日曜の眠り姫

2

「やめて……お願い離して」
「だったらキャーとか言えばいいじゃん、小父さん飛んでくるよ」
「なんでそんな……
「だって絶対はオレのこと好きだから」

急に耳元でそんな風に囁かれて、は飛び上がる。うっかり顔を上げてしまったら、すぐ目の前に清田の顔があった。髪をハーフアップにしているが、あちこちから後れ毛が出ていて、ふわふわとはねている。少し頬がピンク色に染まっている。まだ部屋の暖房はつけていないのに。

「だって、だって清田言ってたじゃん、お前なんか無理だろとか諦めろとか」

夏休みに入る前、は彼氏欲しさに文芸部の先輩に告白でもしてみようかというテンションになった。それに清田は猛反対、お前なんか絶対無理だからやめておけと言ったものだった。要は嫉妬だったわけだ。だがはそれを鵜呑みにして、告白は取りやめ、夏休みは基本的にひとりで過ごした。

「そりゃ言うだろ、相手、オレじゃないんだし、、先輩のこと本当に好きなわけじゃなかったし」
「だったら夏休み、遊んでくれたらよかったじゃん! メールだって1回もしてくれなかったでしょ!」
「オレ、インターハイ行ってたんだけど」
「そんなの一週間くらいじゃない」

清田が全国2位のチームの選手であることはわかっている。というか今思い出した。

「だいたいなんで今日は部活ないのよ」
「雪で学校閉鎖。市民体育館はなんかの大会やってるし」

はかくりと頭を落とした。その頭を清田の大きな手が撫でるようにして抱き寄せる。

「そりゃオレは部活忙しいけど、休みがないわけじゃないし、夜中までやってるわけでもないし」
……だから何よ」
「問題、ないだろうが」

色々と問題は大量に残っているとしか思えないは、首を振って清田の手から逃げ出す。

「急にそんなこと言われても――

今ここで結論は出せないと言いたかったの目の前に清田の顔が迫ってきた。咄嗟に避ける。

「うわ! やめ! ちょっと!」
「いいじゃん、キスくらい」
「くらいってなんだ!」

腕を取られてしまっているので、はひょいひょいと顔を背けて逃げ回る。だが、清田も諦めない。フェイントにひっかかって2度ほど頬に直撃を食らったが、唇はなんとか守り通している。

「お前も往生際が悪いなー」
「そういう問題じゃなーい! ってか宿題の件はウソか!」
「え、ウソじゃないけど」
「マジか! やらなかったら間に合わないじゃない! 離せ! 本選べ!」
「なんだよもう色気のねえ女だなほんとに。チューさせてくれればやる」
「はいはい、ほらさっさと本選べっていうの!」

隙を突いて腕を引き抜いたは清田の顔を手で突っ張り、本棚に向かせた。

「ある程度私が読んで説明するから、どう思ったか考えてよ」
「えー、じゃーこれ」
……三銃士」

目の前にあっただけじゃないか、とは呆れたが、ひらめく。時計を振り仰ぐとまだ14時だ。

「オッケーオッケー、これでいいよ、映画見よう!」
「映画あ?」
「読んで説明すると長いけど映画なら2時間で済むし、読んだのも児童書と限定されないし」

はしゃがんでDVDを取り出す。映画になると脚色や創作も増えるが、そこは教えてやればいい。あとは感想を考えさせて書き出し、規定の原稿用紙4枚以上になるくらいに組み上げてやればいい。どっちみち書くのだけは自分でやらなければならないのだから、それだけやってやれば充分だろう。

DVDのパッケージを開いてプレイヤーにセットする。再生を待つ間に電気ケトルのスイッチを入れて沸かしなおし、ティーポットに茶葉を2杯分入れる。清田はまだつまらなそうな顔をしているが、ベッドとテーブルの間に大人しく腰を下ろした。

「面白いのかこれ」
「男の子は好きだと思うけど、どうなんだろ」

紅茶を淹れたは、カップを清田に差し出すと、清田からは斜め向かいに当たる位置のまま画面を見る。

、こっち来いって」
「命令すんな」
「こっち来て下さいお願いします」
「プライドとかないわけ……

なんだか絆されているという実感はもちろんある。だが、元々仲が良かったのが災いして、断るに断れない。これ以上拒否してしまったら友人ですらいられなくなってしまう気もして、少し怖い。はずるずると這って清田の隣に並ぶ。隙間を開けて座ったのに、ぺったりと清田がくっついて来る。

「ほんと、なんなの急に! 一昨日までこんなこと一切なかったじゃないよ」
「だってふたりっきりになったことなんてなかっただろうが」
「順序がおかしくない? 好きって言う前に手ぇ出すとか」
「それは悪かったよ、両想いだと思ってたんだって」

そう言いながらの手を取ってしっかりと繋いだ。

「わかったから、ちゃんと見てよ」
「見てるってば」

げんなりしつつ、はできるだけ映画に集中するように努力した。

手は離さなかったが、清田は映画を最後まで黙って見た。は少し疲れていたが、机から原稿用紙と筆記具とレポート用紙を引っ張り出してきてテーブルに置いた。清田はつまらなそうな顔をしているが知ったことではない。これを片付けないことには追い出すことも出来ないのだから。

「面白かった?」
「まあ、うん。けっこう面白かった」
「どこが面白かった? 最初、ダルタニャンが田舎を出るよね」

最初からほぐすようにしては感想を考えさせる。児童書や映画と悟られないよう脚色や創作の部分にはあまり触れないように進めていく。面白かった箇所と、その感想をひとまとめにしてレポート用紙に書き込む。内容と簡単な感想をセットで書く、というのを繰り返せば4枚くらい何とかなる。

「このくらいでいいかな……ほら、これ見ながら書けば?」
「ここで書いて行くよ」
「なんでよ、帰ってから書けばいいでしょ!」
「いやオレ飯食ってくし」
「あんなこと、真に受けるなー!」

とは言うものの、母親の様子を思い返すと、この程度で清田を帰すとも思えない。むしろこの程度で放り出したら後で怒られてしまうかもしれない。今のやけに懐っこい清田も面倒だが、母親はもっと面倒くさい。

レポート用紙を見ながらカリカリと原稿用紙に書き込んでいる清田を横目に、はまたDVDを引っ張り出してきた。三銃士を見たのでつい「仮面の男」を選んでしまった。プレイヤーにセットして再生が始まってからベッドシーンがあることを思い出し、慌てて取り出す。

なんなの私、いやいや清田のバカが触発されたら困るから、それだけ! ベッドシーンがあることを忘れてたからびっくりしてドキドキしてるだけ! ほんとにそれだけで、別に清田のことなんか好きとかそんなんじゃ――

必死に清田のことを考えないようにすればするほど、頭が一杯になってしまう。さっき至近距離で見てしまった彼の顔がぼんやりと蘇ってくる。くっきりした目の輪郭がまっすぐに自分を見つめていて、どうしたらいいのかわからなくなる。別のことを考えなければ、優しく美しく時に残酷な児童書の世界よ! バタつきパン!

は本棚に縋り、刺激の少ないDVDを探す。背後では清田が大人しく原稿用紙に感想文を書いている。ベッドシーンもキスシーンもないお子様向けとなると限られてくるが、全ての条件を満たす「ナルニア国物語」を引っ張り出した。これならどこを切り取っても大丈夫。愛しのアスラン私を助けて!

DVDをセットして、そそくさと座る。途端に清田が腕を引っ張る。

「今書いてるんだからいいじゃない」
「よくないです、ここ座ってください」

レポート用紙を見ながら清田は自分の隣に座るよう促す。はまたずるずると這っていった。

さすがに今度は密着とはいかなかったので、はなるべく清田の方を見ないようにして画面に注視する。本当にどこを切り取っても問題のない安心安全な映画だ。清田が大人しくしているので、のドキドキも治まってきた。ほらやっぱりびっくりしただけ。

書いては消し、消しては書く清田が真面目に原稿用紙に向かっている間、はのんびり映画を見ていた。そうして1時間ほど経過したところで、清田がシャープペンシルをぽいと放り出した。終わったらしい。

「終わったの?」
「終わったー」
「なによ早かったじゃん、お疲れ」

原稿用紙を覗き込んだの視界に清田の手が飛び込んできた。

「なに、なに、なんなの!」

横から抱き寄せられてバランスを崩したは手を振り回した。

「さっき言ったじゃん、キスさせてくれたらやるって」
「いいと言った覚えはないけど」
「照れない照れない」
「照れてない!」

ベッドに寄りかかる状態でと清田は向かい合っている。また至近距離で清田の顔を見ているは、耳が熱くなってきて少し焦る。しかも、今度はちょっとかっこいいと思ってしまった。余計に混乱してくる。

「彼氏欲しいって言ってたじゃん」
「夏休み前はね」
「今はいらないのかよ」
「夏休みもクリスマスも終わっちゃったからね」

の後頭部を清田の手がするりと撫でる。の背筋にぞくりと震えが走る。何、今の。

「大丈夫だって、お前絶対オレのこと好きだから」
「何が大丈夫なのよ……
「無駄な抵抗はやめなさいってことだよ」

少し伏せた目で、清田はにっこりと微笑んだ。今度こそはその表情にドキッとして体を強張らせた。清田の言葉にも表情にも流されまいと必死に抗っているが、さりげなく取られた手は勝手に握り返してしまう。後頭部の手が肩に移動して、ゆっくりと引き寄せられる。

自分でも気付かなかっただけで、清田のこと、好きだったんだろうか――

そう考えた直後、は唇を塞がれていた。ぐるぐると渦巻き、益体もないことで一杯になっていた思考は一瞬で真っ白。何も考えられない、何も出来ないは、離れてはまた吸い付く清田の唇に翻弄されていた。

……、じゃなくて、その、?」
……バカ、バカ清田」

なぜ唇を許してしまったのかもよくわからないし、未だに清田が好きかどうかもわからないしで、はぐったりしている。清田の肩に頭を預けて寄りかかっている、そのを柔らかく抱き締めている清田。

「名前で呼べよ」
「バカ信長」
「なんですかオレの可愛いさん」
「面白くないからそんなの」

だが、だんだん清田の腕の中にくるまれているのが心地よくなってきたは、全身でもたれかかり、背中に腕を回してみる。思っていた以上に馴染むその感触に、まあいいかと思い始めている。清田の方もやっとがくっついて来たので、満足そうだ。

清田はそろそろ引き剥がして再度キスしたいと思っていたのだが、の携帯がけたたましく鳴り出した。

「お、お母さん? ――はい、どうしたの……ハンバーグ好きかって聞いてる」

声を整えて着信に出たは、また呆れた顔をして清田に聞く。夕飯の件だったらしい。清田はうんうんと頷いた。運動部の少年でハンバーグ嫌いというケースは相当稀なのではないだろうか。それから二言三言話したは通話を切る。

「家に電話しておいたって」
「小母さん、危機感ゼロだよな」
「恥ずかしい……

まったくもって清田の言う通りで、は両手で顔を覆っている。

「でもまあ、オレはその方がよかったけど」
「私まだ本当に好きとか思えないんだけど、いいの、それで」
「すぐ好きになるって」

この自信はいったいどこからやってくるのだろうと疑問に思うが、答えが出ないまま、はまた抱きすくめられた。清田の言うように、以前に比べればだいぶ好きになっている気がするが、それも雰囲気に流されているだけかもしれないという疑惑が払拭できない。

「学校どうすんのよ」
「別に誰も驚かないって。絶対『やっとか』って言われるから」
「え!? 私たちそういう立ち位置になってるの!?」
「と思うぜー。オレはよく言われたし、早く付き合えばいいじゃんとかなんとか」

知らなかったのは自分だけかとはまた俯いてため息をつく。確かに隣の席で仲が良かったとは思うが、それは教室の中だけで、それ以外の時間を仲良く過ごしたことなどないのに。明日から急に彼氏彼女になるというのも実感がわかないし、正直言って恥ずかしい。

「もう少し待てない?」
「別に隠しててもいいけど、先延ばししたところで何も変わらねえと思う」

清田はの髪やら頬やらを指で撫でている。

……でもやっぱり待って、少し、気持ち整理つけたいから」
「いいよ。その間にちゃんとオレのこと好きになっといて」

こんな風に優しく、しかも静かな声の清田も見慣れなくて、どぎまぎしてしまう。視線を外したの頬に大きな手が伸びて、または唇を塞がれた。ドキドキするけれど、それは緊張や興奮のせいだと言われてしまえば違うとは言えない。キスは嫌ではないのに、好きだとも思えない自分がもどかしかった。