「なあもうオレ帰りたいんだけど」
「まだお昼食べたばっかりじゃん」
「飯食ったら眠くなってきた」
「昼夜逆転の生活してるからでしょ。3年生になれなかったらどうするの」
薄曇りの秋の土曜日のことだった。は幼馴染の三井寿を街に連れ出して昼食を取り、しかめっ面の彼の袖を引っ張って歩いていた。
「てかもう何も用ないだろうが」
「それで帰って寝て夜になったらフラフラ出かけるくせに」
「別にいいだろ、オレの勝手じゃねえか」
しかし三井は一応引っ張られるままになっている。は速度を緩めるとちらりと振り返った。
「女とふたりで歩いてるところ、誰かに見られたらどうしようって思ってるんでしょ」
「べ、別に……」
「寿の友達ってオラついたのばっかりだもんなあ。バカにされると思ってるんじゃないの」
は返事をしない三井の手を取り、有無を言わさずに繋ぐ。
「三井のヤツ普段ヤンキーのくせに彼女が幼馴染とかマジウケる」
「いつ彼女になったんだよ」
「それ本気で言ってんの?」
「つ、付き合おうなんて言ってねえだろ」
「お前は付き合ってもいない幼馴染をベッドに押し倒してキスするのか」
「ちょ、バカ声がデカい!」
それはつい先月のことである。中間テストだというのに遅刻ばかり、夜遊びをしては昼間っから寝ている息子を見かねた三井の母親がに泣きついてきた。ふたりは違う学校に通っていて、テストの時期が1週間ずれていたのではぐうたらしている三井を追い立てて勉強させようとした。
当然三井は余計なお世話だとを突っぱね、喧嘩になった。で、すったもんだの挙げ句に至近距離で見つめ合ってしまい、ふたりはベッドの上で密やかに唇を重ねることになった――のだが、三井の言うように確かに「付き合おうか」なんていうやりとりはなかった。
「てか、キ、キスひとつで彼女面してんな」
「そんな動揺しながら言われても……まさかと思うけどファーストキスだった?」
「バっ……それはお前だろ」
「私は初めてじゃないもん」
「は!?」
また歩く速度を緩めて振り返ると、はニヤ〜っと笑った。
「私が寿以外の男とキスしたことあったら腹立つの〜?」
「……別に」
「覚えてないと思うけど私のファーストキスは幼稚園の時に寿と、だからね」
「えっ、そんなこと……」
「あんた幼稚園の頃の記憶ほとんどないって言ってたしね」
それも年中さんの時だ。幼馴染以前に血縁関係のない遠い親戚でもあるふたりは1歳前後から付き合いがあり、同じ幼稚園に入園したので、それぞれに友達が出来るまではふたりでくっついていた。その頃に彼氏なのか彼女なのかと囃し立てられてが泣いてしまった。
「覚えてねえ……」
「それで彼氏彼女でもいいよねって話になって、じゃチューしよっかって」
「へ、へえ……」
「だからこの間の件以前に、もう付き合ってたわけだ」
「……お前そんなにオレのこと好きなの」
が足を止めて見上げると、三井はグレて以来長く伸ばしている髪の隙間から呆れたような目で見下ろしていた。だが、1歳前後からの付き合いである。はフンと鼻で笑い飛ばす。
「寿が私のこと好きって思ってるのと同じくらいかな」
「ハァ!?」
「ねえあんたほんとにヤンキー出来てるの……? いじめられたりしてない……?」
「おばあちゃんかお前は」
簡単に引っかかる幼馴染がしかめっ面に戻ったので、はニヤリと笑って手を繋ぎ直す。
「……で結局どこ行くんだよ」
「買い物。寒くなってきたし、制服の時に着るニット欲しい」
「服選びに付き合わせるつもりかよ」
「別にいいじゃんそんなに時間かからないよ」
「ココイチの2辛カツカレー海の幸チーズトッピングハリケーンポテト付き」
「おばさんがいいって言ったらね」
だが、週末になると夜遊びしがちな三井を日中外に連れ出してくれと言い出したのは彼の母親なので、買い物が終わったらカレーでも構わない。三井はしかめっ面だが付き合いの長いともなると、ちょっとだけ機嫌が上向きになったのがわかる。
はそんな幼馴染を引きずって歩いていった。
の探していたニットはそもそも店が決まっていたし、色を紺にするかベージュにするかで悩んだくらいですぐに購入。ちなみに色は三井がベージュの方がいいと言ったので即決。
むしろ隣の帽子屋でニット帽を物色し始めてしまった三井の方が時間が掛かる始末。
それに気を良くしたのか、靴が見たいだのバッグが見たいだの、結果的にはの方が三井のウィンドウショッピングに付き合わされてしまった。ふたりがまた街のメインストリートに戻ると、早くも日が傾き始めている。
「でもまだ飯には早いよな……」
「眠いし用もないし早く帰りたかったんじゃないの〜」
「それはカレー食ってからの話」
確かに普段は目一杯グレてしまって深夜の徘徊や殴り合いの喧嘩も辞さないヤンキーである三井だが、お互いがおむつをしていた頃からの付き合いであるなら自然体で過ごせるらしい。おむつよだれかけ時代を知る相手にイキがっても無意味だ。
夕食にはだいぶ早いが、ひとまず目的は達成されてしまった。さてどうしたものかと腕を組んだふたりだったが、徒歩圏内に広々とした公園があることを思い出した。そこならいくらでも時間を潰せるし、人の目も少ない。どちらにせよ入ろうかと考えていたカフェは行列の満席、ふたりはテイクアウトでドリンクを購入してから公園に向かった。
「寒いのにフラペチーノとかお前ほんとに女かよ」
「低体温が自虐自慢になる時代はもうとっくに終わってんだよ冷え性め」
「しょうがねえだろ、体脂肪少ないんだから」
「それほんとムカつくんだけど」
冷たいフラペチーノのカップを手に今度はがしかめっ面だ。三井はそれを聞き流して熱いカフェモカを飲む。体脂肪が少ないらしい三井はオーダー時に熱めにいれてくれと頼んでいた。よっぽど寒いのか、自分の体を抱き締めつつ肩をすくめている。
徒歩圏内の公園は通りから完全に隔離されておらず、見通しの良い作りになっている。だが、外縁にぐるりと低木が植えられ、その影に隠れるようにベンチが置いてあるので、通行人を気にすることなく会話が出来るようになっている。
ふたりはその中でも低木が育ってしまって特に影になっているベンチを選んで腰を下ろした。三井は身を縮めるほど寒いはずなのだが、まだやっぱり気恥ずかしいらしい。
「今更じゃない? なんだっけ、湘北のほら、でっかいリーゼントの子」
「……徳男か?」
「ああそう、それそれ。そこにはもう典型的な幼馴染がいることはバレてんだし」
三井の同じ学校のヤンキー友達に徳男というのがいる。春頃、彼がたまたま三井の部屋に泊まった翌日、そうとは知らないが部屋に入り、こんもりと盛り上がったベッドに「まだ寝てんのか、いい加減起きろ」とダイブしたところ、中から見知らぬ男子が出てきて悲鳴を上げたことがある。
その時三井はシャワーに入っており、一晩床で寝かされた徳男にベッドを譲っていただけだったのだが、そういうわけで三井にはベッドに飛び込んでくる幼馴染の女の子がいる、ということはバレた。
「徳男って子、黙っててくれたの?」
「黙ってたっていうか、しばらく『羨ましい』ってしつこかった」
「ほら見ろ、私っていう存在は、羨ましがられるものなんだぞ」
「ないものねだりだろ」
しかもその時が私立の女子校の制服を着ていたので、余計に徳男は羨ましがった。
「お前こそ何だっけえーと、友達いただろ」
「寿と違って私、友達は多いので……」
「うるせーな、夏頃に浴衣」
「ああはいはい、うちの委員長ね」
は1学期のテスト休みの頃、所属している美化委員会の委員長を家に招いて浴衣を着る練習をしていた。そこに何も知らずにやって来たのがの漫画を借りにきた三井。
「お前が席外した瞬間『彼女とかいるんですか』って聞いてきたんだからな」
「委員長ダメンズ好きだからなあ」
「ダメンズ言うな」
「だからありがたく思えって言いたいわけね」
「えっ、まあ、そう……だけど」
「それなんて答えたん。付き合っちゃえばよかったのに。委員長可愛い子だったでしょ?」
ベンチの上で膝を立てて座るはまたニヤリ顔だ。
「……別に、彼女とかいらねえし」
「だからなんて答えたの?」
「なんでそんなこと知りたいんだよ」
「私もその子にしばらく『あの子絶対のこと好きだって』って言われ続けたから」
藪蛇。三井は足を投げ出して仰け反った。
「……別に変なことは言ってねえ」
「だから何言ったんだっつってんだよ」
「……いないし、必要ないって」
普段グレた男とばかりつるんでいる三井にとって、初対面でそんなことを聞かれるのは不愉快だった。だからそう返したまでだったのだが、うっかり女子校に入ってしまった肉食委員長は怯まなかった。必要ないのはがいるからだったりして……と茶化してきた。
「めんどくさかったから返事しなかった」
「だからあんなこと言ってたのか」
「短絡的過ぎるだろ」
「だけどそれがきっかけになって改めて意識しちゃって思わず押し倒してキスしちゃったわけね」
「お前ふざけんなよ」
三井は精一杯凄んで見せるのだが、何ぶん幼馴染である。は動じない。
「じゃあ何だったの。好きでもなくて、必要もなくて、めんどくさいなら」
「……だから、キスくらい、大したことじゃないだろ」
「普段から女の子と見れば押し倒してチューチューやってんの?」
それを肯定すれば嘘になり、否定すればキスの理由を説明しなければならない。三井は思わず黙った。相手なので遠慮なくツッコミをかまし、どんな言葉で言い返すことにも抵抗はない。だが三井は中学生くらいからこっち、と口喧嘩で勝てた試しがない。いい返しも思いつかない。
「別に私は寿がどんな生き方してても何も思わないけど、自分が関わることは別だし、女欲しいけど付き合うのは面倒だから手近な幼馴染で我慢しておくか……みたいなのだったら縁を切りたいから、早めにはっきりしてくれると助かる」
の言い分はもっともなので、また返答に詰まる。
そして三井がそんな風に困っていることくらい、にはお見通しである。なので彼女も言いたいことを言うと黙った。半ば勢いのキスだったけれど、それが本当に「手近な幼馴染で我慢」だったとしたら最低でも2発くらいは殴ってから絶交したい。釈明があるなら自分からちゃんと言え。
「別に……そういうつもりじゃ、ねえけど」
「そういうのいいから、どっちなのかはっきりしなよ。いつまでもそうやってグズグズグズグズ」
「だから今言おうとしたんだろ! お前こそそうやってすぐにバカにするのやめ――」
ふたりの声が大きくなって喧嘩腰になったその時だった。ふたりの間辺りから猫の鳴き声のような、少し掠れた音が聞こえてきた。何だ今の。
「猫?」
「いねえけど」
「でもすぐ近くから聞こえたような……」
ふたりが喧嘩を忘れてキョロキョロしていると、今度ははっきりと聞こえてきた。赤ん坊の泣き声だ。
「えっ、嘘、やだ怖い」
「落ち着け、やっぱりすぐ近くから……いた!!! おい嘘だろ」
心霊的なものを想像してしまってベンチから飛び上がったは、ベンチの裏側を覗き込んだ三井の声に慌てて駆け寄った。すると、ふたりが腰掛けていたベンチの影にベビーキャリーが置かれていて、毛布にくるまった乳児がふにゃふにゃと泣き声を上げていた。
「今時捨て子とかマジかよ」
「……信じられない、こんなところに放置してたら死んじゃうよ」
「えっ、おい……」
呆然とする三井の目の前ではキャリーを持ち上げ、ベンチの上に置いてから赤ん坊を抱き上げてしまった。がゆらゆらと揺すってみるが、泣き止みそうにない。
「寿、通報して」
「えっ?」
「警察! 早く電話してよ」
慌てて携帯を取り出した三井だったが、ふと手を止めた。
「いや、直接行った方が早いだろ。警察署すぐそこじゃねえか」
「あ、そっか」
「ここでパトカー待つよりいいんじゃないのか、寒いし」
「うん、そうしよ。私抱っこしていくから、寿は荷物お願い」
とんでもない緊急事態なので喧嘩も気まずいキス事件もひとまず棚上げだ。三井は自分たちの荷物をベビーキャリーに乗せるとの肩を抱くようにして歩き出した。公園を出て元のメインストリートに戻り、信号を渡ったら目の前が警察署だった。
に抱かれた赤ん坊は泣き続けていたけれど、その声はまだ高校生であるふたりでもわかるほど弱々しく、くるんでいた毛布ですらつめたく冷えていて、とにかく急いで大人の手に委ねなければと思った。こんな大変なこと、まだ子供の自分たちの手には負えない。
どれだけ大きく成長していようが、その気になればこんな赤ん坊だって作れるくらい大人になっていようが、それでもふたりはまだ未成年だった。その点では弱々しく泣き声を上げている赤ん坊と同じ。
「可哀想に、こんな小さいのに、あんなところに置き去りにされて」
「誰も、いなかったよな」
「私たちがあそこに座らなかったら死んでたかもしれないのに」
「、落ち着けよ」
警察署を目の前にしては赤ん坊をぎゅっと抱き締め、唸るように怒りを吐き出した。三井はそんなの背中を擦ってやり、そっと肩を抱く。気持ちはわからないでもないが、自分たちが憤ってもしょうがないじゃないか。そんな言葉は飲み込んで。
だがはふるふると首を振り、また唸った。頬に涙が一筋伝う。
「どうしてこんなことができるの。許せない」
三井はそっとため息をついての肩を擦った。