200日の助走

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神の設定した1日のシュート数は500。がそれを何パターンかシミュレーションしたところ、どうやっても練習後だけでは500本打てる時間は確保できなかった。予選前ということもあって先輩たちは毎日20時近くまで練習していたし、そこから500本打つとなると、素早く休みなく打っても2時間くらいかかる。不可能。

さらに体育館の使用に関してが調査したところ、平日では許可を得ている場合のみ21時まで使用可能だが、生徒ひとりの個人的な理由では使えないとのことだった。21時まで使うには監督自身の申請と立ち会いが必要とのことで、神の場合は20時がリミット。

その代わり、4月から10月までの間は早朝5時から校門が開くので、個人練習でも体育館や校庭を利用してよいとのこと。この点、自転車通学の神は移動の時間が短いので得だ。

ついでに昼休みにも時間を確保できないかとシミュレーションしてみたのだが、何しろ昼休みは1時間。しかも神のクラスは週に2回も4限が体育という日があり、食事と清掃と移動の時間を差し引くと長くて15分程度しか確保できない。

15分あれば数十本は打てるかもしれないが、昼に必ず数十本を確保できなかったら放課後に回さなければならない手前、リスクが高いとして昼の練習は却下された。

というわけで神のシュート練習は朝に300本、練習後に200本という配分になった。のアシストで20秒に1本打てれば、朝も練習後も余裕で収まる計算になっている。もっとペースアップ出来るようならまた考え直す。

「朝って意外と使えるよね」
「8時45分SHRだから、8時半までに教室に戻れてれば充分だもんな」
「20秒に1本の計算だと実はかなり時間余る」
「放課後を減らしてもいいけど、もう少し睡眠時間を確保した方がいいような気もする」

気持ちがアツくなっていたふたりは朝5時半から練習開始のつもりでいたのだが、そうすると寝るのが早くなり、夜に勉強に充てる時間が減るばかりになってしまった。

「てかは本当にいいの、早起きキツくない?」
「うーん、やってみないとわかんないけど、神のチャレンジに乗っかってみたいんだよね」

あくまでこれは個人練習、はバスケット部のマネージャー、神はこんな早朝から付き合わせるのは申し訳ない気がしたのだが、本人はやる気になっているし、それはそれで助かるので気にしないことにした。途中でキツくなったらいつでも休めばいいだけの話だ。

というわけで、ふたりはインターハイ予選のさなか、ブロック最終戦が行われている週末から練習を始めた。試合が午前中で、午後にミーティングと全体練習があっただけで、17時に終了したからだ。週末でも20時までは校内にいても構わないので、まずは500本打ってみるつもりだった。

は余裕を持って20秒に1本と計算したのだが、実際に始めてみるともっとハイペースで打てそうなので、は毎日微調整を繰り返し、睡眠や勉強を削らずに高校生としての本分をしっかり確保した上で500本を続けられるようパターンを作っていった。

「どのくらい入るようになったらいいのかな」
「百発百中」
「神て意外と大胆だよね?」
「そうかな……

シュート練習を始めて1ヶ月、柔軟にパターンを変えていたおかげか、ふたりとも思ったより疲れておらず、テスト期間に入ったが朝晩のシューティングは続けていた。というかさしものインターハイ常連チームもテスト前は練習が出来ないので、外でやっていた。今日はの自宅近くの公園。

「自分ではあんまりわかんないけど……
「嫌な感じに聞こえたらごめん、なんかみんな神のこと繊細で神経質な人だと思ってるっぽくて」
「大丈夫、よく言われる」
「やっぱりか……

表情に乏しいのと、テンション高くべらべら喋るタイプではないので、「神てかっこいいけど怖そう」などと言われてしまうことは珍しくない。

「顔に出ないのはバスケでは得なんだけどね〜」
「だから余計に出なくなったのかもしれない」
「でも毎日見てると表情の変化とか分かるようになる」
「えっ」

からパスを受け取った神はつい肩をすくめた。

「普段の普通の顔でも、あ今日はちょっと機嫌いいなとか、今日は面白くないことあったんだなとか分かるようになって来たんだよね。で、事後報告になって申し訳ないけど、実はここ2週間くらいその記録もつけてた。その日の気分とシュートの成功率って関係あるのかなって」

申し訳ないと言いつつ、さほど気にしていない様子ではクリップボードを指差した。神はなんだか気恥ずかしくてすくめた肩を元に戻せない。機嫌がいいとか悪いとか、そういうのは親くらいしか察知できなかったのに。しかももう2週間もに筒抜けだったなんて。

「でも関係なかった。神の雰囲気、天気、気温、気圧なんかも並べてみたけど全く影響なし」
「えっ、そうなの?」
「私これすごいことだと思うなあ。神はもうそういうのに惑わされない集中力を持ってるんだよ」

照れて何も言えない神は、ちょっとにやついてしまいそうな口元を引き締め、飛び上がってボールを放つ。ボールはバックボードに当たってからネットに落ちる。はそれを記録し、ボールを拾うと神に投げる。神はボールを受け取った手のひらが少し熱いような気がした。

「私と喋ってたら集中できないかなって思ってたけど、それもなさそうだし」
「ひとりきりで静かじゃないと打てないんじゃ役に立たなさそうだから……
「まだ始めて1ヶ月くらいだけど、どう?」

正直、1ヶ月が経過してもコツのようなものは掴めそうになかった。少しずつ自分の体に覚え込ませていく長い作業でしかなく、結果を出す機会に恵まれない限りは終わりの見えない鍛錬だったけれど、それでも実感したことがある。

「頑張れそうな気がする」

こんな日々が苦痛にならないくらいバスケットが好きだったし、がいてくれるから。

「私も」

ニッと笑うに、神も頬が緩む。

きっとが表情を読めるようになったのは、神の方がに気を許しているからだ。それがわかるので、また神は照れくさくなって、唇を引き結んだ。そんな自分が少し恥ずかしかったけれど、隠したくはなかった。になら心を読まれてもいい、そう思った。

早朝の練習はともかく、テスト期間中に毎日ふたりで連れ立って学校を出ていっていたので、とうとうふたりには「付き合っている疑惑」が出た。が、テストが終わるとテスト休み、それが終われば夏休みは目の前なので、疑惑はゆるやかに伝播してそのまま停滞していた。

一方のふたりはそんなことになっているとはつゆ知らず、期末がセーフラインだったことに安堵し、初めての合宿とインターハイで緊張していたし、実は噂になっているということを耳にしたのは夏休みも終わり頃のことだった。

授業がないので500本消化に余裕があるふたりは練習終わりの駐輪場でまた腕組みをしていた。

「まだ運動部の中で噂されてるだけっぽいけど、新学期になったら広まりそうだね」
「こういうの経験ないんだけど、放置でいいのかな」
「私も経験ないからわかんない……

ふたりとも中学時代はごくごく一般的な公立校だったし、神はバスケット部の部長をやっていたけれど、彼の中学ではとにかくサッカー部が大人気で、喋ったこともない生徒にまで噂されるなんて状況は初めて。ふたりは改めて海南の男子バスケット部という存在の大きさに肩を落とした。

「じゃあ私が練習付き合うのやめるかあ」
「えっ、なんで」
「だってそうすれば疑惑が消えないかな」
……そうかな、逆効果って気もする」

神の挑戦に便乗しているのは楽しかったのに……という顔ではため息をついたが、神は組んでいた腕を腰に当てて目を逸らした。分かりにくいが不満に思うようだ。

……そんな噂があるからって、オレたちが何か変える必要ってあるかな。例えば本当に付き合ってたとしても、別に問題ないはずだろ。何がいけないの?」

それが男子バスケット部だったことと、本来なら全員を分け隔てなくマネジメントしなければならない役割のが神ひとりに肩入れしているように見えるのだろう。なぜ神が個人練習に熱心なのかを知るのはごく一部の人間だけだし、がそれにべったり寄り添う必要は実際のところ欠片もない。

「マネージャーでも仲間だよ。だから一緒に努力して何が悪いの」
「神はそう思ってくれても……
「だから、別に他の誰かが勝手なこと思ってても、オレたちがそれでいいなら、よくない?」

自分が退けば神は迷惑な噂に振り回されずに済むのでは……と考えて渋っていただったが、スッと差し出された手に背筋を伸ばした。

「もし今が退部していなくなってもシュート練習は続けると思う。ひとりでも出来ると思う。だけど、これはふたりで始めたことだから、一緒にゴールしたい。それじゃダメかな」

は頭を振って神の手を取った。練習を始める前に握手をした時から約3ヶ月、神の手はすっかり固くなって力強くなっていた。挑戦は少しずつ少しずつふたりを未来に運んでいる。

「ダメじゃない、私もやめたくない」
……、一緒に、頑張ろ」

噂を立てる生徒など誰ひとり残っていない真っ暗な駐輪場、神とは勢いハグをした。体は密着していないし、抱き合うような形でお互いの肩をポンポンと叩いたに過ぎなかったし、バスケットと関係ない感情はまだ不確かだったけれど、どうしてかハグをするのが1番いいと思った。

それが今1番、自分たちの気持ちを表していると思った。

の予想通り、噂は新学期の1年生界隈で「バスケ部の女子マネはやっぱり男目当てだった」という方向のネタになっており、神が同学年の間では1番可愛らしい顔をしていたせいで説得力を持って拡散しているらしい。

だが、夏のインターハイを最後に引退してしまった先輩マネージャーによると「女子マネが必ず通る洗礼だから放置」なのだそうで、ふたりは黙々と練習を続けていた。

「神、見てこれ」
「なにそれ」
「成功率のグラフ。夏休みの終盤からグッと上がってきてるの」
「ほんとだ。やっぱりフォーム修正してもらってよかったんだ」

今年も国体への出場が決まっている海南の主力選手たちは連休を利用して短期集中合宿に出かけている。ので、またお留守番の神とは練習が終わって静まり返っている体育館でクリップボードを覗き込んだ。が思いついて作成したグラフはこのところ角度鋭く上昇している。

神が本気で過酷なシュート練習に取り組んでいるということは1学期の時点で既に監督や先輩たちも把握していたのだが、何しろインターハイシーズン真っ最中で、構っている暇はなかった。なのでそれが終わった夏休み後半、監督と先輩たちに丁寧に指導してもらって以来、微妙な上がり方でしかなかった成功率がグッと上がり始めた。

「すごいよね、ていうか練習始めて3ヶ月過ぎたけど、ちゃんと結果ってついてくるものなんだね」
「自分でもちょっと驚いてる。ダメでもともとと思ってたけど、間違ってなかったかも、って」
「全っ然、間違いなんかじゃないよ! これほんとにすごいことだと思うよ、驚異的だよ」
……すごいね、オレたち」
「あはは、何言ってんの、この結果は神だけのものだよ」
「そんなこと……と一緒に掴んだものだよ」

神の声がふわっと低くなったので、は思わず顔を上げて一歩下がった。まだクリップボードを見ている神の横顔はやっぱり表情が乏しくて読み取りづらかったけれど、耳がちょっとだけ赤かった。これは練習していたからなのか、それとも――

「ねえ神、この間のさ――

噂のことなんだけど、とが言おうとした時、それに重なってどこからか「神〜」という女子の声が聞こえてきた。驚いてキョロキョロしていると、神の方が「あ」と視線を止めた。制服姿の女子が開け放したままの体育館のドアから顔を出して手招きをしている。

「あれってA組の……
「なんだろう、ちょっと行ってくる」
「おお、行ってらっしゃい」

神は無表情のままに背を向けて体育館を出ていった。はその後姿を見送りながら、肩でため息をついた。あの子は確か最近SNSのフォロワーが3万人を突破したとかいう、校内ではちょっとした有名人だ。毎日フルメイクで登校しているが、巧妙なすっぴんメイクなので先生たちが誰ひとり気付いていないという超絶技巧の使い手らしい。

のため息は、とうとう始まったか、というある種の落胆のため息だった。

神はそもそも、なぜか筋骨隆々な体格揃いのバスケット部の中ではずいぶん細身で、顔が小さいので余計にすらりとして見え、例によって目のぱっちりした可愛らしい男の子なので、女子人気は高かった。それが今まで放置されていたのは表情が読み取りづらいのと、バスケット部が多忙なのと、がべったり張り付いていたからだった。付き合ってるんじゃ、という噂もあった。

ところが新学期が始まったのと同時に一斉に拡散された噂は次第に、「どうも付き合ってないっぽい」という結論に達していた。だからは「もう噂なんかに惑わされずに練習出来るね」と言おうとしていた。けれどそれは、「神は今彼女いない」を強調することでもあったのだ。

2学期が始まったばかり、バスケット部はインターハイが終わって前半戦終了というタイミングだし、学年内のヒエラルキーが出来上がる頃だし、遠からずこんな日が来るということはどこかで分かっていた。背が高くて可愛い顔したかっこいいバスケ部の彼氏、神はそういう人になれる。

神に彼女出来たら、もう一緒に練習できないな。は当然の結論にまたため息をついた。神に彼女が出来て、それが理由で距離を置かなきゃならなくなるのは、寂しいけど仕方ないと思える気がする。けれどもし、このふたりで始めた挑戦にその彼女が入り込んできたらと思うと、怒りと悲しみとで頭が一杯になってしまう。これは私と神がふたりで始めた挑戦なのに。

現在副主将である3年生の先輩は「親しい友達とか彼女はバスケ部とは無関係な方がいい」と言う。その方がオンオフの切り替えがしやすくて、どちらも充実させたいなら切り離して向き合う方が失敗が少ない、と言う。怒りと悲しみはあっても、それは正しいような気がした。

プチ有名人のあの子は神を支えてくれるだろうか。大丈夫だよね、好きなら。応援して、サポートして、力になってくれるよね。その方が神のためになるだろうし。

は床に転がるボールを拾っては籠に戻すたびに息を吐き、気持ちを整える。

まあ、こんな役割、私じゃなくても、ね。

「ただいま〜」
「はっ? もう終わったの? 早くない?」

整いきらなかった気持ちが行き場をなくしたは手にしたボールを取り落し、慌てて拾って胸に抱えた。神はやっぱり真顔で戻ってくると、またクリップボードを手にして、短く息を吐いた。

……告られたんじゃなかったの」
「告られたけど、断った」
「そ、そうなん……

神はこともなげにクリップボードに挟まる紙をめくりあげつつ、ぼそりと言った。

……そんな暇ないし、喋ったこともないし、の代わりに練習付き合うって、言うから」

は胸のボールをギュッと抱き締め、「そっか」とだけ返した。

またほんのりと、神の耳がピンク色に染まったから。