ホワイト・ストロベリィ

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その日、は朝からずっと不快感と戦っていた。下ろしたてのブラがどうも合わない。ワイヤーの先端が胸に刺さるようで、チクチクした刺激が気になって仕方ない。むず痒くもなるし、体を左右に傾けると少し痛む。

とはいえ外してしまうことも出来ないし、代わりのブラなど持ち歩いていないし、ましてやバスケット部のマネージャーであるは授業が終わって即帰るなどということもできない。電車通学なので、1度帰って戻るのも時間がかかりすぎる。部活はTシャツなので絆創膏ニプレスも無理だ。大所帯の男バスなので。

やっぱり通販なんかで買うんじゃなかった。デザインに目を引かれて、なおかつ安かったせいでつい買ってしまったセット下着だったが、サイズも微妙に合ってない気がするし、素材が固めで付け心地はよくない。ちゃんと試着して買えばよかったと思うが後悔先に立たず。

それでもティッシュを挟んでみたり、トイレでこまめに位置を直したりして耐えていたのだが、部活が始まってしまうとちょこちょこ抜け出すわけにもいかなくなってくる。一応3年生という立場だが、所詮はマネージャーである。

また、の所属する海南大附属高校バスケット部の場合、春に所属している2年生の人数に応じて、マネージャーの採用人数も決まる。今年3年生のの場合、1学年上が少なかったせいで、同期のマネージャーがいない。が、2年と1年はそれぞれふたりずつマネージャーがいる。

これがまた可愛らしい女の子たちばかりで、は上級生なのにあまり馴染めなかった。

海南バスケット部のマネージャーというのはとても審査が厳しいことでも知られる。カッコイイバスケット部の彼氏が欲しいという動機でも構わないのだが、入部時点でルールを熟知していることが最優先であり、3ヶ月の試用期間をクリアしないと正式に認められない。

そんな厳しいマネージャー採用だが、はバスケット部史上唯一の縁故採用による審査なしマネージャーである。2歳年上の従兄がバスケット部に所属しており、スタメンにはなれなくとも人望のある生徒だった。その従兄が中学生の頃から試合を応援したり、一緒にプロの試合を観戦したりしていたのでルールも問題ない。

も従兄も家が近いという理由で海南を受験、入学したので、海南でなければ、海南に憧れてという動機がないのもまた珍しかった。従兄が3年生の時に1年生だったは、従兄に誘われれるままマネージャーに納まった。その頃は今より部員が多く、上級生マネージャーが5人いたので、仕事も辛くなかった。

そんなわけで、現在の後輩マネージャーたちに比べるとモチベーションが大きく異なるし、従兄が卒業してしまった途端扱いがややぞんざいになったことも否定できない。

それでもの代に牧がいたのは救いだった。

バスケットの能力が飛びぬけているのはもとより、精神的に老練である彼がいたおかげで、なおかつ2年次冬の選抜以降主将に就いてからは肩身が狭い思いをすることもなかった。新しく入ってくるマネージャーたちも、虎視眈々と獲物を狙っているのだが、牧のいるところで迂闊なことは出来なかった。

それでもはバスケットが好きだったし、マネージャーの仕事も楽しかった。可愛がられもせず慕われもせず感謝もされなかったが、高校生活に後悔はなかった。そうして3年目、夏のインターハイを準優勝で終えた秋である。

ちらりと腕時計に目をやると、そろそろランニングが始まる時間だった。部員たちがランニングに行ってしまうと、マネージャーたちは一斉に雑務を開始する――のだが、試合の目前というわけでもないこの時期、動機が不純なマネージャーは仕事を疎かにする傾向が強い。

ランニングから帰ってきた部員たちにタオルやドリンクを配ったりシャツを受け取ったりする、その準備を始めてしまう。そして、ランニングしている部員たちが見える所で応援してみたりもする。要するに彼氏ゲットチャンス期間というわけだ。成功率は高くないのだが、諦めるくらいならこんな厳しい部のマネージャーになどならない。

その日も部員たちがランニングに出かけてしまうと、体育館にはひとりが取り残された。

まあいいけどね、いつものことだから。

はさっさと仕事を開始し、てきぱきとこなしていく。しかし、そうしている間にも胸の不快感が増してきて、イライラし始めた。擦れ過ぎたのか、少しヒリヒリするような気がする。はある程度仕事を片付けた所で、救急箱を手に部室に向かった。

常に大所帯のバスケット部は部室も大きく、ロッカースペースの他にミーティング・ルームやマネージャー用の区画も併設されている。ランドリー設備も専用のものがあるし、他の部と共用だが、現在のシャワー・ルームはバスケット部の活躍がきっかけで作られたという噂だ。

そんな部室にはつかつかと入っていく。全員出払っていて、誰もいない部室は異様な感じがする。だが、合わないブラの不快感も頂点に達していて、我慢の限界だった。部室を入ってすぐ脇にある部員たちのロッカー区画に少し折れたところで、はTシャツを勢いよく脱いだ。

マネージャー用のスペースまで我慢できなかったのと、そこは後輩たちの荷物で足の踏み場もないからだ。少し薄暗いロッカースペースでブラのホックを外して痛む箇所を確認する。案の定擦り切れて赤くなっていた。可愛いと思って買ってしまった、白地に苺柄のブラが恨めしい。

見れば両の乳房に傷が出来ている。は対処を考えつつ少しぼんやりしていた。軟膏を塗ろうか、ガーゼでも挟むか、ただ絆創膏で保護するだけにするか……

そこにパタパタという足音が聞こえて来ても、は特に気にせず肩にブラを引っ掛けたまま救急箱を手にぼんやりしていた。厳しいことで知られる海南バスケット部の場合ランニングを抜け出して部室に戻る部員などいないのだからして、足音はマネージャーの誰だかであるのは確実。

後輩たちはあまりと関わろうとしないので、が上半身裸で救急箱を開いていても意に介さないに違いない。は無意識にそう判断していた。

ガチャリとドアが開いて、スニーカーの立てるキュキュッという音が響く。その音に何気なく振り返ったは、片手に救急箱を、ホックの外れたブラを肩にぶら下げた状態で固まった。視線の先に主将である牧がいたのだ。

一瞬の間、と牧のヒュッと息を呑む音、そしての掠れてくぐもった悲鳴。

「す、すまん!」

慌てて後ろを向き、ロッカーの角に背中を貼り付けた牧。それを視界に入れながらは救急箱を取り落とし、両腕で胸を抱くようにして後ずさる。声が出ない。先ほどの悲鳴もほとんど声にならなかった。恥ずかしいよりも、怖かった。信頼の置ける海南の絶対的な大黒柱で3年間共に過ごしてきた牧なのに、怖かった。

怖くて怖くて、涙がとめどなく溢れてくる。壁に当たりずるずるとくずおれ、しゃがみこんだは上手く呼吸が出来なくてヒュッと鳴る喉の音にすら怯えていた。

「悪い、サポーターを取りに戻っただけで、オレ、目を瞑ってるから、早くマネ部屋に」

牧もうろたえているらしい。無理もない。

だがはその場を動くことが出来ない。マネージャー用の区画に移動するには牧の隣をすり抜けなければならないし、救急箱と一緒に放り出してしまったTシャツは牧の足元まで飛んでいってしまった。そんな事情もあるがとにかく怖くて何もできなかった。

……? もう移動したのか」

同様、牧も正常な判断が出来ない状態になっている。サポーターを取るのは後でいいから、とりあえず一度部室を出ればよかったのだろうが、牧はに移動してもらうことだけを考えていたし、はなぜ牧が出て行かないのか解らず、それがまた恐怖を呼んでガタガタと震えていた。

静かな部室にの荒い呼吸音と小さな嗚咽がこだまする。それにようやく気付いた牧は目を薄っすらと開き、自分の足元にTシャツが丸まっているのを認めると、少し状況が見えてきて落ち着いてきた。意識したくなくても目に焼きついているのあられもない姿、羽織るものもなく震えているだろうことがわかる。

、ここにあるTシャツ、拾って投げるから」
……で、……で」
「えっ?」

震える声はぐずぐず言う鼻の音に紛れて、よく聞き取れなかった。しかし、弱々しく繰り返される言葉が「来ないで」だと解った瞬間、牧はがなぜ動けないのかを悟った。

オレが、怖いのか……

牧はそれに気付くと黙って部室を出た。部室を出てすぐの所にある給湯室に一歩足を踏み入れる。その背後で部室のドアが乱暴に開けられ、が走り去っていく音が遠ざかっていく。よろけてしっかり走れないのだろう、足音は途切れたり遅くなったりしながら、やがて聞こえなくなった。

牧は給湯室の壁に片腕をついて頭を預け、大きくため息をついた。

胸が痛んで仕方がなかった。3年間一緒に頑張ってきたは仲間であり友人であり、信頼の置ける相手であることは牧も同じ。キツい性格をしていることが多い海南女子マネージャーの中でも黙々と役目を全うするを、牧はある意味では尊敬すらしていた。そのが、恐怖で嗚咽を漏らし、自分を怖がっていた。

どんなことを言われても、何を頼まれても嫌な顔ひとつしないという人間を家族のようにも思っていた。そのをあんなに怖がらせてしまって、それが可哀想で仕方ない。不慮の事故で自分に責任がないこともわかっているけれど、それでものショックとは比べ物にならない。

女の子をあんなに怖がらせてしまった。はマネージャーである前にひとりの女の子だと、わかっていたつもりだったのに。すまんと言ってすぐ出て行けばよかったのに、サポーターを取りたいから移動してくれなんて、なぜオレはそんなことを言ったのかと思うと頭が痛い。

しかし給湯室で悶々としていてもなんの解決にもならない。牧は両手で頬をパチンと叩くとサポーターを取り、散乱している救急箱の中身を集めてまとめ、ランニングに戻っていった。

はそのまま戻ってこなかった。

翌日、は学校に来なかった。クラスの違う牧はそれを部活にやってきてから知ったのだが、その時には既に部内が不穏な空気になっていた。昨日のランニングの最中に行方不明になったままは戻らず、このままだと今日は授業も部活も無断欠席になる。

授業の方はともかく、全国でも名の知られた強豪校海南バスケット部に措いて、無断欠席は重大なイレギュラー行為にあたる。それは選手もマネージャーも変わらない。やる気がないと見なされるからだ。

顧問を筆頭に、3年にもなってマネージャーを束ねる立場のは一体何を考えているんだ、という話になっているらしい。監督は高頭だが、生徒たちの管理は顧問である英語教師が担っている。不運なことに、この顧問とはそりが合わず、あまりいい関係を築けていなかった。

事情を知る牧はなんと言ったものかと眉間に皺を寄せていた。まさか本当のことを言うわけにもいかない。

があの時受けた恐怖を、きっと誰も汲んでやったりはしないだろう。どんなことがあろうと欠席するなら正当な理由と共に連絡を入れる、それは絶対的なルールだ。それでも牧はの気持ちを考えると無理もないと思う。大変なことがあったのだから、そんなに目くじらを立てるな、そう言いたかった。

こんなことが続くなら、辞めてもらうようになる。顧問は鼻息荒くそう言った。後輩マネージャーたちは無反応だ。牧はムカムカする腹をグッと抑えこむ。こんなことが続くならと言うが、が無断欠席をしたことなど過去に一度もなかった。3年間真面目にひたむきに部員たちを支えてくれていたのに。

主将でありながら、こんな時何も出来ない自分が情けなかった。