「児童相談所には、『児童相談員』という職員がいます。これは任用資格と言って、特別な資格を必要としません。心理学部や教育学部を出た地方公務員なら誰でもなることが出来ます。ジュエルちゃんのお祖母さんは、そういう経緯で児童相談所の職員に就いたことがあったんです」
深夜、警察署に戻ったと寿は、廊下のソファに座って石山さんと温かいコーヒーを飲んでいた。
「だけど、児童相談所の仕事はあまりにもキツい。彼女は地域の相談所に赴任して1年で退職」
「だからここの署員さんと面識があったんですね」
「それが4ヶ月前のことで、幸い今日まで警察が介入する事案がなかったの」
だから彼女が退職していることを誰も知らなかったし、首から下るIDを見て疑いもしなかった。
「この辺でジュエルちゃんを見失ったふたりは、かつて同僚だった児相の職員を見かけてピンときた。声をかけたら、どうもジュエルちゃんに間違いなさそう。ふたりで彼女を捕まえて車に押し込み、猿ぐつわをかけて、現役の職員を装った――ということだったみたい」
ただの一般人ならともかく、ジュエルの祖母が元々は本物の児相の職員だったことが災いした事件だったと言えるだろう。そこへ慌ただしく女性が駆け込んできて、の膝に抱かれていたジュエルを見つけると、わっと声を上げて泣き出した。
石山さんが誘導してきた女性は髪を一束に括っていたけれど崩れていて、その左耳には青い石のピアスがあった。右耳にはない。今度こそ本物のジュエルの母親だ。
「元々結婚を反対されていたんです。その上この子が生まれた直後に夫が事故死」
ジュエルをひとりで育てていこうと決意した母親だったが、そんな時ジュエルの曽祖父にあたる人物が不運な境遇のひ孫に遺産を生前贈与したいと言い出した。遺産ならそっくりそのまま自分たちのものと考えていたジュエルの祖父母はパニック。ジュエルの叔父とその恋人を焚きつけ、ジュエルを引き取って育てるから親権を手放せと迫ったそうだ。
「とうとうアパートにまで押しかけてくるようになって……。今日は検診の日だったんだけど、追いかけられて私も焦っちゃって、あの人たちをまいたらすぐに戻るつもりだった」
ジュエルの叔父とその恋人の追跡を振り切っている間にと三井がジュエルを見つけてしまった。なのであの公園に戻った母親もまたパニックを起こしていた。そしてパニックのまま自宅に帰り、なぜか自宅から1番近い警察署に飛び込んだ。なので到着が遅くなってしまったのだった。
彼女は何度も何度もと三井に頭を下げ、泣き笑いでジュエルを抱き締めた。
「本当は『晶子』と名付けるつもりだったのに、勝手に殊衣瑠と。でもそれが助けになったなんて」
「ジュエルちゃん本人が望めば改名も叶いますよ。調べてみてくださいね」
「本当にありがとうございました。このご恩は忘れません」
事情聴取のため別室に向かったふたりを見送ると、石山さんはまた大きくため息をついた。
「でも、あなたたちのやり方も乱暴だったんだからね」
「他に思いつかなかったんですよ。子供だから」
「都合のいいときだけ子供にならないで」
「都合のいいときだけ大人扱いするくせに」
「ねえちゃん、三井くんの何がいいの?」
石山さんのしかめっ面には音を立てて吹き出した。
結果としてと三井の判断は正しく、危うく署内で拉致誘拐を許してしまうところだったということから、ふたりは石山さんともども厳重注意だけで済むことになった。本来なら感謝状ものだが、それもなしと聞かされたふたりはむしろそんなものいりませんとホッとしていた。
「私たち付き合ってないんですけどね」
「えっ、そうなの? 三井くん、何やってんの」
「なんでオレのせいなんだよ!」
「そうやってあんたたちは近くにいる素敵な女の子を蔑ろにして変な女に引っかかる」
「何の話だ!」
「かっこつけてないで素直にならないと大事なものを失うんだ、って話だよ」
三井がぷいとそっぽを向いて離れてしまったので、石山さんは割と真剣な顔でに「考え直すなら早い方がいいよ」と囁いた。
「……私たち、幼馴染なんです。だからちょっと難しくて」
「だけど今日、三井くんはずっとジュエルちゃんだけじゃなくてあなたも守ってたよね」
「ふたりでいる時は子供の頃の自分に戻れるみたいなんだけど……」
は猫背の三井の背中を見つめながら、石山さんのようにため息をついた。
「彼、もう、大事なものをなくしてるんです」
「それは取り戻せないもの?」
「どうかな……。私は、そう思い込んでるだけだと、思ってるんですけど」
石山さんはの背をそっと押し出しながら、ふっと鼻で笑った。
「三井くんの言うとおりだよね。大人は勝手なことを言う。何度失敗しても何度でもやり直せるなんて、そんなの綺麗事だって高校生にもなればわかるもん。きっとそういう、何が嘘で何が本当なのかわからないところにいて、三井くんは足踏みをしてるんじゃないかな」
時間はもうすっかり深夜だ。自宅までまっすぐ帰りなさいと念を押されたと三井は、それを絶対に違えないと約束をして保護者への連絡は勘弁してもらった。石山さんに促されては先を行く三井の背中を追いながら外へ出た。深まる秋に夜風がずいぶんと冷たくなっていた。
「寄り道せずに帰りなさいね」
「石山さんは帰らないんですか?」
「今日は無理〜。あなたたちだって未成年だから早く帰すことにしただけなんだからね」
ジュエルの母親が到着してから1時間も経っていない。石山さんはしかし、そう言いながら寒さから身を守るように腕を組み、ゆったりと微笑んだ。
「……でも、ありがとう。やり方は正しくなかったかもしれないけど、でもジュエルちゃんはちゃんとお母さんのもとに戻れた。子供だからって理由だけで、あなたたちを信じられなかったことは反省してるのよ、これでも。それに、言うほど子供でもないもんね、高校生って」
はそっぽを向いたままの三井の袖を引っ張り、石山さんの方に向かせた。
「信じてくれてありがとうございました」
「お疲れ様。気をつけて帰ってね。三井くん、さっさと素直になりなよ!」
「う、うるせーな! 余計なお世話だ!」
石山さんはさもおかしそうに笑って、そして片手を上げると署内に戻っていった。は引っ張っていた三井の袖から手を離すと、遠慮がちに手を繋いだ。
「堀田くん、大丈夫だった?」
「いや、知らん」
「知らん、て、協力してくれたのに、それでいいの?」
「知るか」
「何いきなり不機嫌になってんの? そうやってすぐにヘソ曲げて怒ってばっかりで、何考えて――」
「腹減った」
「はい?」
「結局飯食ってねえじゃねえか。どうすんだよこんな時間になって」
は少しため息をつくと冷たい三井の手を引っ張った。
「はいはい、ココイチはまた今度ね。カレーがいいなら買って帰ろ」
ふたりはコンビニでそれぞれ食べたいものを買うと、大人しく地元に戻った。幼馴染だが、家が隣とかいうわけではない。駅から近いのはの家の方で、子供の頃からしょっちゅう預けられていた家なので三井は何の疑問も持たずに家に立ち寄った。
一応遅くなることは連絡してあるけれど、三井の方は親が起きている時間に帰ると質問攻めにあうので面倒だった。の家にいるということならなんの咎めもないし、家で空きっ腹を満たしてから帰れば両親はもう寝てしまっているはずだ。
「どうしてもカレー食べたかったわけね」
「もう口がカレーになってたんだよ」
「うちにご飯なかったらどうするつもりだったんだ」
家には常に冷凍ご飯が常備してあることを三井は知っているので返事をしない。慌ただしかったので忘れていたけれど、ジュエルを抱いて走ったり緊張した時間を過ごしたので想像以上に腹が減っていた。もう一刻の猶予もない。三井は勝手に冷凍ご飯を取り出すと温め、レトルトカレーをかきこんだ。
するとカレー皿の傍らで三井の携帯が喚き立てた。無意識に覗き込んだ三井は仰け反ってスプーンを投げ出してしまった。がつられて覗き込むと、彼の母親から着信である。
「はーい、私です、」
「勝手に出るなよ……」
「今うちでご飯食べてるから大丈夫。ちゃんと帰らせるからね」
三井の母親は息子の帰宅が遅くなることより、一緒にいるのがなので余計に心配をして電話をかけてきたらしい。が適当に説明をして切り上げたけれど、本人に替われとしつこかった。
「……今夜だけ逃げたところで、明日になったらまた問い詰められると思うけど」
「別に逃げてるわけじゃねえ」
「ほんとに? じゃあ今の寿って寿が『なりたい自分』なの?」
三井は返事をせずに食器を片付けると、勝手にの部屋に向かう。母親が電話をかけてきてまで今夜の説明を求めていると思うと、彼女が起きている間は帰りたくない。しかも今日は土曜日、いつもより夜更しして待ち構えているかもしれない。余計に帰りたくない。
「別に私、寿がどう生きようと何も思わないけど、今日の寿は私が小さい頃からよく知ってる寿だったし、私が児相の職員じゃないって疑った時もすぐに信じてくれたけど、堀田くんの家に着いた途端、私の知らない寿が現れて、少し、寿っていう人がわからなくなっちゃった」
がクローゼットのドアに隠れて着替えている間、三井はやはり何も言わず勝手にベッドに転がって背を向けていた。携帯をオンにしても、モニタの内容は何も頭に入ってこない。
一応三井がいるので部屋着に着替えたは、彼と背中合わせにしてベッドに腰掛ける。
「……ジュエルを抱っこして逃げる時、走れたよね」
の言葉に三井は軽く身じろぎをしたけれど、返事はしない。
「そりゃ、私が一緒だったし、あんなの大した速度じゃなかったかもしれないけど、松葉杖ついてた頃に比べたらものすごく良くなってたね、寿の、足」
がついその「足」に触れると、それまで黙っていた三井が勢いよく体を起こした。
「触るな。余計なお世話だ」
「人のベッドで不貞腐れてる人が睨んだって怖くないけど」
「どうしてそう干渉したがるんだよ。今日のことだって、オレたちには関係ないことだったのに」
「だったら私のことなんか放置で帰ればよかったじゃん。何言ってんの?」
またそっぽを向いた三井に、は向き直る。
「私ははっきりしてほしいだけ。この間のキスのことも、今日のことも、ほんの気紛れで遊びで流されただけ、何もかも本気じゃなかったんならそう言ってよ。足の怪我以来寿は変わっちゃったけど、前の自分より今の自分の方が自分らしい、今の自分の生き方が好きなんだって、寿がそう思ってるならそれでいいから、はっきりして」
長い髪に隠れた三井の表情は見えなかった。ほんの少し唇だけが覗いている。
「……気紛れで遊びだったら、どうなんだよ」
「……もう私の知ってる寿はいなくなったんだって、死んだんだって、思うようにする」
「どういう意味だよ」
「キスしたり……今日みたいに昔の寿に戻ったり……そのたびにつらくなるから」
今度はがそっぽを向き、そしてスンと鼻を鳴らした。
「もしかしたら私の知ってる寿が戻ってくるんじゃないかって期待するの、つらい。もう二度と怪我をする前の寿に戻らないなら、早くそう言って欲しい。はっきりしないまま外ではヤンキーやってて、私といるときだけはそういうのちょっと忘れてみたり、ずるい」
言いながら思いがこみ上げたの片目から、しずくがひとつこぼれた。
三井はそのしずくを指で掬い、を抱き寄せた。
「……悪かったな」
「だから、そういうのやめてよ、どっちなのかわかんないよ」
「そんなの、オレだってわかんねえんだよ」
「えっ……?」
が驚いて顔を上げると、どこか虚ろな目の三井の顔が近くにあった。肩に届くほどの長い髪がその頬に影を落とし、余計にその表情に翳りを見せている。少し目を伏せているだけで感情は見えないというのに、その口元に寂しさを感じたのは気のせいなのだろうか。
そんな彼の顔を見たのは初めてだったし、恐らく三井もそんな顔を見せているのは初めてだったに違いない。はつい手を伸ばすと、その翳りのある頬に触れた。暖かいけれど温度が低くて、少しだけカサついていた。
「……本当の寿って、どこにいるの」
「……知るか」
「寿にとって、私ってなんなの」
「それは……」
三井はそれには答えず、頬にあるの手を掴み、そのまま頭を落としてキスをした。
「……それもわからない。こうやって目の前にお前の顔があったらキスしたくなるけど、オレにとってお前がどういう存在なのかなんて、簡単に言葉にできるほど大人じゃない。身体が大人みたいなだけで、オレの中身なんかジュエルと変わんねえんだよ」
冷たい秋風の吹く暗がりに置き去りにされて、自分ではどうすることも出来なくて――
三井はもう一度にキスするとベッドを降り、投げ出してあったジャンパーを羽織って携帯や財布をポケットにねじ込んだ。長い髪がサラリと揺れて、また彼の表情をすべて覆い隠す。
「……いつか、簡単に言葉にできるくらい大人になったら、教えて」
振り返りもせずにそう言ったに、三井もまた背を向けたまま言った。
「そんな日が、本当に来ればな」
「私は待たないけど」
「……そうしてくれ」
言うなり三井はの部屋を飛び出し、冷え込む秋の深夜の街を小走りに走り出した。やっぱり全力では走れる気がしなかった。寒くて身体が強張っている気がするし、息が上がるほど全力で駆け出すのが怖かった。また足に強烈な痛みが走って、また歩けなくなるような気がして。
やがてとぼとぼと歩きになった三井は、再び堀田の家までやって来た。夜遊びだという堀田の姉の原付きはなかった。まだ帰宅していないか、帰宅するつもりがないのかもしれない。ポケットから携帯を取り出して電話をかけると堀田はすぐに招き入れてくれた。
「見事な不機嫌顔だな」
「うるせえな。悪いかよ」
「別に。泊まってくんだろ」
そういう堀田も普段リーゼントにしてある髪が垂れていて、少し眠そうだ。三井は返事もせずに彼の部屋に上がり込むと、仲間がよく泊まるので畳んで部屋に置いてある寝具を開いてゴロリと横たわった。堀田姉弟が過ごしている「離れ」は床暖房があるので暖かい。
「ちゃんと喧嘩でもしたのか」
「うるせえな」
「意地張らないで仲直りしといた方がいいと思うけど」
「関係ねえだろ」
「素直じゃねえなあ、ほんとに」
堀田は鼻で笑い、三井の背に向かってニヤニヤと目を細めていた。
「ま、ちゃんは待っててくれるだろうけど」
「……待たねえとよ」
「そんなの向こうだって意地張ってるだけだろ」
堀田はプレイ途中だったらしいゲームのコントローラを取り上げると、また鼻で笑った。
「もう意地張らなくていいやって思ったら、髪でも切って会いに行けよ」
「なんでだ」
「三っちゃん顔はいいんだから、出した方が効果があるだろ」
「切らねえし会いにも行かねえし」
背中にゲームの音を聞きながら、三井は頬にまとわりつく髪に触れて目を閉じた。
もし本当にそんな日が来たら、本当の自分が見つかって、が自分にとってどういう存在なのかを言葉にできるようになったら、この髪を切ろう。想像もできないけれど、本当にそんな自分になる日が来るなら、その時はもう少し素直になってもいいかもしれない。
今よりもう少し自分が大人になれるなら、その時はに会いに行こう。
まさかそんな日が来るとは、思わないけれど。
END