに体育館に入れればいい。下級生としての勤めを果たし、昼食を取って上級生を迎えるわけだ。だから、ドッグランには9時半くらいまでいられるはずだ。

そもそもの待ち合わせ時間が早いのだし、が帰ると言えばそこでおしまい。家に戻り秀吉を置いて、また学校。もしかしたら時間が余ってしまうかもしれない。

それでもなんとなく服をああでもないこうでもないと選んでしまうのは、何かの期待の現われでもある。

って、目立たないけどけっこう可愛いんだなあ。

つまりそれが全てだ。常に騒がしく目立つ信長に比べれば、など壁にかかっている時計より目立たないかもしれない。だが、信長やクラスメイトが知らないだけで、は可愛いのである。おとなしいだけで暗いと言われてしまう様なタイプであり、なおかつ髪を染めたりということにも積極的ではないせいだ。

また信長の場合、一緒になって嬌声を上げるタイプの女の子に魅力を感じなかった。一緒に遊べば楽しいが、ドキドキしない。一緒に腹を抱えて笑えるが、胸がキュッとなったりしない。そしてそんなドキドキやキュッと痛む胸の疼きは、早朝の海でを前にしてやって来た。

さらにいえば一度「可愛いかもしれない」と思ってしまったら最後、ばっちり可愛いのである。

あまり飾り立てすぎても引かれてしまうだろうと、信長はなんとか無難に見える服を選び、はしゃぐ秀吉を連れて家を出た。気持ちばかりはやるのは仕方のないことで、信長はそれを少しでも和らげたくて走り出した。秀吉は大喜び、また朝日が斜めから差し込む住宅街を猛スピードで駆け抜けた。

海が見えてきてから、きょろきょろと辺りを見渡していた信長の目に、籠バッグを手に浜辺に立つの後姿が飛び込んできた。つばが垂れたタイプの麦わら帽子に、膝下丈のワンピースはアジアン系のデザインで、裾に細かなフリンジが付いていた。真横のチロルが高速で砂浜を掘り返している。

キュン、と心臓が跳ねる。信長はまた後ろ足で立ち上がって尻尾を振っている秀吉を引っ張りつつ、呼吸を整える。潮風に翻るワンピースの裾でフリンジが揺れる。ノースリーブでむき出しの腕が白く、それだけでなんだか色っぽく見えた。

「おっはー!」

試合より緊張するなと思いながら、の横に踊り出る。その声に気付いたは、またにっこりと笑顔を見せて「おはよー」と言ってきた。びょんびょん跳ねる秀吉に向かってチロルは唸っているが、構いはしない。

「清田くんも朝から全開だねー」
「おーよ! この程度でヘバってたらスタメンになんかなれないからな」
「ご、ごめん、スタメンてなに?」
「おお、スターティング・メンバー! 最初っから試合に出る選手のこと!」

見るからに運動が苦手な様子のは申し訳なさそうに問いかけたが、信長の場合はスポーツに無知でも気にしない。女の子なら特に。なんでも教えてやるし、感心されれば有頂天になる。

「で、オレはそっからずーっと活躍してるんだな。交代要員じゃないってことだ」
「それってすごいことなんだよね」
「もちろん。海南は神奈川最強で全国2位だからな。今のところ」
「ぜ、全国?」

ここまでくると本当に海南の生徒なのか疑わしいものだが、稀に文化部の深部にこんなのがいたりする。

ここで話していても時間がもったいないので、ふたりは海沿いを歩き出した。

「インターハイってのは聞いたことあるだろ、この間それで準優勝したんだよ」
「ごめんね、知らなくて」
「いいっていいって! いずれ日本一になるんだし、こんなの通過点だからよ」

思っていた以上の規模に、は少しぽかんとしている。それはそれで信長は気分がよかった。

「しかしもったいねえな、今度試合見に来いよ。高校トップクラスのプレイが見られるぞ」
「試合って誰が見に行ってもいいの?」
「もちろん! 練習試合とかだったら体育館でやってるから覗いてみ」

それすら知らないとは、普段学校で何やってんだというくらいのだが、これからをびっくりさせてメロメロにさせてみたい信長には好都合。ましてやまだふたりは1年生。夏休みを挟んで成立したカップルもちらほら出始めているが、まだまだ高校生活は先が長い。

「今のうちからツバつけといた方がいいぜ、オレ、将来のキャプテンだからな」

調子に乗ってかかかと笑った信長だが、真横で頬を染めてが俯くと、同じように頬が熱くなった。

「日本一とかキャプテンとか、清田くん、別世界の人みたい」
「そんなこと……ていうかノブナガでいいよ」

思い切って、さらりと聞こえるように気をつけて言ってみる。

「そんな風に呼んだら怒られちゃうよ〜」
「誰によ」
「清田くんのファンの子たち」
「いねえだろそんなの」

湘北の流川じゃあるまいし、自分があまりキャアキャア言われないキャラクターだということは自覚している。なのに何言ってるんだと思っている信長だが、は不思議そうな顔をしている。

……そりゃ清田くん本人には言わないよね」
「いや冗談だろ」
「私が清田くんにお世辞を言う必要、なくない?」

信長は混乱してきた。はきょとんとしているし、なんだかこれではオレがまるでモテモテみたいじゃないかと首を傾げる。それならとっくに告白の嵐にでも見舞われてそうなものなのになというのが信長の本音だ。しかしそれが事実なら、と浮き足立った自分が恥ずかしい。隣にがいるのに、満足できないってのか。

「ほらここー。そんなに大きくないけど、ドッグランでしょ」
「えっ、あ、ほんとだ」

確かに学校に近い。学校を挟んで海南の最寄り駅とは反対方向にあるので、電車やバス通学の生徒はまずわからないだろうし、この辺りは自転車か徒歩通学でもなければ通りそうにないルート上にある。

「おーっし秀吉ィ行ってこーい」

ドッグランに入るなり、リードを解いてもらった秀吉は勢いよく駆け出して行った。ボールを投げてみたいというに代わり、信長はチロルのリードを預かる。秀吉がいなければ構わないのか、チロルは尻尾を振って信長の脛に足をかけ、抱っこをせがんだ。

「うおお、お前かっわいいな小せええ」
「秀吉すごーい早ーい!」

日曜の早朝、犬と戯れるふたりは健全な高校生そのもの。いや、時世的な点から言えば少々幼いくらいか。しばらくすると秀吉も落ち着いてきて、信長とはベンチに並んで腰掛けた。チロルはふたりの間にちょこんとお座り、走りまくって満足した秀吉は信長の足元で尻尾を振りつつ伏せをしている。

「あ、そうそう、清田くん朝ごはん食べてきた?」

言われて気付いた信長は朝食のことなどすっかり忘れていて、途端に腹が空っぽな気がしてきた。普段なら散歩を終えてから朝食だが、今日はこのドッグランから帰らなければ食事にありつけない。しかしその為に早く切り上げるのも嫌だった。

「やっぱり忘れてたみたいだね〜よかったら食べない?」

籠バッグからが何やら包みを取り出して膝の上で広げると、コロコロと可愛らしいサイズのおにぎりが出てきた。ついでに犬用のオヤツと思しき塊の入ったビニールバッグも入っている。信長は無性に腹が減ってきた上に、その空虚な腹の辺りがキュンキュンと軋むのを感じた。

「これ、が作ったのか」
「作ったって言ってもおにぎりだよ。中身も適当だし。これは秀吉にプレゼントね」

棒状のおやつを取り出したは、それを信長に手渡す。間髪入れず飛び上がってきた秀吉にあっという間に奪われたが、信長はそれどころではなかった。あれ、同じクラスのって結構可愛いかもと思ったら、なんと手作りおにぎりはいどうぞ、って可愛いすぎんだろうが!

「食べる?」

おにぎりをひとつ手に首を傾げるがどうしてこんなに可愛く見えるのだろう。信長はおにぎりより差し出された手を掴みたい衝動に駆られて、グッと息を呑んだ。だが、ここで焦って欲を出しても失敗しかしない気がする。普段騒いでいる女友達とは勝手が違う相手に無理はしたくない。

大人しくおにぎりを受け取ってラップを剥がし、ぱくりと齧りつく。

って、なんか目一杯女の子って感じ」
「ええ〜なにそれ」

はコロコロと笑っているが、信長はその横顔をボンヤリ眺めている。おにぎりがおいしい。

「チロルもすっかり清田くんに懐いちゃったね」
「ま、また来るかな、近いうちに」
「ほんと〜? 気に入ってもらってよかった」
「いや、まっ、また一緒に来ようぜ」

失敗したくはないが何も言わないではいられなかった。唇が強張って棒読みのようになってしまったが、信長はできるだけさりげなく言ってみた。は少し俯いて、かすかに頷いた。よしよし、今日はこのくらい出来れば上出来! と満足していた信長は、突然背中を襲った妙な怖気に身を奮わせた。

背筋を伸ばして、きょろきょろとあたりを伺う。おかしい。野生の勘がアンテナを立てている。なんだこれは。

「清田くん? どうしたの」
「いや、ちょっと…………そこだァー!」

ぐりんと身を捩った信長が秀吉愛用の硬いボールを背後に向かって投げた。ボールは植え込みの向こうに落ち、ガサガサ音を立てたのち、数人のジャージ男子と共に転がり出てきた。驚いたは飛び上がり、思わず信長の背中に隠れた。チロルが唸る。

……ってあー!」
「よー信長ー」

よく見れば全員海南バスケット部のジャージだ。もそれに気付いたが、それが何でこんなことになっているのかわからない。植え込みから転がり出てきた数人だけではおさまらず、あちこちから海南ジャージがぞろぞろと転がり出てくる。

「じ、神さんまでえ……!」
「あーバレちゃったな、おはよー」
「おはよーじゃねえっすよ! って何これ何人いるんすかァ!」
「1、2年選抜信長の早朝デート見に行こうツアー」

目測でも2〜30人はいる。よくこれだけの人数が植え込みだのフェンスの影に隠れていたものだと少し感心しつつ、信長は恥ずかしさで肩を震わせている。海南ジャージたちが立ち上がると、どんどん背が高くなり、信長ですら見上げているは戦き、ますます小さくなって信長の背中に隠れた。

「なんでわかったんだ? 誰か音立てた?」
「そりゃオレの勘です」

首の後ろを掻いている神を見上げながら、信長はイライラとつま先を動かしている。いくらチームメイトでも、たまたま通りかかって見てしまったというならまだしも、これは悪質なんじゃないかという気持ちの方が勝っていて、ぶすくれている。

「バレるつもりなかったんだよ、信長のデートを静かに見守るツアーだから」

タイトルが変わっている。この辺りのことは基本的に神の適当な嘘である。

「いや別にデートじゃねえっすよ、散歩! 犬の散歩!」
「えっ、そうなの? 彼女じゃないの?」
「かかか彼女でもないですって! 何を言うんすか!」

完全に売り言葉に買い言葉である。神に翻弄される信長は肩をいからせて否定している。が、これも娯楽を求めて早朝から人のデートを邪魔しに来た高校生男子の計画のうち。海南バスケット部の中でも特に口の軽い数人が進み出てに迫った。

「じゃ、オレ立候補しようかな」
「3組のさんだよねーオレとかどう?」
「今度部活見に来ない? 帰り一緒に帰ろうよ」
「オレも犬飼ってるんだよね、今度一緒に散歩いこ?」

あまりに流暢なマシンガンラブコールにはすくみ上がり、つい信長の手に縋った。同学年だけならまだしも、2年生が混じっていたことでかなり我慢をしていた信長だったが、手首にそっと触れたの指の感触で目が覚めた。ガッとの手を掴むと、夢中で引き寄せて腕の中にしまい込んだ。

「勝手に話しかけてんじゃねえ!」

2年生がにやり。1年生はにんまり。その顔を見て信長は正気に返るが、もちろん後の祭り。

「あ、わ、ちが……
「男らしくないぞ信長。あとさん固まってるから」
「じゃー、信長、あとでな」
「練習遅れんなよ〜」

照れて焦っている所までは面白かったのだが、信長が覚醒し、彼に縋っているを見ていたら急に面白くなくなってきた。羨ましいが仕方ない。海南ジャージ軍団はぞろぞろと去っていった。後には固まったままのと、それを抱えて真っ赤になっている信長、そして唸るチロルと尻尾を振っている秀吉だけが残された。

「あ、その、ご、ごめん! マジごめん! 悪い人たちじゃねえんだけど先輩たちふざけてて、その」

の両肩を掴んで引き剥がしながら、信長は必死で弁解した。が、固まっていたの顔がゆっくりとピンクに染まっていくのを見ているうちに、声が小さくなっていって、とうとう何も言えなくなってしまった。

いや、なんで否定しなきゃいけないんだ? これ、いけるんじゃないの?

……じゃ、なくて! !」
「は、はい!」
「そういうことなんでよろしくお願いします!」
「ええ!?」

何か告白的な台詞が来てしまうのかと思っていたは、がばりと頭を下げて手を差し出す信長に思わず突っ込みの声を上げる。そういうことで済ませるような問題ではないとも思うが、あまりチクチクと細かいことを言っても仕方がない。相手は信長なのだし、たかが犬の散歩でこの騒ぎだ。

……はい、よろしくお願い、します」

のものに比べれば大きい手の、まっすぐで長い指の先を摘むように掴んだ。それを合図にびょんと顔を上げる信長も、頬がピンク一色だ。指先だけの握手を解き、勢いよく引き寄せれば、は再び信長の腕の中。

「ほ、ほんとにいいのかよ」
「ほんとにいいです」
って呼んでいい?」
「え、うん」
「ってかお前も名前で呼んで」
「ど、努力します」

を軽く抱き上げて、信長はくるくると回った。しがみつくの腕がしなやかに絡みついて、気が遠くなりそうだった。振り回されているの方も、頬を寄せた信長の髪の香りの他には何も感じられない。

ようやく上から照らし出した日差しの下、佇むふたりを秀吉とチロルが尻尾を振って見上げていた。

END

おまけ