コドモの時間

三井編 2

この日はたまたま、ということだったらしいのだが、ふたりが警察署に駆け込むと、今対応できる署員の中に育児経験者がいないという。あるいは子供はいても嫁に丸投げだったとか、もう昔の話なので記憶が怪しいとか、とにかく素早く赤ん坊の状態を見て状態が把握できる人がいなかった。

なのでついついは赤ん坊を抱いたまま揺すり続けていた。

そして署員の方と一緒にベビーキャリーを漁ってみると、キューブ型の粉ミルクとおむつがいくつか出てきた。一体どれくらいの時間を放置されていたのかわからないけれど、もし長い時間ミルクを口にしていなかったら命に関わるかもしれない。そう考えて焦ったたちは慌ててキューブ型ミルクの作り方を調べた。

「この子、病院にかかった方がいいんじゃないでしょうか」
「今それを当たってるところです。土曜ですし時間も遅いし、外来は休診のところも多くて」
「おむつも見てみましょうか。冷えてたら大変」

結局、2年前に甥っ子が里帰り出産で生まれたという女性署員の方と一緒にあれこれと試したところ、赤ん坊はミルクをよく飲み、おむつも取り替えてもらうとげっぷをして寝てしまった。おむつを取り替えた時に確かめたけれど、目に見えてわかる外傷もなかったし、身体は暖かかった。

「置き去りにされてそんなに時間が経ってなかったのかもしれませんね」
「私たちがベンチに座ってから泣き声が聞こえてきたのって……
「そんな長い時間じゃ……
「確かほんの10分とかそんなものだったと思います」

現在児童相談所の職員が急行中、到着次第病院に搬送、とのことで、行きがかり上はまだ赤ん坊を抱っこしていた。このあと改めて事情を聞かれると思うけど……と前置きをしつつ、記憶が薄れないようにと署員の方は発見時のことを聞いてきた。

「あたりに誰かいませんでしたか?」
「公園に入ってからは何人もすれ違いましたけど、ベンチの近くには……いたかなあ」
「いや、誰もいなかった。それは覚えてる」

とふたりでいるところを誰かに見られたくないあまり、人目につきにくいベンチを選んだくらいだ。三井の記憶は正確だと言っていいだろう。そこからは誰もふたりの前を通過しなかった。それも確実。しかも長い時間ではない。余計に間違いはないはずだ。

「だけど薄暗くなってきてたので、もし近くに誰かが潜んでいたとしても気付かなかったと思います」
「防犯カメラとか、ないんですか」
「それもこれからですね。週末で人手が足りなくて」

すっかり落ち着いてよく眠っている赤ん坊がむにゃむにゃと口を動かし、大あくびをした。しっかりと診察を受けねばなるまいが、顔色はいい。

「かわいいなあ〜。赤ちゃんて無条件で可愛いですよね」
「ほんと。これが2歳も過ぎてくると大変なんだけどね」
「甥っ子さん2歳なんですか」
「も〜力が強くて大変。この間素手で殴られたところが青あざになってたの」
「えー、すごい!」

赤ん坊を挟んでキャッキャと喋っていると署員の方の傍らで、三井はベビーキャリーの中から自分たちの荷物を取り出し、ミルクやおむつなどを詰め直していた。すると、幾重にも重なった毛布の中にキラリと光るものが転がっていた。つまみあげてみるとピアスだった。

小さな青い石のついた細いピアスで、おそらくはシルバー。金属部分がすっかりくすんでいた。

、なあこれ……
「あれっ? 首のところに何か……

ピアスを見つけたとに報告しようとしたら、で赤ん坊の首元に何かを見つけて指を差し入れていた。さらにそこへ児童相談所の職員が来たという報告が来て、署員の女性が立ち上がって応対した。

、これちょっと見――
「ねえ、これって……名前かな」
「名前?」
「ここ、肌着っていうの、こういうの。裏側にほら、手書きの文字が」

ちょっとだけ赤ん坊の襟元を開くと、短肌着の襟元の裏に黒いペンで文字があった。ひっくり返してみると、「珠衣瑠」と書かれている。

……読めん」
「えーと、たま、しゅ、い、る……じゃなくて、あ、わかった、じゅえる!」
……ああ、そういう。じゅえるってなんだっけ」
「宝石」

ふたりが納得の声を上げていると、その頭上に影が差して、女性の声が聞こえてきた。児童相談所の職員さんだろうか。隣にはさきほどの女性署員の方がいて、何やら喋っている。

「よかったね、ジュエル。もう大丈夫だよ。元気でね」

は思わず顔を寄せ、額にキスをしようとした。だが、上からスッと手が伸びてきて、ジュエルは児相の職員と思しき女性に抱き上げられてしまった。

「おふたりが発見してくだすったの? まあ〜ありがとうございました」
「い、いえ……
「おかげで尊い命が危険にさらされることなく無事を得ました。立派なことをなさいましたね」

これには女性署員の方もうんうんと頷いていて、のろのろと立ち上がったと三井は居心地の悪さを感じて頭を掻いたり首を振ったりしていた。しかしこの後改めてと三井は事情を聞かれることになっているので、帰るわけにもいかず、ふたりはそろそろと後退して壁に寄りかかっていた。

すると、搬送先の病院が決まりました、という連絡を男性の署員が報告に来た。その報告に女性署員が返事をしていた、その束の間の出来事だった。お別れをしようとしたら取り上げられてしまったので、はもう一度ジュエルに挨拶をしたくて一歩足を踏み出した。

その時児相の職員だという女性はジュエルをぎゅっと抱きしめてゆらゆらと揺らしていて、背後から近付いたに気付いていなかった。そして赤ん坊に何やら声をかけていたのだが、間近に迫ったの耳に、うっとりとしたささやき声が聞こえてきた。

「おうちに帰ろうね、るうちゃん」

それを聞いた瞬間、はまた足音を立てないように後退し、三井の服を掴んで引き寄せた。

「なんだよ、引っ張るなよ」
……あの人、児相の職員じゃない」

服を手繰り寄せるようにして三井に顔を寄せたは、目一杯潜めて掠れた声でそう言った。

「はあ?」
「大きな声出さないでよ、聞こえちゃう」

そしては爪先立ちになって三井に抱きつき、耳元で囁いた。

「この人、今『るうちゃん』て言った。なんで児相の職員がジュエルの名前を知ってるの」
……確かか」
「るうちゃん、なんて聞き間違えるような言葉、日本語にある?」

それに、先程からジュエルを抱く女性はやたらとぎゅうぎゅう抱き締めていて、それを不自然に感じてきた三井はの身体をそっと抱き返して、声を落とした。

……どうする」
……ベビーキャリーに、手が届く?」
「届く。大丈夫なんだろうな」
「わからない。だけどジュエルが危ないよ」

そう言い交わしたところで、ふたりは離れた。そしてはまたジュエルを抱く女性に近寄ると、にこやかな笑顔を作って殊更明るい声を出した。

「赤ちゃん、もう大丈夫なんですよね」
「えっ、ええもちろん。もう安全よ」
「お母さん、見つかるといいですね」
「あら、それはどうかしら……公園に捨てて行くような親だからねえ」

にこにこ顔のはそれには返事をせず、スヤスヤと寝ているジュエルの上に屈み込み、彼女の身体を支えるようにして手を差し入れた。そして、もう一度「お母さん見つかるといいね〜」と言った直後、膝で女性の腿を押し、ジュエルを奪い取った。

「なっ……!? ちょ、何をするの!」

狼狽えよろけてひっくり返った声を上げている女性には目もくれず、とベビーキャリーを掴んだ三井は走り出した。女性の方はどんなに少なく見積もっても50代後半というところで、10代の速度には対応しきれず、ふたりはジュエルを抱いたまま署内を駆け抜ける。

そして正面入口に差し掛かると、小柄な初老の男性が目を丸くして行く手を塞いだ。

「その子をどうするつもりだ!」

制服を着ているわけでもなく、首からIDが下がっているわけでもなく、ニットベストにシャツ、そしてデッキシューズという出で立ち。手には車のキーだけ。三井はを背中に庇うと、男性の顔に向かって拳を突き出した。男性は思わず身を引いて目を瞑ったが、三井は寸止め。その隙にふたりは外に転がり出た。

、ジュエル貸せ。走れるな」
「走れる」

三井がジュエルを両手で受け取った瞬間、背後から先程の男性がヨタヨタと追いかけてきた。

「待ちなさい、その子を返しなさい、待て」
「ひとまず駅行くぞ。遅れるなよ」
「寿、足は……
「オレが走れなくなったらお前ひとりで行け。いいな」

がベビーキャリーを肩に担いで頷くと、三井はそのまま走り出した。

三井が足の怪我をきっかけに夢中になっていたバスケットから逃げるようにしてヤンキー堕ちした時、は慰めるようなことは何も言わなかった。

中学時代に県大会のMVPを獲得した実績を持つ彼はそのまま華々しいバスケット人生を歩んでいくものだと、本人だけでなく誰もが思い込んでいた。だが、手術をするほどの怪我というアクシデントはなんの予告もなく彼に襲いかかり、復帰にまごついた彼は以来、不貞腐れたヤンキーである。

それでもこの幼馴染とふたりきりの時は、どうしても「子供の頃の自分」が出てきてしまう。相手にオレはヤンキーなんだぞと凄んで見せたところで何の意味もないし、どれだけ自分を隠して偽っても、彼女は騙せない。

そうやってまた「ヤンキーである自分」を見失いそうになっている三井は、混み合っている各駅停車の中でドアに寄りかかり、を抱き寄せていた。の腕の中には目を開けてぼんやりしているジュエル。ふたりは怪しげな男女を振り切って駅まで走り、そのままホームにあった列車に飛び乗った。

ふたりはまだ高校生だけれど、その行く手を遮って「その赤ちゃんはどうした、君たちまだ未成年だろう」と声をかけてくる大人はひとりもいなかった。

「私たち、夫婦に見えるのかな」
……人のことなんか気にしてないだけだろ」

はベビーキャリーから引っ張り出した毛布でジュエルをくるみ直すと、三井との間に隠すようにして抱き直した。三井はそのの身体を腕に抱いて体の影に隠す。

「どうするんだ、これから」
「さっきの女の警察官の人、石山さんて言ってた。あの人に電話する」
「はあ? あいつあの怪しい女のこと信じ切ってたじゃねえか」
「それも理由があると思う」

そこで三井もピアスの件を思い出して、ポケットに手を突っ込んだ。

「この子のお母さんのものかな」
「男がしてる場合もあるだろうけど、とにかくこれを用意した人間のものなんじゃないか」
「そう考えるのが自然だよね」

は三井の手のひらのピアスにそっと触れると、そのまま手を重ねてギュッと繋いだ。

「安全なところで石山さんに電話したいんだけど、うち、もうみんな帰ってると思うんだよね」
「それはうちも。安全な場所か……

三井はほとんど真っ暗になってしまった車窓に目を向けてしばし考え込んでいたが、次の駅に到着したところでを抱きかかえて下車してしまった。秋の夜のひんやりした空気が肌に冷たい。

「ここで降りてどうすんの?」
「お前確か学校がどこなのか教えてたよな? もしかしたらすぐに足がつくかもしれないだろ」
……なんか私たちが悪いことして逃亡してるみたいになっちゃってるんだけど」
「しょうがねえだろ、実際逃げたんだから。だから安全そうなところに行く」

そう言って三井はニタリと笑った。

「安全そうなところって? ここで降りていいの?」
「大丈夫、あとはバスで――確か15分くらい」

三井に促されるままはバスに乗り、見知らぬ場所に降り立ち、バス停からまた5分ほど歩いたところで足を止めた。目の前には錆びた看板、錆びたシャッター。そしてそこには「堀田板金」の文字。

……えっ、堀田!?」
「ここなら絶対安全」

ニヤニヤと口元を歪めている三井はポケットから携帯を引き抜くと電話をかけ、

「悪いな突然、今お前んちの前にいるんだけど、ちょっと匿ってくんねえ?」

と、いきなり切り出した。そして隣で不安気な顔をしているの肩を抱いてまたニヤリと笑った。

「いや、オレだけじゃなくて、と、あと赤ん坊ひとり」

携帯の向こうで「ハァ!?」という大きな声を出した堀田の声が、にも聞こえた。