コドモの時間

藤真編 1

かなり年が離れているというのに、優しいどころか常に威圧的な姉がまさかの結婚で家を出てから4年、中学の半ばからひとりっ子状態を満喫していた藤真健司であったが、この麗らかな春の日の土曜、近所の公園でがっくりと肩を落として目が死んでいる。

普段なら自身が部長を務めるバスケット部の練習で不在であることがほとんどなのだが、たまたま今日は始業式。古くからバスケット強豪校で知られる翔陽高校でも始業式の日は部活禁止。姉の襲来はそれを狙ったとしか思えないタイミングであった。

いわく、昨夜姉は天ぷらを作ったのだそうな。実家にいる頃は料理などついぞやったことのない姉だが、それでも一応作ったそうだ。すると今朝、夫の顔が真っ赤に腫れ上がっていたという。慌てて病院に駆け込んだところ、何か食べ物に当たったのでは、とのこと。

藤真が「お前が作ったからだろ」と言って殴られたのは言うまでもない……が、とにかく義兄は推定でナスかシイタケにあたってしまい、全身が腫れ上がってしまった。そのため現在様子を見るために処置室にて待機中。腫れが引けばそのまま退院していいよ、ということのようだが……

「だからって……なんで……

しゃがみ込んだまま恨めしい目で呟いた藤真の目の前には、もう少しで3歳になる男の子。

「じー! これやって!」
「じーって言うなって言ってんだろ。何それ、電車?」
「じー! じー!」
「じーって言うな!!!」

思わず大きな声をあげてしまった。もう少しで3歳になる男の子はその声に驚き、じわじわと顔を曇らせていく。ああやばい、やってもうた……! 藤真は慌てたが時既に遅し、引き寄せて抱き上げようとした瞬間、男の子はべそべそと泣き出してしまった。

その時だった。どうしたらいいかわからずに狼狽えていた藤真の背後から、聞き覚えのある声がした。

「藤真? どしたのその子。隠し子?」
……えっ? あ!!! !!!」

振り返ると見慣れた翔陽の制服。そして今望みうる限りで最高の人物が立っていた。

「どしたのー。パパ抱っこ下手だねー」
「いやそれシャレにならないから」
「でもよく似てるじゃん。あはは、眉毛とまつ毛がそっくり。すごいね、中学で子供作ったの」
、聞いてる?」

べそべそ泣いている男の子を覗き込みながらつまらない冗談を繰り返しているのは、という同級生の女の子だった。藤真は慣れない手つきでよいしょと男の子を抱き直して、に詰め寄った。

「甥っ子なんだけど、親がちょっと急に具合悪くなって病院にいてさ」
「他に預かってくれる人がいなくて、タイミングよく今日は始業式」
「そうそう、話が早くて助かる、それでオレどうしたらいいかわからなくて」
「大丈夫だよ〜いい子いい子、抱っこする? お名前言える?」
「あ、名前な、リクって言うんだけど」
「リクくんこんにちは。よしよし、どしたのー」

は藤真の焦った声にはほとんど反応せずに、リクに顔を近付け、するりと奪い取った。そして少し背を反らしてしっかりと抱っこすると、小さな声をかけながらあやし始めた。するとどうだろう、藤真の腕の中で泣いていたリクはするすると泣き止み、にぎゅっと抱きついてしまった。

「えええ」
「ほらもう大丈夫。リクくん、いい子だね、すごい、もうお兄ちゃんだ」
「ほんとにすごいな

はそれには応えず、泣き止んだリクを藤真に返そうとしたのだが、

「やだー。じーやだー」
「じー?」
「リク、たぶんもうすぐママ帰ってくるから!」
「やだー! じーやだ!」
「じーって藤真のこと?」
………………健司のじーです、笑うな」

言うなりはぷくっと頬を膨らませて笑いを堪えたが、抑えきれていない。しかしそれにしてもリクの懐きようといったら。やはり小さな子供は女性の方がいいんだろうか、と妙に感心しつつ、藤真はこの難局を無事に乗り越える妙案を思いついた。

「な、なあ、、今ヒマ!?」

という人物は、現翔陽高校新3年生の中で1番有名な生徒である。なぜなら生徒会長。そしてその次に有名なのが藤真だ。なので今ここには翔陽で最も名を知られたふたりが揃っていることになる。

しかし藤真がを頼るのはそれが理由じゃない。このは、通称「万能の人」なのである。スポーツも勉強もトップにはならずとも何でも上手くこなし、平均値では群を抜くというタイプ。その上しっかり者で頼れる存在だった。だから皆に推されて生徒会長にまでなった。

が目の前に現れた時、藤真も思わず「助かった!」と思ったくらいなので、の「何でも出来る人」というイメージは実に強い。実際、は泣いてぐずるリクを素早く奪って泣き止ませてしまった。藤真はグラスにジュースを注ぎながら改めて感心した。藤真の自宅である。

「あー、シイタケにあたった、ってのは聞いたことある。ひどいらしいね」
「全身が腫れ上がったとかいう話で」
「でもアレルギーで死んじゃう場合だってあるから、無事でよかったね」

リクがに縋って離れないので、藤真は両手を合わせてに頼み込み、すぐ近くの自宅まで一緒に来てもらった。姉の経過報告によると義兄の腫れは引き始めているようだし、うまく行けば昼過ぎには戻れると思うとのこと。現在もう11時。あと少しだ。

昼過ぎ、藤真の感覚で言えば12時半くらい。それまでに一緒にいてもらえれば心強いし、何しろリクを任せられるのはありがたい。自分は上に姉がいるだけだし、年下のいとこもいないし、子供なんかどう扱っていいかわからない。

はそういうわけだから助けてほしいと拝む藤真に笑って快諾してくれたし、後日改めてお礼をすればいいし、とにかく今この時を無事に乗り切ってリクを無傷で姉に返すことが出来ればいい。

ちなみに彼の姉は「オレじゃ何かあったら危ないからちゃんとした人に預けてくれ」と言った弟に対して「リクに何かあったら二度とバスケできないようにしてやるからな」と言い捨てていくような人だ。理不尽。あまりに理不尽。なのでという最強の助っ人は天の助けにも等しい。

「リクくん、こちょこちょー! おへそどこかなー!」

はソファに座って膝にリクを抱き、顔を近付けて体をくすぐっている。リクの方もくすぐられるたびにきゃーっと声を上げて笑い、すっかり上機嫌だ。

、はいこれどうぞ」
「わあ、お構いなく。この大惨事どうにかした方がいいんじゃないの」
「わあ、見ないでください」

は優しい笑顔でソファの周囲を指差した。元気に暴れ――もとい、元気に遊ぶリクを持て余して外に連れ出すまで藤真が奮闘した痕跡である。姉はいくつかおもちゃを持参してきたが、リクはそんなものポイで藤真家のリビングを荒らしまくった。さすが姉の子。

「だいたいさ……普段ほとんど会わないのにいきなり幼稚園前の子なんかさ……
「それだけお姉さんが藤真のこと信頼してるんじゃないの」
「とてもそんな風には」
「だって……自分の子供預けるって、本当に安心して預けられる人じゃなかったら」
「逆らえないってわかってるやつっていう人選だったんじゃないのかな……

大惨事のリビング、藤真もソファに身を沈めてがっくりと肩を落とした。はきっと、つい口では憎まれ口を叩いてしまうけれど本当は仲の良い姉弟――なんてものを想像しているかもしれないけれど、絶対そんなことないと思う。

「でもリクくんのパパ、だいぶ良くなってきたんでしょ?」
「ていう連絡は来てる。昼過ぎには病院出られるんじゃないかって」
「昼過ぎか。えーと、リクくんお昼は大丈夫? 病院近いの?」
……たぶん車で1時間くらい。聞いてみるわ」

言われてみればオレも腹減ったな……と思いつつ、藤真は姉にリクの昼食はどうするんだ、本当に昼過ぎに終わるんだろうな、と連絡を入れてみた。つい頼ってしまったけれど、を拘束しておくにも限度がある。本人は「困ってるんでしょ、いいよ〜」なんて快諾してくれたけれど……

しかし、待てど暮らせど返信が来ない。はリクと遊んでくれているが、12時は刻々と迫ってくる。藤真の腹も徐々に空腹感が増してくる。今日は練習ないけど午後になったら集まって飯食って駅前のバスケットコート行くか、なんて話していたのに。

30分経過。

「すまん、連絡こない。どうしよう」
「まあ病院の中だしね。リクくんお腹すいた? ご飯食べたい?」

気が気でない藤真をよそに、はけろっとしてリクに聞いてみるが、彼は彼で遊ぶのに夢中で返事をしない。じゃまだいいか、ともそのまままた遊び始める。藤真だけが落ち着かない。

「えーと、は時間大丈夫なのか」
「うん、平気。始業式だしね〜。てかさすがのバスケ部も今日は練習しないんだね」
「いやまあ、部活停止日だし」
「あ、いやいや、どこか外で練習とかしてるのかと思ってた」
「するつもりでした」

仲間たちに「子守を押し付けられて行かれない」と連絡を入れようか入れまいか迷っていた藤真はソファにばったりと倒れた。するつもりだったんだよ……昼はみんなで牛丼食べるつもりだったんだよ……

「藤真の方がお腹減ってんじゃないの?」
「減ってる。すっげえ減ってる」

はアハハ、なんて笑っているが、全然笑い事じゃない。あれこれと雑談めいたことを喋っていたけれど、姉から連絡はないし腹は減るし仲間たちへの連絡もまだしてないし……で藤真がイライラし始めたときのことだった。携帯が鳴ったので、藤真は飛びついた。が、ピタリと止まる。

「どしたの」
「おかしいな、義兄さんだ。はい、どうし――は!?」

素っ頓狂な声を上げた藤真は一転、死んだ魚のような目で返事ばかりを繰り返すと、通話を終えた。

「大丈夫?」
「今度は姉が全身湿疹、痒くて倒れたらしい」
「えー、大変」
「リクは何も出てないから野菜の天ぷら確定」
「リクくんよかったね食べなくて」

それでもなおはにこやかだが、藤真は死にそうな顔をしている。というか悪いことが重なりまくるので気持ちがドン底まで落ち込んでいる。どうしてこうなった。

実は、という人物は、藤真がこっそり憧れている女の子でもあって、自分が困っている時に颯爽と現れて助け舟を出してくれるなんて! と浮ついていたのが急降下だ。

昼過ぎまでなんとかやり過ごし、リクを無事に姉に返したら、お礼がてらを連れ出して練習見に来ない? なんて誘ってもいいかななんて思っていたのに、それも台無しだ。

すると今度は姉本人から電話がかかってきた。

「お前までくたばってどーすんだよ、リクどーすんの。え? 今友達が助けてくれて遊んでくれてんだよオレひとりでリクの面倒見られるわけないだろもう少し考えろよ。てかなんなんだよ『じー』って。勝手に変な名前で呼ばせてんじゃねーよ」

あまりに面白くないので畳み掛けた藤真だったが、それを黙って聞いていた姉はピシリと言う。

「友達って女の子?」
「はあ? 何を……
「声聞こえてんだよ。彼女か?」
「違うけど……
「でも助けてくれてんだな? よし、その子に代わってくれ」
「は?」

これからまた処置だから早くしろとせっつかれた藤真は、すまんと連呼しつつに携帯を差し出した。ほんとすんませんいきなり姉とか嫌だよな、ごめん、適当でいいから――

「お電話替わりました。翔陽高校3年のと言います、初めまして。お加減いかがですか?」
「えええ」

携帯を耳に当てるなり淀みなく喋りだしたに、つい藤真はツッコミの声を上げた。そりゃ、巷で「万能の人」とか言われてるけど、ほんとになんでも平気なのかこの子……と度肝を抜かれた。その上あっという間に話がついたらしく、携帯が戻ってきた。

「リクのことはちゃんに任せたから、お前もちゃんと手伝えよ!」
「は!?」
「金はとりあえず立て替えといて。ちゃんには色つけて返すから」
「ちょ、どうなってんだ」
「ふふん、お前もしっかりやれよ、こんな子滅多にいないぞ」

何の話だ、と反論しようとしたけれど、通話が切れてしまった。

「こういうのも食中毒っていうのかな、大変だね」
「えーと、どうなってんの?」
「ああごめん、夕方くらいになりそうだから、リクくんのお昼とおやつ頼むって」
「頼む、って、いいのかは」
「いいよ、困ってるんでしょ?」
「ほんとにごめん……

姉の図々しさに辟易しつつも、しかし他に頼れるところもなく、なら安心であるのも手伝って藤真は両手に携帯を挟んだままつい拝んだ。様マジ女神。

するとはサッと立ち上がり、制服のブレザーを脱いだ。えっ、何やってんの!? リクがいるんだし、そりゃオレはのこといいなと思ってるけどいきなりそういう関係になるのはマズくないか!? と藤真が頓珍漢なことを考えていると、は今度は腕まくりをし始めた。

「よーし、じゃあここ片付けてお昼ごはんにしないとね」
「えっ」
「リク隊長! 準備はいいですか! お片付けをしてご飯を食べましょう!」
「はーい!」
「えええええ」
「隊長! まずは健司隊員を起こしてください!」
「じー、起きろー!」

藤真は目を丸くしてリクにボコスカ叩かれつつソファから立ち上がった。一体何をしようと言うんだ。

「えーと、あの、?」
「お昼、外で食べる予定だった?」
「オレはそうするつもりでいたけど」
「でもこの辺すぐ近くにお店ないよね」
「まあ、うん、スーパーとコンビニくらいしか」
「というわけで片付けをしたら食材を買いに行って作ろう!」
「えっ、マジで!?」

コンビニでパンかなんか買ってくりゃいいんじゃねえの……という感覚でしかなかった藤真はまた声がひっくり返った。が協力してくれるのは嬉しいが、そんなに大騒ぎにしなくても、という気がしてくる。というか何でそんなに張り切ってんだよ……

「片付けして、買い出し行って、作って食べて、それだけでもかなり時間が稼げるし、もしかしたら食べて眠くなるかもしれないし。そしたらまた少し時間が稼げるし、起きなかったらそのままでいいし、起きたらそこからおやつ作り始めたらまた時間が稼げるよ」

藤真がオロオロしているのを察したのか、はこそこそとそう言ってきた。なるほど……

「お昼が少し遅くなっちゃうけど、まあそこはこんな緊急事態なので」
「本人腹減ってなさそうだしな……
「藤真、何食べたい?」
「えっ!?」

うまくリク隊長を誘導して散らかったリビングを片付けているは、通り過ぎざまにさらっと言う。何食べたいって、そんなの、そんなの、が作ってくれるなら何でもいいよとか言ってみたいけど、でも今ちょっとそんなことしてる場合じゃないので予定がありましたから!

「牛丼」
「おっけー! リク隊長、お肉好きですか!」
「好きー!」
「じゃあ片付けたらお肉買いに行こう! 隊長、電車がないです!」

ひとりポカンとする藤真、はリクを追い立てて散らかったおもちゃを回収し、その間に元々藤真家のリビングにあったであろうものを拾い集めてはテーブルの上に戻していく。そして途中で拾った除菌ウェットティッシュを数枚引き抜くと、リクを追いかけながらテーブルとソファをザッと拭く。

「藤真」
「えっ!?」
「これ、元あった場所に戻してくれる?」
「えっ、あ、わかった」
「あと、リクくんの上着とかあったら用意してもらっていい?」
「お、おう」
「それからご飯冷凍保存とかしてなかったら炊いていきたいんだけど」

言いながらは今度はリクをトイレに連れて行った。ちょっと待てリクは一応男の子だからの手には負えないんじゃないの――と言おうとした時にはバタンとドアが閉まっていた。

そうしてがジャケットを脱いでからものの15分でリビングは元通り、リク隊長はおしっこも済ませてと左手を繋いで藤真家を出た。右手を繋いでいるのは藤真である。麗らかな春の午後、藤真はとリクの歌うキッズ向けのアニソンをぼんやり聞きながら心の中で突っ込んだ。

と一緒に過ごせるのは嬉しいけど……なんかこれ違くない!?