存在証明

4

三井を見守る役目を放棄したは、授業が終わってもモヤモヤしたものが取れず、そのまま帰宅した。そしてそのモヤモヤを取り払いたくて風呂に飛び込み、頭から熱いシャワーを浴びると、髪も乾かさずにベッドに潜り込んで不貞寝してしまった。

やがて着信を知らせるリングトーンに目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。バックライトの明るさに寝起きの目が痛むが、見ると着信は木暮からで、は呻きつつも応じた。

……なに?」
「すまん、今日体育館に来てなかったから……大丈夫かと」
「私別に三井の親でも彼女でもないから」
「そ、それはそうなんだけど……

申し訳なさそうな木暮の声には途端に自己嫌悪に陥る。別に木暮は悪くないじゃん。

「キツい言い方してごめん。なんかもう、ストレスで」
「いやいいよ、三井もちょっと凹んでたから……何かあったのかと思って」

は起き上がってベッドの上であぐらをかく。通話をスピーカーにし、木暮と話しながら通知を確認する。母親から珍しく寝てるから起こさないでおくとメッセージが入っていた。ずいぶんぐっすりと眠り込んでしまっていたらしい。

……実はさ、私、寿――三井と2回付き合って2回別れてんだよね」
……でも、今の状態では覚えていない?」
「全部消えてる」
「だけど、今の状態でものこと好きなんじゃないか?」
「て、言ってた、本人も」

木暮のため息が聞こえてきた。も遠慮なくため息をつく。

「しかも、同じクラスの子が『今の三井の方がいい』とか言ったみたいで」
「おいおい、それじゃ戻れるものも戻れなくなるんじゃないのか」
「その上、15歳の記憶しかない三井がそれでいいと思い始めてる」
……元に戻れなかったら、あいつの人生はどうなるんだよ」

普段は温厚な木暮の声にも怒りが滲んだ。ただでさえ進路不確定のまま受験体制に入ることなく12月の全国大会を目指そうとしているというのに、中身がその18歳ですらなかったら、例え推薦が取れたとしても進学出来るかどうか。そういう危うい状況にいるのに。

「ストレス溜まってるのは分かるし、力になれないの申し訳ないと思うんだけど、、何かあいつを引き戻せるようなこと、心当たりないか。思い出せない間にあったこと、と三井しか知らないこととか」

木暮の声も真剣だが、この3日間というもの、はそればかり考えていた。そして何ひとつ思い至らなかった。何しろおそらく三井本人が「なかったことにしてしまいたい時間」がすっぽり抜け落ちている。思考の中に18歳の彼が潜んでいたとしても、思い出したいとも思っていないはずだ。

だが記憶を消去したところで、失われた時間は戻らない。悔恨の苦痛とともに全てを乗り越えた強さを持つ三井という人間も消えてしまう。あとに残るのは自信過剰で人気者のバスケット少年くんだ。

「どこかに……今の自分を否定する気持ちが、あったのかもしれないね」
「そんなこと口が裂けても言わないだろうけど、あるかもしれないな」
「でもそれって、誰かが褒めてあげたりしても、消えないよね」
……そうだろうな。三井自身が抱えていくしかない感情だから」

誰も助けてやれない。彼の負った傷の痛みを他人が理解できないのと同じように。

…………は今、三井のことどう思ってる?」
「バスケ部に戻ってから、ほとんど話せてないんだけど」
「それでも」
……18歳の、あいつに会いたいなと、思ってる。もっとちゃんと、話がしたい」

親しくなった中3の時のこと、初めて付き合った時のこと、怪我、挫折、2度目に付き合ったこと、そういう過去がある三井と話したかった。今度こそ本音で、自分のことも、三井のことも。

「もう、それしかない気がする」
「どういう意味?」
、それ三井に言ってやってくれないか」
「え、でも、こんなこと言ったところで」
「脳内だけ15歳の三井を否定できるの、しかいないから」
「そんなことして余計に悪化したりしないかな……
「だけど15歳より18歳の三井を肯定してやれるのも、だけだと思う」

専門家に意見を仰ぐことなくそんなことをしていいのだろうか……と迷うだったが、木暮との通話に固定回線からの着信が割り込んできた。三井の自宅からだ。嫌な予感がしたは木暮にまた連絡すると断って着信に応じた。

電話をかけてきたのは三井の母で、まだ寿が帰宅してないし、電話をかけても出ないんだけど、という。は正直に自分の手に余ったので先に帰宅したことを伝え、疲れて休んでいたけど心当たりをあたってみると言った。

今のところ彼女でも家族でもないし、そんな責任はないんだけど。そう言いたいのを飲み込んで。

心当たりと言っても、確信があるわけじゃなかった。ただ15歳の秋頃の三井を思うと、それほど選択肢は多くない。中3の秋、彼は安全圏内の高校に入るため受験生となったわけだが、安全圏内であることが災いして、頻繁に「息抜き」という名目でバスケットをやっていた。

当時、地域の大きな公園にはフェンスで囲まれた屋外バスケットコートがあり、そこに行けば1on1の相手はいくらでもいたし、趣味でやっている程度のプレイヤーなら15歳でも勝てるので楽しかった。受験が終わってからも連れて行ってもらったことがある。

あの時の寿は本当に楽しそうで、私を連れてきてることなんか忘れて知らない人とバスケしてた。フェンスの外でそれを見ていた私に、寿の対戦相手の友達らしきお兄さんは「あの子、いつかすごい選手になると思うから許してやって」と言ってきた。

本当に、すごい選手になったっていうのに……

自転車で公園に乗り付けコートに急ぐと、ぼんやりとしたライトの下にあの黒くて輪郭しかわからない影があった。は思う。やはりこの「脳内だけ15歳の三井寿」はまやかしでしかない。どれだけ後悔があろうが、現実を生きている18歳の彼が真実だ。あとは全て幻想。

それはもう、過去の記憶の中だけの存在でなければ。

コートの中に足を踏み入れたは、息を吸い込み、寿、と呼びかけた。

……何しに来たんだよ」
「お母さんから電話きた。帰ってこないし電話も出ないしって」
「いちいちうるせえんだよ、クソババア」
「久しぶりに聞いたなそれ」

グレていた頃の三井なら通常運転な台詞だったので、はつい懐かしさを感じた。人気者の「いい子」はやがて口を開けば「死ね」とか「ぶっ殺すぞ」と言うようになり、けれどそう言いながら自分が1番苦しそうな顔をしていた。当然お母さんは常に「クソババア」であった。

「君はね、高校生になったら、そういう汚い言葉を毎日のように言うようになるんだよ」
……興味ねえって言ってんだろ」
「だけどね、そういう時期を乗り越えて、すごい選手になる。本当にすごい人になるんだよ」
「でもインターハイは」
「それが何? 三井寿のすごさはインターハイがどうとかいう問題じゃない」

三井が突然更生したのは3年生の初夏の頃だった。ある朝いつも通りに登校したらばっさり髪を切り落とした三井を見かけた。しかも朝練をしていたらしく、ジャージにTシャツで歩いていた。

そんな様子に戸惑っていたのもとにメッセージが届いたのは、夜のことだった。ほんの一言、「久しぶり、バスケ部に戻ることになった」それだけ。はたっぷり10分は悩んでから、「新しいスタートだね。いつかゆっくり話そう」とだけ返した。

「いつか」が本当に訪れるとは思っていなかった。新しいスタートを切った三井にとって、自分はもう不要な存在だと思っていたから。だけど木暮の言うように、15歳の三井を知っているからこそ18歳の彼を肯定できるのは自分しかいないはずだ。不要な存在でも、真実の三井寿を取り戻せるなら。

「でもそれは16歳と17歳があったから。だから今すごい選手なんだよ」
……そりゃ、練習は、するからな」
「もちろん辛いこと苦しいことはある。逃げ出したくなることもある」
「てかそれ、オレに言っても意味なくない?」
「だけど、そういう過去と一緒に生きてるのが18歳の三井寿なの。それは大事なことなの!」
「だから、15歳のオレに言っても――
「私は18歳の寿に話してるの! あんたは黙ってて!」

人差し指を突きつけられた三井はウッと息を呑んで一歩下がった。

「つらかった時間を捨てたい気持ちはよく分かる。もう1回最初からやり直したい気持ちも分かる。でも、15歳からやり直したとしても、絶対に今の18歳の寿の方がすごい選手だと私は思う。それに、18歳のあんたを悩ませてる一番の原因は15歳の寿自身だと思う。15歳の記憶が輝いていればいるほど、思い出せない時間が無駄に感じるだけだよ。無駄だった時間なんかない、今の三井寿が存在するためには全て必要なことだったの、何ひとつ捨てるものなんかなかった」

畳み掛けるの声に三井は片手で頭を掴んで後ずさりを始めた。ずるり、ずるりとスニーカーが地面を削り、その度に息が荒くなっていく。

「15歳の寿も、16歳の寿も、17歳の寿も。どんな寿でも18歳の寿には勝てないんだよ。だって18歳の寿の中には、そういう全部の時間の寿が全て詰まってる。今日を生きてる寿が1番なの。過去の寿はもう古くて使い物にならない思い出でしかないの。どんなに輝いて見えても、今日の寿にはかなわないの!」

とうとう背後のフェンスにぶち当たった三井はそのまま背中を丸め、両手で頭を抱えて目を閉じた。はその体にそっと手を伸ばし、ゆったりと抱きかかえた。

「私は、18歳の寿が好き。15歳も16歳も17歳も好きだったけど、今日の私は今日の三井寿が好きなの」

だから戻ってきて、私と過ごした無駄な時間も受け入れて、それが何より三井寿という存在を証明するから。今日ここにある三井寿という存在をどうか、消さないで――

三井の体がビクリと動いたので腕をほどいただったが、その手を強い力で掴まれてヒュッと喉を鳴らした。つい全部言ってしまったけれど、逆ギレされるかもという可能性は考えてなかった。もし怒っていたらどうしよう。にわかに恐怖を感じたは少し身を引いた。

だが、顔を上げた三井は、苦しそうではあったけれど、かすかに微笑んでいた。この表情は……

……久しぶり」
「えっ、もしかして」
「オレだよ、今の、今日のオレ」

言いながら体を起こした三井は、微笑みつつも淋しげに眉を下げたままを強く抱き締めた。

、会いたかった。オレも話したかったよ」
「消えて、ないでしょ。15歳の寿は、ちゃんといるでしょ」
「大丈夫、今度は全部覚えてる。オレはただ、後ろを振り返るのをやめたかっただけなんだ」

取り戻せない時間に肩を落としている暇があるなら未来のことを考えたい。そういう意志はあったけれど、ついちらりと振り返ってしまう。それに飽いていた。もうやめよう、過去は過去なんだから。

「過去を忘れたかったのは今の自分のためだったのに、その自分まで失うところだった」
「もう、元の寿には会えないのかと思った。15歳のままでいたいんじゃないかって」
「そう思ってたのは、15歳のオレだよ。ずっとあの頃の自分が続いていくと信じてた」

いつでもどこにいても、自分は才能と努力を兼ね備えた優秀なバスケット選手以外の何物にもならない。それ以外の自分になるなど、可能性すら考えたこともなかった。

「そういう……迷いのない自分に戻りたかったのかもしれない」

も強く抱き返しつつ、手のひらでそっと三井の背を撫でた。彼が記憶の一部を隠してしまったのは、未来に向かって歩き出そうとしていたからだったのかもしれない。後悔の残る時間にとらわれず、迷いも不安もなく将来を見据えていた自分に立ち返りたくて。

は体を引くと、三井の頬に触れる。

「おかえり。久しぶりの15歳は、どうだった?」
……思い出したよ、色んなことを。どんな風に、世界を見ていたのか」
「それ、まだ消してしまいたいと思ってる?」

三井はゆるりと首を振り、優しげに目を細めた。18歳の彼にしか出来ない表情だ。

「いや、忘れたくない。全部大事な記憶だし、それがなかったらオレがオレでなくなる」

は嬉しいのと同時に目が熱くなってきて、無理矢理笑ってみせる。三井が三井寿であるためには、なにひとつ失ってはならない。その中には過去のもいるから。三井はの目頭にあふれそうな涙を指で払い、囁いた。

「それに、今日のオレも、今日のが好きだから」

三井の異変がすっかり元通りになったのと同時にとよりを戻したことに関しては、主に三井の方が「そもそも別れてない」と言い張っているので、身近な人々はそれ以上突っ込まないでおいてやった。結果的に三井を引き戻したのはだったし、愛の力ということにしておこう。

18歳に戻ったことで三井の悔恨や迷いが全て消えたわけじゃなかった。それでも「振り切れない過去」というものの重さが少しだけ軽くなったようで、いくぶんスッキリした顔になっていた。

というわけで無事に国体にも間に合ったのだが、これをきっかけに推薦の話が浮上。本人は実感がなかったようだが、や木暮たちの方がホッと胸を撫で下ろしていた。

「春に喧嘩で入院してた人が大学……ほんとに私のおかげだね」

自身の進路に関してはまだまだこれからのだったが、気分がいいので、おどけてそんなことを言った。場所は三井の部屋、中間目前ですぐに脱走する三井の監視をしつつ、一応勉強中。

だが、15歳でも18歳でも、やっぱり三井は厄介なのである。

天真爛漫の15歳、迷いなき自信家の16歳、憂いと皮肉の17歳、それが全部ミックスされて、余裕を覚えた18歳の中に存在しているのである。それが手を伸ばし、長い指での頬にそっと触れる。

「ああ、ほんとにお前のおかげ。がいてくれたからだよ」

そう言いながらゆったりと微笑むのである。

は見慣れているはずのその笑みに、色んな意味でぞくりと体を震わせた。

……もしかして私、とんでもないものを目覚めさせてしまったのかも、しれない。

END