コドモの時間

木暮編 3

リトルモンスターズとのバトルが長いので、木暮とは息切れしそうになっていた。それが強制終了になったのは16時を過ぎた頃だった。明治に建てられた巨大な家は片側が一面「くれ縁」になっていて、玄関代わりになってしまっている。そこから突然険しい顔をした女性が上がりこんできた。

……どちらさん?」
「えっ」
「あ、おばーちゃん」

くるみちゃんの声に木暮とはサッと立ち上がった。これが例のすぐキレるママがキレられなくなる原因のおばあちゃんか。先輩との関係がよくわからないけれど、事情説明をしておかねば。先輩はここで子供の面倒を見ていたのだが、突然旧友が訪ねてきたので後輩の自分たちがヘルプに呼ばれた……ことになっている。

「そういうわけで、僕らが宿題を見ていました」
「そう、それは申し訳なかったわね。こんな大きな家なのに誰もいなくて」

女性はそう言いつつも厳しい顔が取れない。木暮の背後では急いで先輩にエマージェンシーコールを送る。きっとまだ部屋で話しているだろうけれど、これはもう無理です!

女性は何やらスーパーのビニール袋をいくつも運び込んでいるので、所在ないふたりはそれを手伝いながら先輩を待った。子供たちはもう宿題など放り投げて遊び始めている。というかあれだけWi-Fiを切断されるのを嫌がったくせに、座布団で遊んでいる。

そこに血相を変えた先輩が飛び込んできた。

「ばば、ばあちゃん早かったな!?」
「あんたがひとりでしんどいだろうと思ったから急いで帰ってきたんだよ」
「ごごごめん、急に友達が来てさ」
……もう帰ったの」
「いやまだいるけど、もうすぐ帰るよ。ふたりとも悪かった! 助かったよありがとう!」

おばあちゃんの帰宅は先輩の読みよりだいぶ早かったらしい。先輩の目が泳いでいるので木暮とは「わかってます」と伝えるために小刻みに頷き続けた。これは場合によっては先輩の部屋でひとり気が気でないであろう彼女を連れ出してやらねばならないかもしれない。

だが、まだ厳しい顔のおばあちゃんはとんでもないことを言い出す。

「今とうもろこしとスイカ買ってきたから、食べていきなさい」
「えっ」
「ば、ばあちゃん、でもふたりもほら――
「テーブルの上なんにも出てないじゃないの、麦茶くらい出せるでしょまったく」

おばあちゃんは先輩の焦った声を無視、そのままスイカを抱えて台所へ行ってしまった。

「木暮、、すまん、スイカだけ!」
「先輩、彼女さん大丈夫ですか、何なら私たち一緒に――
「手伝いなさい!!!」
「はいい!!!」

おばあちゃんは怖いらしい。この隙に先輩の部屋から彼女を連れ出して逃走してもいいのでは……と考えただったが、台所から怒鳴られた先輩は薄っぺらい悲鳴にも似た返事をしてすっ飛んでいった。仕方ないのでふたりは座卓の上の子供たちの荷物を片付け、曲がってしまった座卓を戻し、くれ縁側に並んで座って大人しく待った。

15分ほどで茹でたてのとうもろこしと、カットされたスイカが運ばれてきたので大人しく頂く。

「悪かったわね、子供たちの相手、大変だったでしょ」
「い、いいえ、とんでもないです」
「いいのよ遠慮しなくて。こう人数が多くちゃ面倒見きれないもの」

おばあちゃんはまだしかめっ面。どうやら機嫌が悪いのではなくて、無愛想で不機嫌顔がデフォルトのようだ。ただし先輩は普通にビビっているので、くるみちゃんのママが萎縮してしまう程度には厳しい人なんだろう。子供たちも心なしか静かだ。

そんなおばあちゃんに木暮ともビビっていると、今度は大人が数人大きな声で話しながら帰ってきた。これはもしやリトルモンスターたちの――

「どこほっつき歩いてたの! 子供置いて何時間経ったと思ってんのよ」
「帰ってくるなり怒鳴るなよ、バイト代払ってんだからいいだろ。いい小遣い稼ぎになるじゃないか」
「何昼間っから飲んでんだい! 飲酒運転したんじゃないでしょうね!?」
「私飲んでませんから……
「当たり前ですよ!!! 何をひとりだけ我慢しましたみたいな顔してるのよ、まったく」

傍らの頭上で大人がギスギスした喧嘩を始めてしまったので、つい木暮とは身を寄せ合った。どうやら先輩の親を含めたこのおばあちゃんの子供たちが子供を預けて出かけ、主に男が酒を飲んで帰ってきたらしい。運転担当で飲めなかったらしい女性ふたりがおばあちゃんの背中に向かって苦虫を噛み潰している。

「ママー! くるみたち宿題やってたんだよー」
「終わったの?」
「終わった! 全部やったよ」

くるみちゃんは何のためらいもなく嘘をついた。実際には3ページほどしか進められていない。しかし、あとは親子の問題……と黙っていたふたりだったが、おばあちゃんが台所に行ってしまっているからか、くるみちゃんのママはおばあちゃんに負けず劣らず不機嫌そうな声を出した。

「終わってないじゃん! 何やってたの? ねえちょっと全然進んでないんだけど!」
「だって〜ご飯食べに行ってたから時間なかったし〜」
「えっ、焼きそば!? 昨日も食べたでしょ!? ねえもう何やってんの? いい加減にして〜!?」

くるみちゃんのママの声がどんどん甲高くなるので、木暮とは冷や汗が出てきた。気付けば先輩はいないし、くるみちゃんのパパと思しき男性はテレビの前に寝転がって一心不乱に携帯を操作している。リトルモンスターの親がモンスターなのは当然か。これはもう逃亡しても許されるのでは……

そこに恐らくは彼女を逃してきたと思われる先輩が戻ってきたのだが、

「お兄ちゃん何やってたの? この子たち昨日も焼きそばだったんだけど! 糖質ばっかりじゃない」
「は? いやオレ知らんですよ、そんなの」
「まさかジュースとか飲ませてないよね? てかこれ宿題、全部やらせてって言ったよね?」
「やれっつってやるような子たちじゃないじゃないですか」
「ちょっと待ってバイト代払ったよね? 無責任だと思わないの?」
「いい加減にしなさい人様の前で! みっともない!」
「おふくろも怒鳴るなよ! 休みのときくらい静かにしてくれって言ってんだろ!」

くるみちゃんのママがヒートアップしたところにおばあちゃんが戻ってきたので、モンスター大乱闘はおばあちゃんの息子たちにも飛び火して先輩がはじき出された。

「木暮、、すまん、帰ろう。来てくれ」
「だ、大丈夫なんですか」
「悪かったな、嫌なもの見せて」

慌ててくれ縁を逃げていく木暮とはまだ身を寄せ合っていて、お互いの服を掴んでいた。広い家だが、まだ大人たちの言い合う声が聞こえてくる。散々手を焼かされたリトルモンスターズはそんな大人たちの言い争いのすぐそばで笑顔を顔に貼り付けて遊んでいる。

「ああいう人だからマンションの仲良しグループに子供全員押し付けられたんだろうと思うよ」
「えっ、くるみちゃんのママですか?」
「そもそもバイト代は子供たちの昼飯で全部消えたしな」

そして広大な邸宅の玄関にたどり着くと、先輩は何やら紙切れを差し出した。

「何ですか……ってこれ明日の夜の花火大会じゃないですか!」
「ちょっと伝手があってさ。さっき届けてくれたんだよ。ひとまずのお礼」
「いやいや、先輩が使えばいいじゃないですか!」

先輩が差し出したのは、明日の夜に海岸で行われる花火大会の有料観覧席のチケットだった。近年は財政難ゆえ安定した開催が難しくなっている花火大会だったが、毎年少しずつ有料席を増やしても即完売が続いており、翌年の財源として有効利用されている。有料観覧席は広さと見やすさでグレードが分かれており、先輩の差し出したチケットはなんとS席。100組200人限定の椅子席で、ワンドリンク付きというプレミアムチケットだった。

だからそれは先輩が5年ぶりの彼女と使えばいいのでは!?

だが先輩は照れくさそうに笑って、後頭部を掻いた。

「明日帰るらしいし、正直花火見てる時間ももったいないから」

それを目の当たりにしたふたりも何故か赤面、プレミアムチケットを黙って受け取り、そのまま外に出た。もう大人たちの言い争う声は聞こえない。ただ先輩の家を取り囲む巨大で長大なブロック塀の外からは屋根しか見えなくて、途端に現実感を失った。物の怪に化かされたような気分だ。

キッズたちもその家族も、どこか遠いところにある非現実のような気がした。こんなに古くて大きな家だから、きっと目が眩んで幻覚を見たんじゃないだろうか。

だが、木暮の手の中にあるチケットは本物だ。

「どうしようか、これ」
「確かすごく高かったよね、S席」
「うん、15000円て書いてある」
「いちまっ……ごっ……いいのそんなの、もらっちゃって」
「まあ、あの親戚には譲りたくないよな」

ふたりは先輩の家を離れて歩きながら、チケットを恐々と眺めていた。たかが花火に15000円……

……、一緒に行く人いるなら譲るよ」
「え! ……いやそのいないってさっき……木暮こそいないの」
「引退して数日だしなあ」

それ以前に迫りくる受験生という憂鬱な現実から逃避していた者同士である。受験生は2学期から! 夏休みは遊ぶぞー! なんていう開き直りが出来ない程度にはふたりとも真面目だったし、そんな勇気もなかった。一生を左右する関門なのだという刷り込みも消えない。

だが、目に痛い15000、そして相手のいない者同士である。

「予定なかったら、行く?」
「木暮は予定、ないの?」
「勉強しなきゃいけないことを除けば、ね」
……じゃ、行く」

途端に気まずくなってしまったふたりは、そのままろくに会話もせずに別れた。

翌日、プレミアムチケットなので早い時間から並んだりしなくても確実に特等席で花火が見られるふたりはのんびり待ち合わせた。花火が始まるという19時半に間に合えばよし、駅からの移動と屋台を冷やかすので1時間余裕があれば充分だ。

そこにが浴衣で現れたので、木暮はつい目をひん剥いた。

「そ、そんなに驚くこと……?」
「そ、そういう意味じゃないって」
「木暮だって甚兵衛じゃん」
「これはほら、今日もバイトだったから……

と花火大会に行くことになってしまった……と幼馴染にもらしたところ、幼馴染とその父親が大興奮、は絶対浴衣で来るからお前も揃えていけ、と甚兵衛を貸してくれた。親子の読みは大当たり。なので木暮はそっちに驚いていた。あいつらすげえな……

「てかそうだ、今日また先輩来たんだよ。で、これ」
「何これ封筒?」
「昨日のバイト代だってさ。ひとり2000円」
「え!? そんなのいいのに……
「詳しい事情は聞かないで黙って受け取ってくれって言うから」

先輩の家はどうにも複雑な状況のようなので、そこは深追いしないでやった方が親切なのかもしれない。も頷いて封筒を受け取った。

「だから、何でも好きなもの買っていいよ」
「え、何言ってんの、ひとり2000円」
「ほらかき氷あるぞ。食べなくていいの」
「あー食べたいー」
「あんず飴とか綿あめとかベビーカステラとか」
「あー! 誘惑がー!」

ふたり合わせて4000円のバイト代は瞬く間に屋台グルメに消えていった。は我に返って焦ったけれど、今日とふたりで花火大会だと知った幼馴染がバイト代を前倒しで押し付けてきたそうで、気にしなくていいとホクホクしていた。

さらに15000円のスペシャルシートである。有料観覧席の中でもさらに見やすい場所に囲いがあり、ゲートにはスタッフが常駐。指定の椅子こそ折りたたみが可能な簡易ベンチだったけれど、チケットの値段が値段なので大人しかいない上にストローの刺さったジャーに好きなドリンクを入れてもらえるというサービス付き。当然高校生なんかひとりもいない。

なのでむしろその環境に緊張してしまったふたりは肩身の狭い思いをしながらドリンクを啜り、花火を見終わるとそそくさとその場を後にした。ひとり15000円支払わねばならない特別席の中にあっては、ふたりもまだまだ「子供」だった。

「場違い感がものすごかったね……
「みんなアルコールもらってたしな……
「普通高校生花火に15000円使わないもんね……

花火大会の夜は公共交通機関をご利用ください、という主催の必死の呼びかけにも関わらず近隣の駐車場は熾烈な争奪戦になる。それはまだ日が高いうちから始まり、日が暮れ始めた頃にのこのこやって来た車が民家の前とか駐車禁止の場所に車を停めてレッカー車で強制排除されるまでがもはや様式美となっている。なので会場から離脱する人々とクラクションを鳴らす車で辺りは騒然とし始める。

ごくごく地元民であるふたりはその騒ぎを避けて会場を離れ、徒歩で帰宅できる人の波の中に素早く紛れた。駅や主要道路方面から逆に行けばそれほど混雑もしていない。

だが、あまりに騒がしいのでほとんど口も利かずにいたふたりの横を、なんだかとても聞き覚えのある声が通り過ぎた。それに気付いた木暮が声のした方を振り返ったのだが、彼はすぐに顔を戻すと、の背中を抱えるようにして人の波を外れ、道路脇の自販の影に彼女を押し込んだ。

「ちょっ、どうしたの!?」
「あれ、あそこ! 昨日の……

が木暮の肩の向こうを覗くと、あのリトルモンスターズが飛んだり跳ねたりしながら金切り声を上げていた。手にはチカチカとLEDが点滅する提灯のようなおもちゃを下げ、同じ方向に歩いていく通行人の隙間を行ったり来たりしている。

その後ろからくるみちゃんのママがまた甲高い声で怒っていて、パパは歩きながら一心不乱に携帯を操作していた。さらにその後ろからはこれまた不機嫌な顔をしたおばあちゃんが腕組みをしたまま歩いていく。木暮とはそれが通り過ぎるまで自販機に寄りかかって俯いていた。

「急にごめん。気付かれたら厄介かなって」
……私たちも、ああいう大人になるのかな」
「えっ?」

の視線の先には屋台グルメのゴミが散乱する道路があり、木暮の傍らの「ペットボトル用」と書かれた自販機のゴミ箱には屋台の商品と思しき串が何本も刺さっていた。車道と歩道の区別がない通りには歩行者が溢れていて、その後方から黒いアルファードがしつこくクラクションを鳴らしている。

「なんで大人なのにちゃんと出来ないんだろうって思うのは、私がまだ子供だからなのかな」
……子供の頃って、大人になれば立派な人になれるんだと思ってたな」
「私たちその『大人』が目の前に迫ってきてるけど、こういうの見てると意味がわからなくなる」

威嚇するようにエンジンを空ぶかしするアルファードが迫っていたので、木暮はまたの肩に手をかけて庇うように撫でた。

「昨日もそう。ほんの2時間くらいだけど、私たち一生懸命あの子たちの相手したのに、あの家の人たち、誰もお礼を言わなかった。くるみちゃんのママは怒ってただけ、パパは挨拶もせずに携帯見てた」

慣れない子守に奮闘したふたりに「ありがとう」と言ったのは先輩だけだった。

……頑張って受験して大学入っても、その先に待ってるのはあんな大人しかいない世界なのかな」

木暮はついの手を取って緩く握りしめた。

「それを、確かめに行くのかもしれないな」
「確かめに行く?」
「大人になるって、そういうことかなって、今ちょっと思った」

アルファードが過ぎ去ったと思ったら今度は大型のバイクが3台、大音量の音楽を鳴らしながら突っ込んできた。それが通り過ぎるまで黙っていた木暮はから視線をそらして少し首を傾げる。

「オレも昨日はだいぶムカついてた。子供たちにも、大人たちにも。それで、自分はどっちなんだろうって思ったけど、どっちも嫌だって思っちゃって、それってやっぱり現実逃避だよなってげんなりしてた。だけど、オレたちが今嫌だなと思ってるような大人にならなきゃいけないわけじゃないと思う。本当はどんな世界なのか、自分の目で確かめに行かなきゃいけないって、思ってさ」

世話になったら礼を言う、公共の場所を汚さない、当たり前のことが当たり前でなくなりつつある世界で、自分は一体どんな大人になりたいのか、それを探しに行く。長く探索の旅を続けてもなお今夜の気持ちがなくならないのなら、それが自分の有り様ということなのだろう。木暮は顔を戻して微笑む。

「だからその前にやりたいことやっておいた方がいいのかもしれないよ」
「やりたいこと?」
、やり残したことあるって言ってたろ。本当にもう出来ないこと?」

インターハイは夢ではなく、目標だった。目標には手が届いた。だから現実逃避をしていても、自分は納得して先に進める。そう考えた木暮は、の「やりたかったこと」の実現はとても大事なことなのではないかと思えてきたのだ。

するとは途端に困った顔をして首をすくめた。

「ええっとぉ……それがですね……半分くらい出来まして……
「おお、よかったじゃないか! 難しいって言ってたから気になってたんだよ」
「いやまあ簡単なことじゃなかったのは事実で……でもちょっと棚ボタで」
「へえ。でもまだ半分なんだろ。残り、卒業までに出来そうか?」

朗らかに笑う木暮から目をそらして苦笑いのは、なんだかモゴモゴと口ごもっていたけれど、やがてゆるりと繋いだままになっていた手をギュッと掴み、顔を上げた。

「下らないって笑わない!?」
「えっ!? わっ、笑わない、ようにするよ」
「いや笑ってもいいけどバカにしないで!」
「わ、わかったよ、なんだよ」

木暮がまた宥めるようにの肩に手を置くと、は息を吸い込んで言った。

「こういう風に、一緒に花火とか行ってくれる彼氏ほしかったの! でももう高校生終わっちゃう、私の人生って『高校生の時に彼氏と花火見たことない』ってことになるんだって思ったら想像以上にしんどくて! でもこれで一応、男の子と一緒に花火見た、ってことになるから! 半分!」

全部吐き出してしまったは一気に息を吐ききって肩を落とした。ああ言ってもうた。だが、それをポカンと口を開けたまま聞いていた木暮はしばらくすると、の両手を重ねて手の中にくるみこんだ。夏の湿気がふたりの肌をぺたりとくっつける。

「木暮……?」
「オレで……よかったの」
…………うん。好きな人、いなかったし、これから好きになる人より、今は木暮の方が、いいもん」

自分を想ってくれる素敵な男の子がいないことと同じくらい、誰かを心から好きになれない自分にもがっかりしていた。そりゃ彼氏できないはずだよ、誰のことも好きにならなかったんだもん。

だというのに彼氏とドキドキの花火大会の経験がないまま高校生を終えることになるのには胸が抉られてどうしようもなかった。そこへ降って湧いたプレミアムチケット。これで私は一応男の子と花火大会行ったことになる! と浮かれて出かけてきたけれど、自分の人生唯一になるかもしれない夜を一緒に過ごしたのが木暮でよかった。そう思えた。

まだ見ぬ「素敵な彼氏」がどんな人か知らないけれど、きっとずっと記憶に残る昨日と今日を一緒に過ごせたのが木暮でよかった。はそんな思いで彼の目を見つめた。

「だから、ありがとう。今日のこと、私ずっと忘れないよ」
……全部に、しなくていいの」
…………んっ?」

しんみりした気持ちでいただったが、その木暮の呟きに首を突き出した。どういう意味?

「も、もし、今ここでオレたちが付き合えば、全部になる、けど」

照れた様子の木暮の頬には思わず息を呑んだ。もし今ここで木暮と付き合うことにしたら、「やりたかったこと」は全部達成できたことになる。花火を眺めていた間にそんなつもりはまったくなかったけれど、夜はまだ終わらない。好きな人と花火を見た夜だと記憶しても、いいのではないだろうか。

……そんな、勢い任せみたいなのって、どうなのかなって思う」
……まあ、そうだよな、ごめ――
「でも私たち、大人でも子供でもないし、別に、悪いことってわけでもないし」
……

は肩に置かれた木暮の手に手を重ね、彼の腕に滑らせていく。それを木暮が引き取って背中を抱き寄せる。まだまだ通りは花火帰りの客で溢れかえっていて、うるさくて、無秩序で、汚い。

「名前が、いいな」
「えと、、これで、全部?」
……ううん、もうひとつ。1番、大事なもの――

ぎこちなく抱き合ったふたりは、そのまま自販機の傍らで唇を重ねた。

その傍らを、「ああいうの、恥ずかしいと思わないのかな」という大人の声が通り過ぎていった。

END