コドモの時間

藤真編 2

例えばそこに翔陽の生徒が通りかかって「えっ、もしかして藤真とって付き合ってんの?」という勘違いをされるのは別に構わない。なんならこれをきっかけに本当に付き合ってもいいと思う。は万能の人なだけでなく、かなり藤真好みの女の子なのでそれはむしろ歓迎。

しかしそれより何より気恥ずかしいのは、スーパーにひしめくご婦人方の「高校の制服着た男の子と女の子が小さな子供連れて買い物してるけど……」という訝しげな視線である。不運にも藤真はご近所さんにも快活に挨拶ができる少年なので、知り合いに会ったらと思うと気が気じゃない。

そういう不安を抱えて近所のスーパーにやって来た藤真だったが、店の入口をくぐるなり、は藤真のことを「お兄ちゃん」と呼び始めた。

「お兄ちゃんて何?」
「顔は似てないけど、こんな地元で噂立てられたくないでしょ」

藤真は力なく相槌を打った。誰がどんな目で見ているかわからない場所で、それがやがて勝手な言葉で吹聴されるともわからない世の中、面倒の種は撒かないに越したことはない。そう、今ここではオレはお兄ちゃん。そしたら、そしたら――

「じゃ、じゃあ、何を買えばいい?」
「わー、よく私の名前知ってたね! 最初は玉ねぎ!」

お兄ちゃんが妹だか年下のいとこだかを苗字で呼んでいたらおかしいのである。意を決して名前で読んでみたところ、はニカッと笑ってくれた。そりゃあ知ってますとも、生徒会役員選挙の時、投票用紙に君の名を書いたんだから……

藤真は玉ねぎをバスケットに入れながら、少し頬が熱くなった。新幹線を模したキッズカートに乗って上機嫌のリクさえいなきゃ、と思うと胸がきゅっと締め付けられる。リクがいなかったら、手を繋ぎたい。兄妹だかいとこ同士だかのふりなんて、しなくてもいいのに。

の指示で牛丼の具材を集めると、今度はおやつである。時間稼ぎのために手作りするというは何やら製菓コーナーや粉類のコーナーであれこれ物色し、締めに牛乳と生クリームをバスケットに放り込んで藤真を見上げてきた。

「どうする? 全部私が立て替えておく?」
「えっ、いいよそんな、オレが出しておくよ」
「足りる?」
「足り……っ、金額によります……
「私買い物して帰る予定だったから余裕あるよ。立て替えなんだから気にしなくていいんじゃない?」

小遣いの支給日からそう遠くない藤真だったが、春休みは毎日のように校外でも練習していたので減りが早い。は姉と話がついているようなので問題はないのだが、なんとなく自分の家のことなのに女の子の財布に頼るのが恥ずかしいような気がしてしまう。

予算のことがすっかり頭から抜け落ちていた藤真がお菓子なんかを放り込んだバスケットは締めて2653円。後ろを向いてコソコソ確認したところ藤真の所持金は一応5000円あったのだが、は慣れた手つきで1万円で支払っていた。

わけもなく侘しくなってしまっている藤真は、袋詰めを手伝いながらぼんやりと考える。

オレはかわいいと思うし、いいなって思うんだけど、って付き合ってる男いないんだよな。それって、こういうの「頼れる」感じのせいだったりするんだろうか。

その上はいわゆる「ロリ感」のないタイプで……オレそういうの好みじゃないから、むしろそこがいいくらいなんだけど、どうにもさっきから自分が年下にでもなったような気がしてくるのも事実だったりする……。キャンキャンうるさいのよりよっぽどいいと思うんだけど。

「ではリク隊長、今度はじーのおうちに帰らなきゃいけません」
までじーとか言うの」
「だけど、どこでお化けが出てくるかわからないので、隊長、気をつけて帰りましょう」
「お化けやだあー」
「大丈夫です隊長! お化けを見つけたら教えてください! じーがやっつけてくれるから!」
「だから……

に乗せられたリクはすっかりその気になって、角に差し掛かるたびに恐る恐る覗き込んでは、何もいないことを確かめてからまた歩き出す。時間的に空腹を感じてもおかしくなさそうなものだが、お化けが出てくるかもということに気を取られているのかもしれない。

そして帰宅すると、は急いでキッチンに立ち、藤真にはリクの上着を脱がせて踏み台を持って来いと指示した。ご飯はすっかり炊きあがっているし、もう藤真は言われるままである。

「じゃあこれからご飯を作ります。リク隊長には大事なお仕事があります」
「おしごと!?」
「ご飯においしくなーれって魔法をかけるお仕事です」
「魔法なんか使えないよー」

しかしそう言いながらリクはまんざらでもなさそうで、踏み台の上で踵を上げたり下げたりしている。に「支えててね」と耳打ちされた藤真は後ろからリクを囲い込みつつの手元を見ていたのだが……早い。白滝の下処理、玉ねぎをスライスするのもあっという間。

「リクくんに合わせてちょっと甘めにするけどいい?」
「え、全然平気」
「好みで七味とかで調節してね」

は藤真にコソコソと説明しつつ、箸をひとつ取り上げて魔法使いよろしくサッと構えた。

「ゴハン、オイシクナーレ!」
「おいしくなーれ!」
「だめだー! リク隊長、私は魔法が下手なので、隊長やってください!」
「いいよ!」

箸を持たされたリクは踏み台の上で構えると、大きな声で「おいしくなーれ!」と絶叫。はすかさずスプーンに煮汁を取って口に運び、大袈裟に歓声を上げた。

「隊長すごい! おいしくなりました!」
「ほんとに!?」
「隊長、食べてみて。おいしい?」
「おいしー!」

藤真はポカンとしてそれを眺めていた。リクは完全にの手のひらの上で転がされている。そんな風にやれ魔法だの秘密の方法だの、はテキパキと牛丼を作りつつリクを飽きさせないようにパフォーマンスを続けていた。

「よーし、そろそろ出来上がり! 藤真、丼出してくれる?」
「は、はい」
「隊長はスプーンをテーブルに並べてください!」
「はーい!」

というか転がされているのは藤真も同じだ。に言われるまま丼だのお茶だのリクの前掛けにするタオルだの、藤真は指示通りにちょこまかと立ち働く。そして全員でテーブルに付き、いただきますと言った瞬間ドッと疲れた。慣れないことをすると気力の消耗が激しい。

見ればテーブルの上には味噌汁と浅漬けが用意されていて、しかしそんなものいつ作ったのかも覚えていない。姉には悪態をつくけれど、藤真だってお母さんのお手伝いをするわけじゃない。朝から晩まで部活で、ご飯も掃除も洗濯も、全部全部母親任せ。

気力の消耗は激しいけれど、だからこそ食べねば。空きっ腹に詰め込めばまた元気が湧いてくるに違いない。そう思いながら藤真はの作った牛丼をかきこんだ。

なにこれ、うっま!!!

ちらりと横を見ると、リクもぱくぱく食べている。これは空腹だから美味く感じるのか、それとも本当に美味しいのか……。そんなモヤモヤはまだ残っていたけれど、それでも藤真は牛丼も味噌汁も一気に平らげてしまった。そして改めて思う。

簡単に「万能の人」なんて呼んではいたけれど……、何でこんなこと出来るんだろう?

空腹が満たされてひもじさが和らぐとだいぶ気持ちが楽になってきた。藤真はまた指示されるまま洗い物や片付けを手伝いつつ、なんとなく嬉しくなってきてにくっつきたくなっていた。困ったときはお互い様、なんていうけど、ここまでしてくれるなんて。

「ねえ藤真」
「え、なに?」

の声も甘ったるく聞こえてしまうのは気のせいだろうか。藤真の脳裏に、とろりとした表情で甘えてくるとかいう妄想が駆け巡る。が、

「なんかアニメのDVDとかないかな?」

まあそんなわけはない。

「もしくは子供が見られるような映画とかでもいいんだけど」
「えっ、えーと、何かあったかな」
「さっきレンタル店あったし、何か借りてくればよかった〜」

はしかめっ面で後悔している。姉からリクのことを頼まれたが、食事をすればもしかしたら眠くなるかも、と言っていたのを藤真は思い出した。だが、リクはまたおもちゃで遊んでいて眠そうには見えない。読みが外れたらしい。

「リクくん意外と体力あるな〜。ちょっと寝てくれると時間が稼げるのに〜」
……、そんなにきっちりやらなくてもいいよ」
「え? なんで?」

それはに対して申し訳ないのと、奮闘してくれていて感謝しているのと、そして僅かばかりの嫉妬があった。もうずっとはリクのことばかり、藤真はあれやってこれやってと指示されるがまま、そんなことよりリクより自分を見てほしくなってきた。でもそんなこと言えるわけがない。

「いやその、もう充分だよ」
「でもまだお姉さん戻れないんじゃないの?」
「そ、それはそうなんだけど」
「ちょっとお昼寝してくれたら、その間におやつの準備できたんだけど」

そしてリクがちょっとお昼寝してくれたら、ふたりになれる。藤真はカッと目が覚めた。それだ!

「よし、ちょっと寝かしつけてみようか」
「うん、そうだよな、ちょっと寝た方がいいよな」

今日は気温が高くて温かいし、ソファの上にでも寝かせて母親のひざ掛けでもかけておけばいいだろう……なんてことを考えていた藤真だったが、昼食の片付けを終えたはまたジャケットを脱ぐと、ふざけながらリクに擦り寄って彼を抱き上げた。

「ねーねーリクくん、リクくんは何のお話が好き?」
「お話? 3びきのこぶたー」
「えー、リクくんオオカミ怖くないのー?」
「怖くないよー」

リクを赤ん坊のように横抱きにしてソファに座ると、はさらにぎゅっと抱き寄せ、低い声で語りかけながらゆらゆらと揺れている。いそいそと母親のひざ掛けを持ってきた藤真はまたポカンとして立ち止まった。寝かしつけるってそういうこと!? 横に倒して腹ポンポン叩けばいいんじゃないの!?

「3びきのこぶたの他は? 七匹の子ヤギとかも怖くない?」
「平気ー」
「リクくんすごいなーかっこいいねー」

はそんなことをリクに向かって語りかけつつ、手だけを伸ばして藤真を手招き、藤真が近付くとひざ掛けをパッと奪ってリクをくるみ込む。そしてまた低い声で語りかけながら延々ゆらゆら。リクは手におもちゃをしっかり掴んだまま、好きな絵本の話をしている。藤真は放置。

それでなくとも普段なら部活で走り回っている時間、手持ち無沙汰が過ぎた藤真はテレビを付けた。するとまた藤真の方を見もしないが「消して」と言ってきた。大人しく消す。

そんな状態が実に30分以上も続いただろうか。

ある時からリクが喋らなくなって、それからしばらくして手からおもちゃがぽたりと落ちてもはリクを抱いたまま揺れていた。そしてようやくソファに横たわらせると、ひざ掛けを首元までかけてその場を離れた。そして忍び足でキッチンへ向かう。

――おやつの支度、すんの?」

今度はちょっと不貞腐れてしまった藤真だが、そう背後から声をかけるとはくるりと振り返って手をひらひらと振った。しないらしい。

「ちょっと、疲れたから、休憩。こんな大きな子寝かしつけるのはあんまりやったことなくて、うまくいくかわからなかったんだけど、よかった。疲れてないはずないと、思ったんだよね」

はーっと静かに息を吐くの背を、藤真は無意識に撫でていた。

……ごめん」
「え、そういう意味じゃないよ」
「なんか、って何でも出来る人って思ってて、それで、つい」
「だからそれは大丈夫。大きい子抱っこして揺れ続けたから疲れただけ」

は途端にシャキッとした表情になって藤真を押し返した。それは当然の遠慮だったのだろうが、その押し返す仕草に拒絶を感じてしまった藤真はまた気持ちが落ちる。キッチンに背を預けて寄りかかるに並んで俯いた。

「だから……疲れさせてごめんって、思って」
「ちっちゃい子面倒見るのなんてそんなもんだよ〜」
は、関係ないのに」
……ひとりじゃどうにもならないからって、頼んできたのは藤真じゃん」

朗らかだったの声が曇る。我に返った藤真が顔を上げると、は自分の体を両腕で抱いてしかめっ面をしている。やばい、オレ今何言った?

「なんか余計なこと、したかな」
「そ、そんなこと」
「それとも休憩なんかしないでさっさとおやつ作った方がよかった?」

藤真は労うつもりだったのだ。だが、がリクばかり構って自分の方を見向きもしないので、リクのことでそんなに疲れなくてもいいのに、ちょっとくらいこっち向いてくれてもいいのに――と思ってしまっていたことが滲み出てしまったらしい。

それにしても、普段「万能の人」として生徒会長まで務め、先日入学したばかりの1年生はともかく、がどんな人かを知る2・3年生から絶大な信頼を寄せられて慕われているが不機嫌そうな顔をしている。不機嫌な顔を声を、隠しもしないで藤真に見せている。

ってこんな風に機嫌悪くなったり、するのか。

そう思った瞬間、それが「きっと誰も知らない本当の」なのだと気付いた藤真は、痛むほどの胸のときめきに思わず喉をごくりと鳴らした。だが、なんと言おうかと逡巡していた藤真の隣で、またが長く息を吐いた。

……ごめん、言い過ぎた」
「えっ!?」
「今言ったこと忘れて。ごめん、嫌味言うつもりなかった」

は顔を反らして藤真に向かって手のひらを突きつけた。

「あんな小さな子いきなり預けられてどうしたらいいかわかんなくて当たり前だよね。私が通りかかるかどうかなんてわからないわけだし、そこはお姉さんもやむを得ないとは言えちょっと危機感足りないと思う。初めてのことだから今後は気を付けてくれるとは思うけど、お姉さんたちが大変な目に遭ったみたいにリクくんにアレルギーとかあったらとんでもないことになるんだし、ああ私何言ってるんだろう、ごめん、お姉さんのこと悪く言うつもりもなかったのに」

早口でそうまくし立てたは自嘲気味に笑って上げていた手を下ろそうとした。その手を思わず掴んだ藤真は、カサついたの手に驚きつつ、しかしこれだけはと声を上げた。

「間違ってない、は間違ってないって。オレに預ける方がおかしいんだよ!」

驚いたは藤真を見上げて目を丸くしている。

「オレ、下に弟も妹もいないし、いとこもみんな年上だし、あんなちっちゃい子初めてで、の言うようにもしオレがしくじってリクに何かあったら取り返しがつかないだろって言ったけど、聞かないんだよ、努力しろとか、言うだけで……

努力するのは構わないが、幼い子を預かって取り返しの付かないことをして、初心者なので間違えましたでは済まない。そういう危険なことをしているのだと伝わらなかった苛立ちがずっとつきまとっていたのだ。が助けてくれなかったらどうなっていたことやら。

「だってそうだろ、オレ赤ちゃんすらリクが初めてで、ていうか高校生で、普段一緒に暮らしてるわけでもないのに余裕で面倒見られるわけないだろ。さっきスーパーにいっぱいいたおばちゃんたちに預けた方がよっぽど安全だよ。なのに……

藤真もつい全部ブチ撒けてしまった。気付くとがそっと腕を撫でてくれていた。

「うわ、ご、ごめん、つい」
「ううん、気持ちめっちゃわかる。わかりすぎて泣きそう」
「えっ? どういう……

今度は真剣な眼差しでが見上げている。どういう意味?

「私、年下のきょうだいといとこ、全部で18人いるの」

静まり返ったキッチンに、ぽたりと雫の垂れる音だけが響いた。