存在証明

3

腹が減ったと喚く三井を連れて、は地元駅近くのラーメンチェーン店に入った。三井の親から「あとで返すので必要なことなら立て替えておいてほしい」と言われているが、立て替える資金には限りがある。このラーメンチェーンならの財布の中身でもなんとかなるはずだ。

なんとかなるが、三井はラーメン大盛りにチャーシューや卵を増量トッピングし、チャーハンと餃子もオーダーしたので、は見ているだけで腹が膨れてきた。あれだけ動けば腹も減るだろうけど、こんな質量がよく入るな……

……家でご飯食べないの?」
「家でも食べる」
「嘘でしょ」
「てか普通の時間にメシ食って遅くまで勉強とかしてたらまた腹減るし」
「それはそうだろうけど……

は確かにこの三井寿と付き合っていたけれど、とても「浅い」付き合いだったのではと思えてきた。そりゃ、体の関係まであと一歩というくらいには盛り上がっていたけれど、それだけだ。彼が部活の後にガツガツご飯を食べるということすら、目の当たりにしたことはなかった。

そしてガツガツ食べながらよく喋る。グレて以降口数が少なくなり無表情だった時期が長かった記憶もあるので、1日くらいではまだ違和感が取れない。しかも会話の内容は中学生であればごく普通の「日常の色んなこと」であり、テレビや漫画の話題も多い。その漫画この間最終回だったよ……

「そうか! じゃあ一気に最終回まで読めるんだな、オレ。すげえ」
……漫画、全部捨てたんじゃなかったかな」
「ハァ!? 誰がそんなこと!」
「自分だよ」
「嘘だろなんでだよ!」

そりゃあバスケットと一緒の楽しい毎日に関わるもの全てを憎んだからだよ。2度目に付き合っていた頃、「中学生の男の子の部屋」から「ヤンキーの部屋」になってしまった彼の部屋で抱き合って何度もキスしていた。その記憶がそう言わせようとしたけれど、は黙った。

……高校生になって、ちょっと大人になったから、かもしれないよ」

最近の三井にはそれを感じていた。全て乗り越えてきた余裕を感じていた。けれど――

「大人? じゃあももう大人になったってことか?」

そんなわけ、ない。

腹が膨れて満足したらしい三井は上機嫌で、を家まで送っていくと言い出した。ダメです。送っていかれるのは君の方です。

「中3ん時だってこのくらいの時間にひとりで帰ってたんだから平気だろ」
「年齢の問題じゃなくて、体調の問題」
はひとりで大丈夫なのかよ」
「人のいないところは通らないようにするから大丈夫」

三井の声にはそういう理屈とは別に「送っていきたい」という色が滲んでいたけれど、は取り合わなかった。確かに中3の秋頃にはこうして並んで帰ったことも多かったし、その時も三井は送っていきたがったけれど、今は事情が違う。出来るだけ早く送り届けなければ。

だが、急いで三井家に到着すると、彼の両親はどちらもまだ帰宅していなかった。

「ちゃんと家にいなよ。外出たらダメだからね」
「ガキじゃねえんだから」
「ガキの方がまだ信用できる。中学生は信用ならん」
「あはは、そうだよな。てか寄っていけば? そしたら親父に送っていってもらうから」

それは逆にご迷惑なので辞退したいだったけれど、三井の手はガッチリとの制服を掴んでいて逃げられなかった。時間はまだ21時になっていなかったし、自分の親には事情を話してあるのでそこは問題ないのだが……

ひとまずリビングに通されたは懐かしい三井家の匂いに胸を痛めた。この家に足を踏み入れるときはいつも、全身で三井を好きだと思っていた。高2の夏休みは玄関のドアが閉まるなりキスしていた。三井は笑顔もなく不安定だったけれど、それでも好きだった。それを嫌でも思い出す。

三井を突っついて親に連絡を取らせたところ、あと1時間もかからずに戻れると返ってきたので気が楽になっただったが、その1時間弱がしんどいことには変わりなかった。

「てか、その様子じゃオレん家に来るの、初めてじゃないんだな」
「ま、まあね、昨日も来たしね」
「そういう答え方、ずりぃよな」
「思い出せない間のこと、興味ないんじゃなかったの」

ソファに座るの隣に腰を下ろした三井は炭酸飲料のペットボトルを傾けながら、鼻で笑った。

「オレに何があったのかってことには興味ない。そんなものは待ってれば向こうから来るんだし、オレが突然バスケやめてサッカーやり始めるとか、東大目指すとか、そんなことになるわけがないんだし」

の胸がまた痛む。この快活な15歳の「意外な未来」には挫折やヤンキー堕ちという可能性は微塵もなかった。別の競技に乗り換えるだとか、勉強に傾倒するだとか、そんなポジティブなアクシデントしか思い浮かばない。そしてそれすらも絶対に起こり得ないと信じている。

だが、そんな風に胸を痛めていたの隣で三井はもっと恐ろしいことを言い出した。

「てかお前はどうなん。この3年、どうしてたんだよ」
「ど、どうって、だからほら、湘北合格して、普通の、女子高生やってたけど」
「今のところ湘北目指してるやつってそんなに多くないだろ。みんなどうしてる?」
「それは、3年も経ってるし、色々、友達も増えるじゃん」
「なんでそんな言いづらそうなんだよ。何かあったのか?」

ギクリと肩をすくめたが顔を上げると、三井はきょとんとした顔で首を傾げていた。

「別にオレの未来じゃなきゃ知っても問題ないんじゃないの?」
「一応みんな同じ学校に通ってる、からね。それぞれ少しずつ色んな繋がりがあるよ」
「ふぅん、やっぱり知らない方がいいようなことなんだな」
「そっ、それは」
「なんか、めんどくさいな、高校生って」

傍らにペットボトルを転がした三井は腕と足を組むと、少しだけ目を伏せてため息をついた。はしまったと思ったけれど、他にどう言えばよかったのか分からなかった。全部ブチ撒ければショックを与えるかもしれないし、こうして濁しても彼を疑心暗鬼にさせる。どうすればいいっていうの……

「変なもんだな、オレ今普通に楽しいけど、高校って楽しくないこと多いんだな」
……そうだね。私も中学の時は楽しかったよ」

それなりに悩んだり苦しかったこともあったけれど、もっと無邪気に毎日を過ごしていた気がする。三井はこの通り素直で一緒にいると楽しかった。だから付き合う気になったのだし。そんなのしんみりした声に引っ掛かったのかどうか、三井は組んだ手足を解くと、今度はにんまりと目を細めた。

「てかオレの感覚だと最近よく一緒に帰るようになったんだけど、その頃のこと、覚えてる?」
「そりゃ、まあ。なんか急に一緒になる機会が増えたからね」
「オレのこと、どう思ってた?」
「え」

膝に肘をついた三井は頬杖をついてを覗き込んでいる。

は今高3なんだろうけど、中3の時、15歳のオレってどんな風に見えてた?」

言っていいものかどうか、は迷った。ただもう言葉を濁して何かを隠そうとすればするほど不安を与えるだけという気がしたし、嘘にならないように嘘をつくのにも疲れてきた。

……すごく、人気のある男子だったから、最初は普通に話してるだけで違和感があって、落ち着かなかったよ。三井のこと狙ってる女子たちになんか言われるんじゃないかってビクビクしてた。そのくらいみんなから好かれてて、友達も多くて、でもバスケのことは誰よりも一生懸命で、そういう目立つ男子なのに私とも普通に話せるんだ、誰とでも楽しく過ごせるってすごいなあって、思ってたよ。どうでもいいこと喋ってるだけでも、楽しかった」

記憶の中で3年前に立ち返ったの正直な気持ちだった。親しみやすいので崇敬の気持ちが芽生えることはなかったけれど、素直に感心していた。こういうすごい人って本当にいるんだな、そんな風に。そういう日々がやがてふたりを結びつけるわけだが、それは中3の秋の三井にとっては未来の話だ。

……三井はどうだったの、過去のことじゃなくて、現在なのかもしれないけど」

リアルタイムと回想では感触が違うだろうが、だからこそ15歳の彼の本音を聞いてみたくなった。

すると三井は後頭部をガリガリと掻きつつ視線を逸らし、短く息を吐いた。

……オレは、好きなんだよな、お前のこと」
……知らなかったよ」
「だよな。こいつ全然気付いてねえなあって、毎日思ってるよ」

中3の秋に三井にそんな気持ちがあったことなど、知らなかった。気付いていなかった。は目が熱くなってきて、慌てて目頭を人差し指で掻く。知らなかった、三井のこと、何も知らなかった。

「今お前も言ってたけどさ、なんか一緒にいると楽しいじゃん。そういうの、いいなって」

そして彼は、18歳の三井では考えられないような満面の笑みを浮かべた。

「今どういう関係なのか知らないけど、たぶん今でものこと、好きだと思うよ」

もう抑えきれなかった。の左目からひとしずく、涙がこぼれ落ちた。

三井にはが突然泣き出したように見えた。なので動揺して慌てて狼狽えていたが、そこに彼の母親が慌ただしく帰宅してきたので涙は有耶無耶になり、はそれに乗じて三井家を飛び出し、遅いから送るという三井母を振り切って逃げた。

その翌朝、三井からは訳がわからないけれど心配しているということと、父親が休みを取れたらしいので迎えに来なくていいというメッセージが届いた。正直顔を合わせたくなかったけれど、ここで休もうものならまた三井を迷わせることになるだろう。は渋々登校した。

が、重い足取りで廊下を歩いていたの耳に元気いっぱいの三井の声が聞こえてきた。クラスの女子と話しているらしい。

「へえ、彼女いないのか。高3なら絶対彼女いると思ってたんだけどな」
「バスケばっかりで遊んだりもしてくれないしね〜!」
「えっ、そうなん? 遊びに行くくらい、たまにはいいじゃん」
「だよね!? てか中学ん時は普通に遊んだりしてたんだね」

ただでさえ重かった足が石になってしまったような気がした。あのバカ、余計なことをベラベラと。私やバスケ部のみんなが慎重に「湘北での三井寿」を隠していたのに全部台無しじゃないか。ていうか朝練行かなかったのか。昨日部長くんに明日朝練あるぞって言われてたじゃん。

足は石のようで感覚が鈍かったけれど、は壁に手をついてまた逃げ出した。だが、突然背中に強い衝撃を感じて飛び上がった。

「おはよー! なんでスルーしてんだよ」
「そういうわけじゃ、ちょっと、抱きつかないで」
、昼一緒に食べようぜ」
「えっ、昼」
「ダメ? 誰かと約束してんの? てか今さらだけどお前男いんの?」
「約束も、彼氏も、いない、けど」
「じゃあいいじゃん。昼んなったら迎えに行くから。じゃな〜」

とどめにの体をぎゅっと抱き締めると、三井はさっさと教室に戻っていく。あとには疲れ切った表情のと、好奇の目を隠そうともしていない同級生たちのひそひそ声だけが残された。

かといって三井の誘いを断るうまい言い訳も思いつかず、断ったところで教室にいるしかない帰宅部、はまた渋々三井に連れられてバスケット部の部室に向かった。鍵が開いていないのではと思ったけれど、中では1年生が巨大な体をベンチに横たえて昼寝中だった。

記憶と認識は中3の三井だが彼は臆することなく昼寝中の1年生を起こすと、と話したいから外してくれと追い出してしまった。まあそうね……中3ん時の君は生徒ヒエラルキーのほぼトップにいたから、こういうこと平気で出来てたもんね……

……具合、どうなの」
「見ての通り元気だけど」
「いやそうじゃなくて」
「だってどこも痛いとかないし、別にオレは中3だってことに違和感もないし」

後輩が寝ていたベンチに腰を下ろしたはこっそりため息をついた。三井は確かに元気溌剌、といった感じだが、相変わらずのにこにこ笑顔でお母さんお手製の弁当を広げている時点でもう異常のはずなのだ。というか高2の時点で既に「弁当とかダセェ、学食でいい」と言っていたし、更生後も学食で見かけたことがある。それが大きな弁当。中にはお母さんが慌てて久しぶりに作ったであろうおかずがいっぱい詰まっていた。

それをぺろりと平らげた三井は、ノロノロと菓子パンを食べ終わってジュースを啜っていたと距離を詰めると、またにんまり顔で覗き込んできた。まったく、15歳返りしてからこういう遠慮のない行動が多くなって、どうしたもんかな。

「なあ、これから毎日こうやって昼食べようぜ」
「毎日って、部室を占領していいの? みんなで使うものじゃないの?」
「オレ、唯一の3年生なんだろ。優先的に使う権利、あると思うんだよな」
「中身中3のくせに」

距離が近いので、がつい顔を背けると三井はそれを狙っていたかのようなタイミングでぎゅっと抱きついてきた。そしてやけに楽しそうな声で囁いた。

「なあ、オレたち付き合わない?」

は胸に杭を打たれたような錯覚を覚えて息を呑んだ。中3の1月、彼はまったく同じことを言ってきたからだ。その時のは幸せいっぱい嬉しさいっぱいだった。

?」
「今、そんなことしてる場合じゃないんじゃないの」
「て言うけどさあ。こんなの治るかどうかもわかんねえし、てか治ったらオレ、消えるのか?」
「えっ、消え――
……、オレじゃダメ?」

の体を抱く三井の腕に力がこもる。

「15歳じゃダメか? みんな18のオレより15のオレの方がいいって言うよ。前は話しかけづらかったとか、怖かったとか、みんなそんな風に言うし、だけど今は誰とでも普通に出来てる、だからこのままでいなよって言ってくれるよ」

確かに高校生の三井寿はほとんどの時間を「怖い人」で過ごしてきた。それを同級生たちが「今の方がいい」と思ってしまうのは分かる。話しかけたら殴られそうな三井より、よく喋ってよく笑う彼の方がいいと思ってしまうのは自然なことだ。

けれどはこの「脳内だけ15歳の三井寿」に存在意義を与え、引き止めるようなことを言った人々に対して無性に怒りが湧いてきた。これはあくまでも脳の誤作動としていつか消えゆく症状でなければならなかったのに。消滅の不安や存在への執着を植え付けやがって。

そして、それでもこの「脳内だけ15歳」の三井に対して嘘でも優しく出来ない自分にも腹が立った。

「ダメに、決まってるでしょ」
「えー、なんでよ」
「あんたが、今、捨てようとしてる時間の中に、私はいるの」

身体をよじって三井の腕から逃れると、は彼の肩を押し返した。

「中3の秋から今の今まで、あんたにとっては無駄な時間でしかなかったのかもしれないけど、その間に浪費してきた時間なんか捨てたいのかもしれないけど、私はその無駄な時間を生きてたあんたと一緒に生きてきたの。それを捨てたいのはあんただけで、私は捨てたくない」

誰にでも好かれるいい子の三井も、バスケ部期待の新人だった三井も、グレて不安定でに寄りかかっていた三井も、にとっては全て三井だ。そのどれかひとつでも欠けたら誰もが知る18歳の三井寿はいない。この15歳のままでいられたなら、18歳の三井はまったくの別人だっただろう。

それこそ幻想だ。この記憶退行とともに消えるべき存在でしかない。

「それに、消えるって何? 治ったら今あんたが捨てようとしてる記憶が戻ってくるだけ」

不満そうに表情を曇らせている三井から手を離すとは立ち上がる。

「私が好きならその記憶を取り戻して。私はそこにいるから」

見守りなんかもうどうでもよかった。はそのまま部室を出て走り去った。

そして、18歳の三井に会いたいと強く思った。