ホワイト・ストロベリィ

3

ふたりが部室に戻ると、そこはもうもぬけの殻で静まり返っていた。その代わり、遠くからボールの弾む音とホイッスルの音、かすかな歓声が聞こえてくる。日が傾いて薄暗い部室はまるで昨日のアクシデントの時のままのようだった。

「そういえば私、救急箱そのままで」
「やっといたよ。いつもの場所に置いてある」

着替える牧を待ちながら、はふうとため息をついた。

「どうしたよ」
「いやその、神くんさ、ああ言ってくれるのは嬉しいんだけど、しばらく肩身狭いなと」
「環境が改善されるかもしれないのに?」
「私、変革とか望まないタイプで……
「そういうところ先輩とそっくりだな」

ロッカーの扉をバタンと閉めると、牧はバッシュの紐を締めなおす。

「そういや忘れてたよ、先輩にお前のこと頼むって言われてたんだ」
「そんなこと言ってたの? 次期キャプテンに何てこと言ってたのよあの人は」
「オレが先輩に謝らないとな」
「まだそんなこと言ってんの。もったいないくらい良くしてもらってるのに」

バッシュがキュッと音を立てる。牧は背を向けていたの肩に手をかけると、くるりと回して向き直らせる。

、もう怖くない、よな?」
「え、うん。大丈夫」

そう言って両肩に乗る牧の手に、は自分の手を重ねた。牧はそれをするりと払い落とすと、ひょいと抱き寄せて静かに顔を寄せる。爪先立つは牧の腕に支えられて少し浮いている。は想像していたよりずっと怖くないと考えながら、ゆっくりと目を閉じた。

軽く短いキスだったけれど、ふたりは時が止まったような気さえしていた。

そして離れると、低い位置でハイタッチ。部活はこれからだ。

「よし、行くか」
「うん!」

体育館に到着したふたりは部員たちの顔が一様に青いことに気付いた。さらに、実はに仕事を丸投げしていたしていたらしい1、2年のマネージャーが全員髪をひっ詰め、直立不動で壁にへばりついている。

「なんなんだこれは」
「あ、牧さん、話は終わりましたか」
「え、ああ、にはちゃんと引退まで勤め上げてもらうよう話が出来たよ」

牧は咳払いをひとつ、神はにっこり。その向こうで清田がこめかみに両手を付け、人差し指を立てていた。いわゆる鬼の角のジェスチャーだ。部員たちとマネージャーの顔の青さはそれが原因のようだ。

「それはよかった。先輩、もう平気ですか」
「うん、ありがとね。けど、あれはいったい……
「まあちょっと、海南バスケ部としての心得をね。代わりはいくらでもいるんですから」

スイッチを入れでもしたかのように、神がにっこり。

「お、お前すげえな」
「何がですか。オレは牧さんや先輩の築いてきたものに泥を塗るのは許しがたいので」
「ちょ、神くん、手加減してあげてね……
「もう、なんでそうおふたりは優しいんですか〜」

苦笑いをするしかなかった牧とだったが、その日海南バスケット部は来たる新体制の予行演習状態に震え上がり、浮ついた気持ちでに甘えていたマネージャーたちもよく働いた。

普段ならシュート練習をする神と、掃除や片付けに追われるだけが残る体育館も、この日ばかりは何人もが居残ってを手伝い、ちらちらと神の顔色を伺ってはそそくさと帰って行った。

「先輩、早く終わってよかったですね」
「神くん怖すぎ」
「なんでですか〜色々察して助けてあげたのに〜牧さんとうまくいったんですか〜」

型に嵌めたように整ったフォームでボールを放ちながら、神はそんなことを言い出した。

「そこまで見越してたの?」
「ランドリー室で話聞いてからですけどね」

そこに帰り支度を終えた牧が戻ってきた。

「牧さーん、先輩はっきり言わないんすけど、うまくいったんですか?」

牧は肩を落として苦笑いしつつも、の手を引いて頷いた。

「まあ、そんなところだよ」
「そっか、よかった」
「高砂たちがメシ奢りたいっていうんだが、神はまだだよな」
「いやいいですよ、あとでまた続きやるので」
「あっ、じゃあ私はこれで」

牧の腕からするりと抜けようとしたは、襟首を掴まれてウッと喉を詰まらせた。

「オレも大概だがお前は本当に察しが悪いな。お前に謝りたいんだとよ、みんな」
「ええっ、そんな、私謝ってもらうことなんか何も」
「先輩、少しは可愛げってものを覚えましょうよ」

うんうんと頷きあう牧と神に挟まれて、は笑み崩れた。

「じゃあほら、も神も支度して来い」
「牧さんはもう少し危機感持ちましょ。先輩もオレも着替えるんですよ」

呆れたように首をかしげた神に、また牧は苦笑い。3人は並んで体育館を後にした。

自宅近くの公園でシュート練習をしてから帰るという神と別れた牧とは、駅に続く道を歩いていた。

学校近くのファミレスでは食事を奢ってもらい、おまけにデザートまでついていささか満腹が過ぎていた。神に押されて牧の隣に座り、次々に謝ってくる部員たちに頭を下げ返すのにも少し疲れていた。

「なんだか酔ったような顔してるな」
「みんなの気持ち酔い。さすがにちょっと気持ち悪い」
「それだけお前の献身が当たり前になってたんだな、オレたちは」

は応えない代わりに、繋いだ手をふらふらと揺らした。

「高校の3年間は早かったと思うんだが、なぜか部活はそんな気がしない」
「長かったよねえ」

それだけ密度の濃い時間を過ごしていたのだし、長く一緒にいたということでもある。

「たった3年なのにね」
……ちょっともったいなかったな」
「なにが?」
「もっと早く勘違いしていれば、3年間こうしていられたのにな、と」
「でも、最初そんな風になんて思わなかったよね」

えへへ、と笑うの手をついっと引いた牧は、歩く速度を緩めて困ったように微笑む。

「悪い、オレはちょっと思ってた」
「え、うそ!?」

は思わず身を引いて口元を手で覆った。妙な話ではあるがアクシデントをきっかけに急展開でこんなことになってしまったのだと、それ以外に理由などないと思っていたのに。

「また蒸し返すようだけど、とにかく誰より一生懸命だったからな」
「そ、そうなの、私全然気付かないで」
「そりゃそうだ。オレもバスケ優先してたんだし」

だけどなあ、と小さく言葉を挟んで牧は空を見上げた。

「けどもう残るは冬の選抜のみで、終わった気になってるわけじゃないんだが、その後はどうあがいても卒業しかないだろ。あまり海南バスケ部って所に執着を残したくないと思っていたんだ」

牧は早々にバスケットの強い大学への推薦入学が決まっている。1年生の頃からぜひうちにとあちこちから内々に声をかけられ続けてきた。それを遠くから眺めていたもよくわかっている。牧はもう少しで近くて遠い東京へ行ってしまう。

「また突然世界が変わるんだ。あまり感傷的になりたくもなかったし」
……そうだね」
「でもさっき、思い出したんだよ、1年の時のこと」

も静かに頷く。

「ああそんな風に思ってたな、オレの気持ちはバスケ部だけじゃなくて、ここにもあったなと」
「執着を残したくなかったんじゃないの?」
「そう、だから過去形。残したくなかったけど、思い出しちゃったからな。無理だった」

そう言われてしまうと、同じ学校で同じ部活に所属していられる時間の残り少なさを改めて感じてしまう。は少し俯いて牧と同じように過去の時間を惜しんだ。

は上にあがるのか?」
「うん、元々それが目的だったし」

海南大への内部進学が決まっているのでこんな風にのんびり部活をしていられる。外部受験を考えている3年生は忙しくなってくる時期だが、実を言うとなどは冬の選抜で引退しなくても部活を続けられるほどだ。しかもキャンパスは近所、卒業してもマネージャーが出来るかもしれない。

「そうか、それならいい。まだしばらくここにいるんだな」
「うん、大学に行くと途端にランクの下がるバスケ部にでもいるよ」
「お前ね、先輩がいるだろうが」
「夏から捻挫で役立たずだもん」

笑いつつ、牧はかすかに風に混ざる潮の香りを吸い込む。

「東京の海は好きじゃない。時間があれば、すぐに帰ってくるから」
「そ、そんな、無理しないで……
先輩がいればそんなに心配もないしな」

ただの口約束、それが守れるかどうかの保証はない。けれど言わずにはいられなかった。東京の海は好きじゃない、君のいるこの町の海がいい。

「いつか、苺柄を見せてもらわないとならないしな」
「ええっ、それ!?」
「水着なら恥ずかしくないだろ、夏になったら海、行こう」

冗談に混ぜた本音が心をくすぐり、は牧の腕にすり寄って額を擦りつけた。

「じゃあ、苺柄の水着、探しておくね」

ふたりを繋ぐ苺柄、中学生みたいだとまた神に笑われるだろう。牧はそれでも胸が高鳴っていた。

END