日曜の眠り姫

3

結局、家族に混じって夕飯を食べ、またこたつで雑談に興じた清田は21時頃になってようやく帰った。

見送りに出たのがだけではなく母親と祖母も一緒だったので、おそらく帰り際にまたキスしようとでも考えていたであろう清田は、少しつまらなそうな顔をして帰って行った。冷たく冷えた雪の残る道を、走って。

ようやく清田から解放されたは、ぐったりと疲れていた。ただでさえ雪かきで疲れていたのに、清田のせいで余計にだるい。おまけにファーストキスだったのに、その後何回したのかも覚えていない。初回からチューチューやりやがって、とは今になって憤慨した。

だが、そんなことで憤慨するのも疲れる。早々に風呂に入ったは、さっさとベッドに入って寝てしまおうと思っていた。しかし、ベッドに入ると否応なくこの部屋に清田がいたことが思い出されるし、目を閉じれば至近距離で見た清田の顔がちらついてしまって、なかなか眠れなかった。

そんなわけで翌朝、は寝坊した。

それから1週間、は日曜には何事もなかったかのようにして過ごしていた。月曜日のの様子を見て、清田も特に変化なく振舞っている。心の整理をつける間に好きになっておけと清田は言ったが、むしろ日曜の記憶が薄れてきて、ドキドキしたことも夢のように現実感のない記憶になっていった。

清田によれば「付き合っている」らしいが、隠しているので一緒に帰ったりはしないし、そもそも清田は毎日部活があるので週3回活動である文芸部のとは時間が合わない。文芸部の活動がある日でも、バスケット部よりは早く終わってしまう。付き合っていたらそれを待つのだろうか。

付き合うって、なんかつまらないものかもしれない。

は図書室で本を開きながら、ぼんやりと考える。寝ても覚めても顔がちらついて離れないほど好きならともかく、今のところ再読しているポプラクラシックのアルセーヌ・ルパンの方がかっこいいと思う。

この本の中のルパンが跪いて薔薇を差し出したらクラクラしてしまうこと間違いなしと思う。しかし、同じことを清田がしたら、吹き出すに決まっている。感想文に使った三銃士で言えば清田は若き日のダルタニャンだ。はアトスが好きだ。映画版ならロシュフォールも好きだ。少しずれている気がする。

ちらりと横を見てみれば、夏休み前に告白してみようかと思っていた先輩がいる。身長こそ清田と変わらないくらいだけれど、きれいに整えられた真っ直ぐな髪にきちんと制服を着ている。それに、常に紳士であった。もう告白する気はないけれど、告白されたら落ちる気がしている。

あいつとは仲いいけど、それって、気が合うってだけなんじゃないのかな。

金曜日辺りになると、キスしたことすら現実感を感じなくなっていた。そんな状態でひとりで帰ろうとしていると、昇降口を出たところで腕を掴まれた。顔を上げると清田がいた。ラフなTシャツ姿にヘアバンド姿だ。これから部活なのだろう。

「なに?」
「もう帰んのかよ」
「部活もないし、そりゃ帰るよ」
「待っててくんない?」
……何時に終わるのよ」

わかっているが一応聞く。

「えっと今日はたぶん19時とか」
「今15時だけど。4時間も待ってろっていうの」

掴まれた手を乱暴に払った。は徐々に苛々してきていた。私はまだそんなに好きじゃないのに、4時間も何して待ってろっていうの。4時間待って、1時間もかからない帰り道を一緒に歩いて、それでおしまい。それだけのためにそんな長時間など待てそうにない。

……ごめん」
「私まだよくわかんないよ、流されてるだけって気もする。そんなのあんただって嫌でしょ」

清田は少し俯いて、小さく首を振る。

「さあ、それはオレもよくわかんねえ。でも――いや、いいわ、ごめん。じゃーな」

は、清田が泣き出すのではないかと思った。けれど、掴んでいたの手を解放すると、片手をさっと挙げただけで去っていってしまった。ひとり残されたは息苦しさを覚えて胸の前で手を組んだ。

ただ気の合う気楽なクラスメイトだったのに、どうしてこんな風になっちゃうの。どうして友達のままじゃだめだったの。好きだったならどうしてもっと時間をかけてくれなかったの。一瞬で好きになんてなれるわけじゃないのに。泣きたいのは私の方だよ!

は下を向いてとぼとぼと歩き出した。曇天が重苦しかった。

なんだかもやもやして苛々する。は再読中の「813の謎」を乱暴に閉じた。

金曜の放課後になんだか気まずい状態になってしまった。今日は土曜日。明日は日曜日。長い時間だけを挟んで月曜日、どんな顔をすればいいのかわからない。こんな状態になって初めては清田のことが頭から離れなくなってしまった。

いつでも自信たっぷりで突き抜けるような高笑いの清田が、今にも泣き出すのではないかという顔をしていた。その顔がちらついて離れない。きっとすごく傷付けたのだろうということはわかる。だが、謝るのも違う気がしている。本気で付き合う気がないなら同情などすべきではない。

それでも友人としてはそんな顔をさせてしまったことに大変な罪悪感を感じる。可哀想なことをしたと思う。心から謝りたい。かといって、いますぐ胸が苦しくなるほど好きになれるというわけでもない。

清田を失いたくない。それは間違いないのだけれど、きっと清田の望むようにはなってやれない。少なくとも今は友達のままでいたいのだと思っている。変化が怖い。キスして抱き締められたのは確かに心地よかった。それは否定しない。しかしそれは「恋」なのだろうか。「好き」なのだろうか。

例えば清田が誰か他の女の子と付き合いだしたとしても、嫉妬しない気がする。イメージが沸かない。清田が要領よく立ち回って可愛い彼女ゲットするの? 想像つかない。それを見てる私は何を思うの? 何も思わないんじゃないの? ――違うの?

傷付けたくなかった。あんな顔させたくなかった。私にあんな顔、見せないで欲しかった。

偉そうで態度が大きくて、声も大きくて、バカなことばっかり言ってて、いつも笑ってるあなたが好きだったのに。

……信長」

好きだったのに? 好きだったの、私?

は手に本を掴んだまま空を見つめている。右目から、ひとしずくの涙がぽたりと落ちる。はいつもの清田が好きだった。仲の良かった清田が好きだった。それを急に見たこともない表情を見せてきた。そんな清田は嫌だった。違う人みたいで、知らない人みたいで、ひとりだけ大人になってしまったみたいで。

どれも同じ清田には違いないのに、にはそれがわからなかった。は本を胸に抱き締め、体を折り曲げて小さくなった。もうひとしずく、涙が右目から零れた。

「あらノブちゃん、おはよう!」
「小母さん、おはよー」

日曜の朝、白い息を吐きながら玄関先を掃除していたの母親は、清田に気付いて声を上げた。

「今日も部活……じゃないわよねそのかっこじゃ」
「またちょっと宿題助けてもらおうかな〜と思って……ダメかなー」

部活がないわけではない。単に今日の午前中が休みだというだけ。時間がもったいないと考えた清田はダメ元で朝7時から家に突撃してきた。もし母か祖母に遭遇できればなんとかなると考えていた。案の定の母親は満面の笑みで手招いた。

「全然いいわよ、おいでおいで! 朝ごはん食べたの?」
「うん。うち朝早いから」
「まだ寝てるのよあの子〜日曜だっていってもねえ、ノブちゃんはちゃんと朝起きて偉いね」

だが、清田家の朝は本当に早い。朝食は休みの日でも基本的に6時半だ。

「起こしてやってくれる? 朝ごはんは取りに来なさいって言っておいて」
「はーい」

やはりの母親は娘と清田が幼い子供に見えているのだろう。でなければこんなこと言いはしない。清田は笑顔を作り、目一杯子供っぽい声で返事をすると、の母親に背を押されて家にあがる。ちゃんと手付かずの宿題をバッグに詰めてきたので、それを抱えて階段を上がる。眠り姫が待つ部屋までもう少し。

ドアノブに手をかけて、静かに開く。カーテンが閉まっているせいで、部屋の中は薄暗い。ふわりとの香りが漂い、背中に痺れを感じた清田はまた音を立てないようにドアを閉める。荷物を下ろし、布団が丸く盛り上がっているベッドへ歩み寄る。

寒いのか、は頭まですっぽりと布団を被っている。髪が少しはみ出していなければ、どちらが頭かわからない。清田は肩くらいの位置に手を置いて、そっと声をかけてみる。

……、おはよ」

厚い布団が呼吸に合わせてゆっくり上下するだけ。お姫様はぐっすりと眠り込んでいるらしい。清田はそっと布団をめくりあげてみた。枕に深々と沈んだ頭、そしての顔が埋もれていた。は冷えた空気の中で白い顔をしてすやすやと眠っている。

可愛い。たまらなく可愛い。

音を立てないように振動を伝えないように、慎重に。清田はの隣に静かに横たわった。目の前にあるの顔が可愛くてしょうがない。額に張り付く髪を指で取り払い、そっと梳く。先のことなんかわからないけれど、今、誰よりも好きな女の子、それはだった。

名前を口にするだけで少し幸せになる。その声にの唇がぴくりと反応する。

「信長……

まだは眠っている。けれど、清田の声に反応して、そう言った。振動を伝えないように体を固くしていたのに、清田は上半身をがばりと起こした。顔が燃えるように熱い。自分の名を呼ぶ声が全身を駆け巡って大暴れしている。深く息を吐いたが体を捻って顔を上げた。布団の中にあった手が外に出る。

清田はその手に自分の手を重ね、指を絡ませ、そしてゆっくりと静かに唇も重ねた。

の唇はとても暖かかったし、ぐっすり眠っているせいでゆるゆるに緩んでいて、ほんの少し押しただけで簡単に開く。押し付けすぎないように引っ張り過ぎないように、優しいキスを。

「ん…………

その声に清田は離れる。さすがに気がついたは眩しそうに眉をひそめ、そして薄目を開けた。

「おはよ、
「え……なん……

清田は覚醒したばかりでぼんやりと混乱しているの頭を撫でている。すると突然カッと目を開いたが布団を跳ね除けて飛び起きた。その勢いに清田も体を起こす。は襟が少し大きめに開いた緩いカットソーを着ている。下着を着けていないことがわかる胸に清田は慌てて目を逸らす。

「な、なん……
「ご、ごめん、悪ィ、会いたくなって――

の勢いに、つい謝ってしまった清田だったが、直後にが飛びついてきた。暖かいの体が、腕が絡みつく。寝起きの体からゆらゆらとの香りが立ち上っている。清田は熱い顔に震える手を抑えて、の体を抱き締める。

、どうしたんだよ」
「ごめん、ごめんね、あんな顔させてごめん、傷付けてごめん……
「あんな顔って、オレなんか変な顔したか?」

確かに金曜の放課後、清田はの言葉がぐさりと心に刺さったのだけれど、そんなことをいちいち気にするような性格なら、日曜の朝から突撃したりなどしない。清田は体を引いて、の肩や背中を撫でてやる。

「よくわかんないけど、謝るようなことなんかされてねえよ。お前こそそんな顔するなよ」
「違うの、そうじゃなくて、この間変だったから、信長、変だったから」
……うん、変だったな」
「いつもの信長じゃない、そんなの嫌だって、いつもの方がいい、いつもの信長が好きなのにって」

の背中を撫でる手が止まる。が顔を上げる。

「だからわけがわからなくなっちゃって、だけど、ずっと好きだったんだ、って」
……ごめん、
「どうやって謝ろう、口きいてもらえなかったらどうしようって、なのに起きたらいるし」

清田はまだ早口であれこれと喋っているの体を強く抱き締めると、そのままベッドに倒れこんだ。の腕もぎゅっと抱き締め返してくる。そして言葉もかけずにキスした。先ほどに比べたらかなり乱暴だっただろう。けれどはそれに応えて、抗いもしなかった。

静かな朝に粘着質な音と荒い息遣いだけが響いていて、もしこの時に階下から母の声がしなかったら、清田はの服を剥ぎ取ってしまっていたかもしれなかった。

! まだ寝てんの!?」

その声に清田が跳ね起き、ドアを開けての代わりに返事をする。

「小母さん、ごめん! 喋ってて朝ごはんのこと忘れてたよ! オレ取りに行きますわ」

驚いてぐったりしているに、清田は小声で「着替えておいて」と言い残して階下へ駆け下りていった。

あまりのんびりもしていられないが、はベッドの上に突っ伏して頭を抱えた。母親の声で現実に引き戻されたので、猛烈に恥ずかしい。しかも、母親の声がする直前には、清田の手がカットソーの裾から少し入り込んでいた。それを何とも思わなくて、むしろ清田の手が心地よくて、それがまた強烈に恥ずかしい。

静かに暴れたのち、は着替えを済ませ、ノーブラであったことに気付いてまた真っ赤になった。

「着替えた?」
「うん、いいよ」

朝食の乗ったトレイを手に清田はそっとドアを開ける。はカーテンを開けて換気をし、ベッドを整えていた。トレイには用の朝食と、清田用のお菓子やらジュースやらが乗っている。

「小母さんたち、宿題のことで喋ってて〜って言ったら信じちゃってんだけど」
「お母さんとお婆ちゃんはあんたのこと可愛いからなんだろうけど」
「小父さんと爺ちゃんも何も言わねえんだもんな」

テーブルの上にトレイを置いた清田は、の手を引いて一緒に腰を下ろす。はトレイの上の紅茶を飲みつつ、本棚の前に投げ出してある清田のバッグに気付いた。

「え、宿題ってマジで?」
「あ、そうそう、マジで! 今日は英語でございます」

はあ、とため息をついただったが、部活で忙しい清田とはこうして宿題でも挟んで過ごすくらいがちょうどいいのではないかという気もしている。いくら好きだと自覚したって、人目も憚らずにイチャついたりするのは嫌だったからだ。毎週日曜に休みがあるわけではないのだろうが、こういう時間の使い方ができればそれでいい。

「でも午後から部活だから出来るとこまででいいよ」
「相変わらずハードだなあ。疲れないの?」
「そりゃ疲れるよ。でも平気」

清田はのこめかみに唇を寄せる。

「今日はたっぷり充電出来てっから、たぶんいつもより元気」
「こんなことで充電なんかできないでしょ」
「出来るって。部活頑張れーって言ってくれるだけでシュート成功率上がるし」
「ウソだあ」

はそんなことを話しながら食事を済ませてしまうと、理解が追いついていない清田に構わず宿題をさっさと片付けてしまった。おかげで1時間以上時間が余り、清田が部活のために一旦帰宅するまで、ふたりはぴったりとくっついて過ごした。

その後、クラスでも付き合っていることをカミングアウトしたふたりだったが、清田の予想通り「やっとか」ないしは「まだ付き合ってなかったの」という反応が殆どで、はむくれた。しかも担任までこのことを嗅ぎ付けると、に清田の勉強をしっかり見てやるように言ってきた。

「うちの家族といい先生といい、なんなの」

またそれを忠実に守ったが清田の勉強の面倒を見始めたおかげか、清田はほんの少しテストの点数が上昇し、進級した頃に紹介されたバスケット部主将の神に感謝されたくらいだ。しかも清田の面倒を見ていることへのお礼だと言って、購買でプリンをおごってくれた。は喜んだが、今度は清田がむくれた。

「先輩かっこいいねえ! 優しいし穏やかだし頭よさそうだし」
「ふん、どうせオレは乱暴でうるさくてバカですよ」

むくれる清田に、プリンを食べながらは言う。

「どうしてこういう時だけ自虐的なのよ。そういう信長が好きなんだって言ってんのに」
「は、え? 、今日泊まりに行っていい?」

は手元に置いてあった「チョコレート・アンダーグラウンド」の単行本を振り上げて、角で清田を殴った。

付き合い始めて以来、ことあるごとに清田はを求めてきた。が、場所はだいたいの部屋である。両親が不在ということはあっても、祖父祖母まで誰もいないという状況はほぼないに等しい。その度に清田は殴られている。

清田の部屋という選択肢がないのは、清田家もまた誰かしら家族がいて完全なふたりきりになどなれない環境だからだ。清田はそれを非常に不満に思っているらしいが、はこのくらいで満足している。清田に触れられるのもキスするのも心地よくて好きなのだが、あまり急いで発展させていくつもりのない関係だからだ。

「今年のインターハイで優勝してきたらいいよ」
「お、言ったな? 去年2位なんだぞ。後悔するなよ!」

2年になり、清田はチームの中心になりつつある。その様子を覗きに行ってみただったが、大声で名前を呼ばれ手を振られて以来、絶対に見に行かないことにしている。

「お盆休みの頃にはインターハイ終わってるから、予定入れるなよ」
「まだ4月だけどね〜」

はプリンで甘くなった口でにんまりと笑う。

王子様、私が欲しいなら茨をかきわけ魔女を倒してくることね。

それまで私は本でも読みながらお城の奥でぐうぐう寝ていることにするから。頑張ってね!

「絶対優勝してやっかんな、待ってろ!」

END