200日の助走

3

国体が終わり、残すところあとひとつの大会で3年生が引退する――という頃になり、監督は新体制の再編のために試合経験のない部員たちを改めて審査し始めた。神もそのひとり。

今年の1年生は例の不運な特待生の不在により誰にでもチャンスがあり、かといって早くからめきめきと頭角を現してきた意外な人物というのもおらず、どんぐりの背比べが続いていた。神にしても「挑戦」は実を結び始めたばかりで、自信満々で披露できる完成度ではないと思っていた。

「そんなこともないと思うけど……グラフは嘘をつかない」
「うーん、だってまだ百発百中じゃなくない?」
「たかが4ヶ月ちょっとで百発百中になれる方がおかしくない?」
「最近『ライン』が見えるようになってきてはいるんだけど」
「ライン?」

本日のノルマが終わって着替えていたは、女子用ロッカー区画から顔を出して聞き返した。

「ボールが飛んでいくコース、っていうのかな。飛び上がった瞬間の手の位置とか体の形で、今投げたボールがどう飛んでいくのかが見えるというか、滞空時間が長く感じると言うか」

スポドリのペットボトルを手に神は首を傾げている。

「ちょっと人間離れし始めたね……
「そうかなあ」
「じゃあまた事後報告だけど最終兵器を見せてあげようか……
「まだなんか隠してたの……

ちょっと呆れた神はがシャツにスカートになっているのを確かめると、近寄っていって彼女の手元を覗き込んだ。

「ちょ、いつの間にこんなもの」
「先輩たちにフォーム修正してもらってから」
「だからなんで言わないの?」
「言ったら意識しちゃうじゃん」
「そうだけど……

のスマホには、ボールを放り投げる瞬間の神の写真が表示されていた……のだが、どうやらシュート練習中の静止画を繋ぎ合わせた動画になっているらしく、ほぼほぼ同じシュートフォームで滞空している神がパラパラ漫画のように繰り返されていく。

「でもこれ見れば分かるでしょ、ほとんど体にブレがないの」
「これ、いつの?」
「これは先週。記録し始めた時のはもっとバラバラだった」
……でもまだ膝下が弱い気がする。肩もちょっと……
「そうなんだよね、たまにずれるでしょ? その時は外してるの」
「やっぱりそうか……

確かに最初から全シュートを記録するよと言われたら、構えてしまったかもしれない。けれど神はまた何かを掴んだような気がして、顔には出ていないけれどテンションが上がっていた。これほど分かりやすく成果が確認出来たのも自信になった気がする。

するとはちょっと肩をすくめ、ニヤリと笑った。

「それからね、ずいぶん肩ががっちりしてきたよ」
「えっ、そう?」
「自分で感じない? 写真で見ると全然違うよ。これならもう吹っ飛ばされないんじゃないかな」
「それはちょっと……どうかな」
「まあ牧さんの方もさらにムキムキしてきてるからね」

格闘技の選手じゃあるまいし、先輩が無駄にムキムキしてくるのでふたりは声を殺して笑った。神は春から身長も伸びていたし、今ならセンターとしては使えないとは言われないのかもしれない。

「でもこれだけ成果が出てるし、例えセンターやれって言われても無駄にはならないしね」
「得点も入れられて妨害も出来たらすごい選手になっちゃうね」
「なりたい。すごい選手になりたい」

普段の穏やかで優しげな神の声ではなかった。強く、熱のこもった「なりたい」だった。普段殆ど変わらない表情も、決意に満ちて引き締まっているように見えた。その熱意にあてられたはつい、神の手を取った。すっかり大人びてしまったその手を掴んでぶんぶんと振り回す。

「なれる、なれるよ! 神の努力はちゃんと形になってる、早くみんなに見せてあげたい」
「自分ではもうちょっとという気もするけど……
「きっとみんな驚くよ、翔陽とか陵南もびっくりして腰抜かすと思う」
「そ、そこまでは……

困った顔をしていたが、神はそっとの手を握り返した。いつの間にかの手をすっぽりと包み込める手になっていた。

も『すごいマネージャー』、だね」

は照れくさそうに笑い、その繋いだ手はふたりの間でしばし揺れていた。

そののち、2年生の修学旅行と文化祭という普段の練習ペースが乱れまくるシーズンを経て、冬の大会の予選が迫ってきた。高校最後の試合を控えた3年生はいつもよりピリピリしていたし、世代交代を控えた2年生も厳しい顔つきになっていた。

そんな中、予選開始直前になって、監督は神とに引き止められて体育館に残った。そして神の「挑戦」の成果を見るや、口元に手を当てて唸った。その背後ではが目を輝かせて浮かれており、それを見ていた神は笑いをこらえていた。

だが、その時は監督は今後の構想については何も語らず、しかしそれでも手応えを感じたふたりは帰り道のコンビニに立ち寄り、温かいカフェラテと中華まんで乾杯した。なんか監督びっくりしてたよね、驚いてたよな。それだけでも嬉しかった。夢の、神の挑戦への次の扉が開いた。

予選が開始しても練習は続けていたし、順調に勝ち進む先輩たちを眺めながら、神とは「来年のインターハイ予選は絶対試合に出るぞ」と決意を新たにしていた。

それから数日後のことである。この年も海南大附属は県予選を突破して、本戦トーナメントへと駒を進めていた。これ自体は海南にとっては「毎年恒例」というところなのだが、インターハイ同様、初めて冬の選抜を目の当たりにした1年生はちょっぴり緊張していた。

すると、本戦トーナメントを翌日に控えたある日、やはりシュート練習のために残っていた神の元に監督が現れ、「明日、スタメンで出られるか」と言ってきた。

この時はまだ1年生のマネージャーという立場を考えて、体育館の外に出ていた。だが当然聞き耳は立てていたし、監督のその穏やかな声が聞こえたは、へたりとその場に座り込んでしまった。

試合にたくさん出られるような選手になろうというのが目標だったけれど、いきなりトーナメント戦でスタメンとは。どうにもどんぐりの背比べだった1年生の中で、神が一歩前へ足を進めた瞬間だった。

監督が体育館を出るのを待ったは、心なしかだらりと背を丸めているような神に駆け寄った。

「聞こえた……?」
「聞こ、聞こえた」
「本当に、使える選手に、なれるかもしれない」
「もうなってるんじゃ、ないの?」

神は相変わらず表情に乏しい。けれどその目は喜びと期待と感激に煌めいていて、少し揺れていた。も同じだ。そして武者震いだろうか、声は細かく震えていた。震えはいつしか全身に行き渡り、ふたりは大きく息を吸い込むと強く抱き合った。

今度はハグではなかった。震えてしまう体を抑えるように、きつく抱き締めあった。

「こんなに、嬉しかったこと、ない」
「すごい、本当に、努力で目標、掴んだんだよ」
が助けてくれたからだよ」
「ちが、違うよ!」

は勢いよく神の腕から逃れると、片手に掴んだままだったバインダーを突きつけた。

「これ、今まで練習してきた記録、今日でちょうど200日、神は10万本シュートしたの」

毎日500本のシュート練習をしていることはもちろん分かっていても、練習開始日から何日経過したなど数えてなかった。具体的な数字に神は息を呑む。そんなに打ってきたのか……

「神が200日、10万回かけて積み重ねてきたことが、神をここまで連れてきたんだよ。つらいとか休みたいとか、そんなこと1回も言わなかったし、あんまり決まらないときでも不機嫌になったりしなかったし、テスト投げたりもしなかった、これはその結果なんだよ」

バインダーを掴むの手は少し震えていた。神はその手に手を重ね、力を込めた。

「それはも同じだろ。これはの結果でもあるんだよ」

はギュッと唇を引き結んでいて、緩めたら泣いてしまう、そんな風に見えた。神はまたを抱き寄せて今度はゆったりと包み込んだ。ふたりの間には200日の記録、それごと抱き締める。

「明日、全部ぶつけてくるから。の分も、200日分」

国体から約3ヶ月、インターハイからは約4ヶ月、「今年の海南は2年生にバケモノがいる」という認識でしかなかった界隈は突然現れた神にぽかんと口を開けていた。客席でそれを見ていたのニヤニヤが止まらない。何しろ神にボールが渡ったが最後、気付いた時には点が入っている。

あんなやついたか!? 夏の予選では見なかったぞ、どこから湧いて出てきたんだ! そんな声が聞こえるたびに、は腹のあたりで拳を打ち振っていた。

それを一緒に見ていた同学年の部員たちにも200日10万本のことをすっかり話し、もし挑戦したいことがあるなら協力するから言ってほしいと付け加えておいた。神を見習えとは思わないけれど、マネージャーたるものどんな挑戦でも受けて立つ。そんな気持ちになっていた。

だが、冬の大会を終えて戻ってきた神とを待っていたのは、やっぱりあのふたり付き合ってたのか、という呆れた顔色だった。どうやら体育館で抱き合っていたところを目撃されたらしい。

「私がバスケ部の彼氏欲しさに入部してまんまとゲットしたみたいなのはほんとにムカつく」
「オレもほんとに練習なのか、部室でヤッてんだろとか言われた……

ふたりは再燃した噂の渦中で翻弄され、ぐったりと疲れていた。練習納めの今日も真面目に練習し、すっかり暗くなった駐輪場は12月の風に冷え切っていた。特に冬休みの運動部は3年生がいなくなって緩んだ空気が続いており、噂が広まるスピードも早かった。

少なくとも同学年の部員たちは神の努力の結果を素直に称賛していたし、それをマネージャーとしてサポートしたに対しては信頼こそすれ、結果が全ての勝負の世界なのだから副産物として関係の発展があっても別に構わないのでは……という空気にしかならなかった。むしろ黙々と努力を続けた神がどんぐりの背比べを抜け出したことで闘志に火がついていた。

「別にほっとけばそのうち忘れるだろうとは思うんだけど」
「本当に放置でいいのか、何となく不安あるよな」
「先輩たちに聞いても放置派と対処した方がいい派で分かれるんだもん」

というか先輩たちもどうでもいいのだ。神は結果を出している、はサポートし続けただけ、その他の余計なことは部内に影響が出ないことなら好きにすればいい。対処した方がいい派の先輩にしても、部外で話が大きくなって収集がつかなくならないようにすべきだ、という意味でしかなかった。

こんなことでは他の部員のサポートをするたびに付き合ってる疑惑に晒されるのじゃないか……は肩を落とした。だけでなく、神もさらに努力を続けていくだろうし、そのサポートが出来なくなるのは困る。それは自分だけの役目だ。

だが、それで神や部に余計な負担がかかるくらいなら――

「はあ……もっと一緒に努力、したかったけど、これはやめた方が――
「またその話? 一緒に頑張ろうって言ったじゃないか」
「でももう、目標には辿り着いちゃったから」

神の声が厳しくなったので、はつい肩をすくめた。だが、神は強く首を振った。

「何言ってんの? 目標は常に勝つこと、インターハイと冬の選抜の優勝でしょ」
「え、いやまあ、それはそうなんだけど」
「やっとスタメンで使ってもらえるようになったけど、そんなの始まりに過ぎないだろ」

そうだっけ、と春あたりのことを思い返しているの手を取り、神はギュッと握り締める。

「オレたち、まだスタートに立ったばかりだろ。200日の努力はそのための助走でしかないじゃん。やっとスタートラインに立てたのにやめるっておかしいよ」

の手は神の両手に包み込まれていて、じわりと暖かくなっていく。

……それから、オレは、噂が本当になっても、いいので」
……えっ?」

突然話が戻ったのでは驚いて顔を跳ね上げた。だが暗くて神の表情は見えにくい。

……200日って言われてびっくりした。そんなに長い間ずっと一緒にいて、喧嘩したこともない、ムカついたこともない、むしろ毎日楽しかった。練習はキツいけど苦痛を感じたことはなかったし、たぶん、バスケと同じくらい、のこと、好きなんだと思うから」

こう暗くては、表情に乏しい神の僅かな変化も顔色も赤く染まる耳も見えない。けれど触れている手は暖かくて、声は途切れつつも確信に満ちた音をしていて、は手を握り返した。

200日の積み重ねは私たちを思いも寄らない場所へと連れてきてしまったらしい。けれどそれは大きく飛び上がるための助走、もっと高いところへ飛んでいくためにはまだ走り続けなければ。それにはこうして手を取り合って、一緒に走っていきたい。

「私たちも、スタートライン?」
「助走はもう、充分だと思うんだけど」

は何も言わずに抱きつき、神はその体をしっかりと抱き締めた。

「私、バスケ部にいる限りは、神の1番の相棒になりたいと思ってた」
「それでもいいけど――
「ダメ。それじゃもう、やだ」

もう、スタートラインに立ってしまったから。

「神が私のこと好きなのと同じくらい、私も神のこと好きなんだと思うから」

12月の夜に真っ暗な駐輪場の片隅だったけれど、目を閉じてしまったら明かりがなくても同じだった。表情も顔色も声も分からなくても、気持ちは伝わる。それだけふたりで心を合わせて来たから。

言葉も必要ない。そっと触れ合った唇が熱かったから。

END