夜やどり

三井編 4

ただでさえコンパクトなシングルベッドで寒くないように布団にくるまるとなると、相当密着しなければならない。も三井も体を立て、ほとんど抱き合うようにして横たわっていた。だが、おかげで布団の中は温かく、三井の冷え切った爪先は徐々に人間らしい温度を取り戻し始めた。

「あの時、そんな顔してたの、私」
「今もしてる。悪いことしたい、いい子はもうやだって顔、してる」

そんな複雑な感情が表情に出るだろうかと疑問に感じつつも、は自分でも首を伸ばして優しくキスをする。キスが悪いこととは思わないけれど、親に内緒で深夜に三井を連れ込んでベッドの中でチューチューやっているのは「いいこと」でもない気がした。

そう思うだけで気持ちが満たされていく。

が勝手にキスしても三井は何も言わずに受け入れてくれる。頬に肩、頭を撫で、髪を指で梳き、が首を引っ込めるとキスし返してくれる。

「お前が別にオレのこと何とも思ってないのは知ってる」
「でも、前より好きだなって思うけど」
「オレのこと考えるだけで胸が締め付けられて涙が出るとかいう」
「うん、ない」
「そういう意味で言ってんだよ」

三井の淡々とした声にはつい笑った。確かにそういう「好き」ではない。

……だけどオレじゃなかったら出来なかっただろ、こんなこと」
……たぶんね」
「オレだってお前のことしか考えられないとかそんな気持ちはねえし」
「じゃあどんな感じ? それはちょっと、聞いてみたかった」

過去にほんの少し思い出があるというだけの、深夜に偶然遭遇しただけの、そういう相手のはずだ。けれど三井はベッドに入ってもいいと言い出したに迷うことなく抱きついてきた。

……暗いところにふたりでいるのに全然なびいて来ない変な女。そういう記憶しかなかった」
「すごい思考してたね」
「オレはずいぶん変わったと思うけど、こいつ変わんねえなと思ったら――

そこで三井は一度言葉を切って息を吸い込み、額を合わせて一気に吐き出した。

「朝が来るまでは、過去のことも、今のことも、忘れられる気がして」

そう言って三井はの体をぎゅっと抱き締めた。息苦しさを感じただったけれど、その重苦しい声に言葉が出なかった。この人、すっかり不貞腐れてグレてるんじゃなくて、今でも苦しいのか。もう1年以上も前の話なのに、まだこんなに苦しんでるのか。

しかし日々の自分の暮らしを守り、いい子とそれに飽きるふたりの自分を抱えた状態では、とてもじゃないが受け止められないと思った。欲を出してそれごと抱きかかえたなら、きっとすぐに重みに耐えかねて落としてしまう。そうしたらまた彼を傷つける気がした。

だけど、今夜は特別だから。

……ねえ、朝まで、付き合おっか」
……ああ、そうだな」

驚くほど優しい三井の囁き声に、の背筋が痺れる。

「私の名前、知ってるよね?」
……
「寿〜」

が顔を上げると、粋がったバスケ少年でもなく、凶悪なヤンキーでもない、ちょっと照れたような、むず痒そうな表情の三井の顔が目の前にあった。そんな彼を可愛いと思ったけれど、自分には今夜一晩キスしながら寄り添っているくらいが限界だ。

だから、キス以上のことも出来ない。その境界線を越えてしまったら、日常の自分というバランスを崩してしまうと思った。それは三井も同じだったのだろう、密着して何度もキスしていても、その他のことは何ひとつしようとしてこなかった。

この一夜に、何度キスしただろう。しかしそれは、ただ通り過ぎていくものでしかなかった。

翌朝、明け方になってウトウトしたふたりはアラームの音に無理矢理起き上がり、の計画通りに「何もありませんでした偽装工作」を行い、時間通りに登校した。

そして三井は約束通り午後の授業をサボってコインランドリーへ行き、自分の使ったカバーリング類を洗っての家の玄関に戻した。は授業が終わるなりまっすぐに帰宅、三井の置いていったものを引き上げて丁寧に畳み、元の場所に元あったように戻した。

それからまた自転車で祖母の家に向かい、父親が今日は早く帰れると言うので全員で外食をして、祖母を送り届けてからやっと全員で帰宅した。

1日家の中のことを放置だった両親はしかし、いきなり違う枕で寝たからなんとなく疲れていると言って早々に休んでしまった。はふたりが寝室に向かうのを見送ってから自分の部屋に戻る。

確かに今朝まではこの家の中に三井がいたのに。昨晩はベッドの上で絡み合って何度も何度もキスしたのに。でももう彼の痕跡はどこにも残ってない。だって残っていたら困るから。何ひとつ残してはいけなかったから。

部屋に戻ったはカバーリング類を詰め込んでいた大きいトートバッグを畳もうとして手に取った。かなり大きいので普段はあまり使わない。それを畳んでクローゼットに戻そうとしたのだが、底の部分に何か引っかかっていてぴったりと折り畳めない。

戻し忘れたものがあったか、と一瞬血の気が引いたはしかし、バッグの底に白っぽいモコモコしたものを見つけて引っ張り出した。なんだこれ。

「嘘でしょ……

レディースもののふわふわパイル地の手袋だった。ボール紙の商品パッケージがついたままの、新品。

そういえばこの辺でコインランドリーって、駅近くの大きなところが一番目立ってわかりやすい。その隣にあるのは、食料品以外にも日用品とか衣料品とか売ってる大きなスーパー。洗濯乾燥って、けっこう時間かかる。その間にこれ買って、ここに入れておいたの? あいつが?

昨日私が手袋してなくてコンポタの缶で手を温めてたから? 何これお礼のつもり?

……バカみたい」

は床に膝を付き、三井のことを思い出して胸が苦しくなった。

頬に一筋、涙が伝った。

通り過ぎていくだけの冬の夜から半年が過ぎたある週末のことだった。期末テストは終わったが、進学予定のはこの夏から予備校通いを予定しているので、ちっとも気分は晴れなかった。もうすぐ夏休みだというのに、何も楽しみなことがない。

それを思うと、また「いい子」が蓄積して自分で持て余した挙げ句に暴発してしまうんじゃないかと少し心配になる。どうにかしていい子でありたくない自分を満たしてやらないと、いつかもっと大きな失敗をするんじゃないかという不安もある。

出来るだけリスクが少なくて、安全で、短い時間でいい子に戻れる方法は――そんなことを考えながら、はまた日曜の夜の道を自転車で走っていた。今日は祖母宅ではない。期末終わったし少し息抜きしよう、と友達と遊んできた帰りだ。

なのでちょっとばかり服装が派手だ。家についたら地味な色のパーカーを羽織って家に入らなければならない。親には内緒で買った服なので、それがバレるのも困る。そういう束縛から解放されたい一方で、いい子でいなければならない相手がいなかったらと思うと、怖い。道を踏み外しそうだ。

そういえば、三井と抱き合ってた時は、私もあいつも、「どっちでもない」自分になれてたなあ。

三井と偶然出会った道を辿りながらそんなことを思い出していただったが、祖母の家から戻る途中に立ち寄ったコンビニの辺りに差し掛かったところで急ブレーキをかけた。コンビニの前の植え込みにベンチがあって、そこに知った顔があった。

「よう」
……また終電なくしたの?」
「まだ21時だけど」

また別人のようになってしまった三井だった。自信過剰なバスケ少年でもなく、凶悪なヤンキーでもなく、彼をゴテゴテと飾り立てていたものが全て剥がれ落ちてしまったかのような、そんな「素」の三井に見えた。そういう変貌を遂げたのは知っていたけれど、間近に見るのは初めてだ。

「もう、ヤンキーとかああいうの、やめたんじゃなかったの」
「やめたよ。まあその、切れてない友達とかはいるけど」
「バスケ部に、戻ったんじゃなかったの」
「戻ったよ」
「それがこんな時間に何してんの、こんなとこで」

三井は立ち上がると、自転車を降りてぼんやりしているの傍らに並んだ。

……あの時、言ってただろ。もっとかっこよくなったら応援しに来てくれるって」

それはあの冬の夜も通り過ぎて、初めて夜遊びをした時の話だ。2年前。

「知ってるかもれないけど、オレ、インターハイ行かれることになった」
「なんか、大きな大会って……
「簡単に言うと、高校生日本一を決める大会」

バスケット部が何やら地区予選を突破したらしい、という話はも耳にしていた。だが何ぶん昨年までの実績がないに等しいバスケット部である。何の地区予選なのか、予選を突破したら次は何なんだとか、とにかく活動の詳細については知らないことの方が多かった。

だがそれが全国大会で高校生日本一だったとは。は急に気が抜けた。

「そっか、おめでとう。戻れてよかったね」

それはただの社交辞令だった。三井を応援する気持ちが湧いてこない。

「興味なさそうだな」
「うん、ない」
「だろうと思ったよ」

正直に答えたに三井はニヤリと笑った。

「まあお前が『絶対応援行くね』なんて言うとは思ってなかったけど」
「じゃあ何」
……

三井の声に自転車のハンドルを掴んでいた手がギクリと軋む。

「バスケ部に戻れたのはよかったと思ってるし、今はそのために生きてるようなところもあるけど、でも、元MVPとか、ヤンキーとか、そういう肩書がない自分に戻れるのはといる時だけだ」

がゆっくりと顔を上げると、もうとっくに何者でもない自分に立ち返ったように見える三井の真顔が見下ろしていた。けれどはその中に幼くて粋がった少年と不貞腐れたヤンキーの両方を感じた。そっちは全部きれいに混ざり合ってるのかも知れないけど、私は――

も、そうなんじゃないのか。いい子でいなきゃいけない自分と、たまにこうやって派手な服着て遊びたい自分と両方抱えてる。でも、あの時、オレとふたりでいた時は、そういうの、忘れられてたんじゃないのか」

ぎゅっとハンドルを握る手に三井の大きな手が重なる。は確かに自分の中の「いい子」や、それに飽きてしまう自分を忘れていた。だってあんたにはいい子でいる必要もないし――

……なんで私がここ通るって知ってたの」
「そ、それは色々辿って連絡取ろうとしたら、今日は遊びに出かけるって話聞いて」
「ここで待ってたの?」

は自転車のスタンドを立てて三井に向き合う。まだ21時頃だが、日曜の夜の人通りはすぐに途絶えて町はあの時のように静まり返っている。コンビニの明かりを背にした三井の輪郭がぼやける。

「外でどんなキャラでいなきゃならないとか、そういうの関係ない、ただの自分に戻れるのはお前だけ、だから好きだから付き合おう、ってそこまでちゃんと言いなよ。興味ないだろうけど頑張ってるオレを見に来てほしいって、勝ったらまたあの時みたいにキスして欲しいって、言えばいいじゃん」

すると三井はまたニヤリと笑って腰に手を当て、の左手をすくい上げて緩く繋いだ。

「オレそこまで思ってなかったけど。後半はお前の願望だろ」
「チューしたくないならそれでもいいんだよ」
「何言ってんだそれはしたい。てかあの時もチューだけで我慢とかしんどかった」
「まだ付き合ってもいないのにチューより先の話とかデリカシーの欠片もないな」
「それな。だってあの時朝まで付き合うとか言ったけど別れようって話もしなかっただろ」
「朝までだって言ってんだから朝が来たら失効だと考えるのが普通だと思うけど」
「お前に似合うだろうなと思って手袋買ったのに……
「似合うよ。あれめっちゃ可愛かったよありがとう」
「いいえどういたしまして」
「どうでもいいけど絶望的に色気ないな?」

三井は呆れるを引き寄せてまた緩く抱き締めると、頭を落として囁く。

「色気のあることしても、いいけど」
「どこで」
「それが問題」
「うちは無理だよ親いるんだから」
「どうあがいても色気出ねえな?」

笑いながらは三井の体にぎゅっと抱きついて目を閉じた。

……じゃあ、終電までね」

いい子でも、いい子でなくても。そんな風に自然体の自分でいられる三井と一緒にいれば、いつか持て余すふたりの自分がひとつのになるのかもしれない。その時は彼女にかっこいいところ見せたい彼を目一杯褒めてあげられる気がする。

それを待とう。きっと色気も出てくるに違いない。

END