彼女の恋人

後編

「なあ花形、お前もし女だったら誰と付き合いたい?」
「オレ」
「聞いたオレがバカだったよ」

翌日、自由参加の朝練が終わる頃に部室に顔を出した部長は、扇風機の前を独占している副部長の答えにがっくりと肩を落とした。もし女だったら、なんていう前提がそもそもおかしいし、参考になる答えが出てくるわけもないのに。

「じゃあお前が女だったらどんな男と付き合いたいと思うよ?」
「お前でないことは確かだな」
「オレもお前みたいな女やだ」

そんな不毛な会話をしながら藤真はまた髪を掻き毟った。は「こういう男ならいいなって健司が思うような」と言うけれど、付き合うのは自分じゃない、だ。私のことよく知ってるでしょ、気が合う人を選んで! と言いたいようだったけれど、普段の性格と彼女に対する振る舞いは同じとは限らないじゃないか。花形なんかこいつ絶対変な性癖持ってるだろうし。

そこで藤真ははたと気付いて手を止めた。オレたちなんで付き合うことになったんだっけ……

そりゃ好きだから付き合っていたに違いはないのだが、それ以前にただの友達期間があったし、そもそもは小学生の頃からの知り合い、気心は知れまくっていた。少なくとも、当時既に試合に赴こうものなら女の子に声をかけられる選手だった藤真にとってはは「安心して信頼できる相手」だった。その背後に何も不審なものは潜んでいない。何なら自宅もご両親も知っている。

てことは、だ。藤真は何やらブツブツ言っている花形の声には返事をせずに腕を組んだ。どれだけ男の知人が多くてもそれが「顔見知り」程度では問題なのでは。一体その男が過去にどんな人物であったかも知らずに上辺だけで判断をして、万が一を傷付けるようなことにでもなったら。

花形が何かまだ喚いているようだが藤真の耳には入らなかった。彼は部室を出て廊下をとぼとぼと歩いていく。すれ違う男子生徒たち、どいつもこいつもに相応しくないような気がしてきてしまう。

バカっぽそう、喋るのに夢中になって涎垂れてる、制服もちゃんと着られないだらしなさ、顔はいいけど性格悪そう、真面目そうだけど冷たそう――

通り過ぎる男子生徒に尽くダメ出しをしながら教室に向かった藤真はしかし、隣のクラスに差し掛かったところで足を止めた。1年生の時に同じクラスだった男子が友達と喋っていた。

少し長めの前髪に優しげな顔つき、身長は推定173センチ、勉強は中の上くらい、確か陸上部で長距離をやっていたはずだ。大きな大会に出場するほどではないけれど、校内の持久走ではいつも1位。友達も多くて、悪い噂は聞かない。男子にも女子にも先生にもそこそこ好かれている。

いた。完璧な好青年だ。

そして、1年生の時にに片思いをしていた――という噂だった。

もうこいつしかいない。藤真は両腕に鳥肌が立つのを感じていた。そして何も考えずに彼の腕を引っ張り、廊下の壁に押し付けた。藤真の方が少々背が高いので、実にバランスのいい壁ドンである。

「ちょ、おい、向こうで女子が目の色変えてるからやめろ!」
「お前今彼女いるか?」
「藤真くん、大変申し訳ないけどオレは異性愛者です。君とは付き合えない」
「だから彼女いるかって聞いてんだよ」

驚くあまり混乱してふざけた彼だったが、藤真の顔が真面目なのを確かめると背筋を伸ばして押し返してきた。派手な顔立ちではないけれど、肌が荒れておらず清潔感があり、女の子が好きそうな「男の子」だな――にも優しくしてくれそう。藤真は改めてそう思った。

「オレが彼女いなかったら何だって言うんだよ」
「え。あ、その、紹介したい、子が……
「へ? なんで急にそんなこと。ていうかなんでお前が。今更施しとか古傷が痛むんだけど」
「施し?」
……オレが昔のことちょっと好きだったの、知ってるんだろ」

噂はやっぱり本当だったのか。他人事のように彼の声を聞いていた藤真だったが、その声は突然低く重く、周囲に聞こえないようにグッと潜められた。

「その様子だと、オレのこといいなと思ってる女子に頼まれたとか、そんな話じゃないんだろ? お前が持て余してるとか、振った女に紹介したいとか、そんなんじゃないだろうな」

色々端折れば遠からずだという気がした藤真は返事が出来ずに息を呑んだ。以前に片思いしていたということは、完璧でもなんでもない、むしろ最悪なのだ。藤真自身が紹介する以上は。

「ていうかお前人に女の世話してる場合かよ。のこと一番に考えて余計なことに耳を貸すなよ」
……何の話だ?」
「お前のほら、友達を悪く言うつもりないけど、のことよく思ってなかっただろ」
「えっ、ちょ、ほんとに何の話だ?」
「何お前知らなかったのか?」

今度は藤真が腕を掴まれて廊下を引きずられていった。背後で女子の黄色い声が上がっているが、ふたりともそれどころじゃない。廊下の角の影に潜んだふたりは壁に向かい、また女子が騒ぎそうなほど顔を近付けた。

「だから、あいつお前がと付き合うこと、反対してたろ」
「マジで……
「何、お前には直接言わなかったの? オレにさっさと略奪してこいとか言ってたんだぞ」

彼が言っているのはと別れた方がいいんじゃないかと進言してきた例の友人である。だが、藤真は意味がわからなくてしかめっ面で呻いた。それが例えば仲の良い女友達なら嫉妬と考えることが出来る。もしくは友人が実は同性も恋愛対象で藤真のことを密かに想っていたとか、それならまだわかる。

だが例の友人は親友というほど親しいわけではなかった。ただでさえ多忙の藤真である。もし時間が空けばと会っていたし、基本的に学校の外では会っていない。2年3年と同じクラスで喋りやすい間柄……という程度だったのに。

……なんでだ?」
「オレが知るかよ。でもあいつ、お前と仲がいいこと自慢してるみたいな所あったしなあ」
「だとしても……
「自分の気に入った女と付き合ってほしかったのかもしれないぞ」
「はあ?」
……お前、意外と世間知らずだよな。まあ、今年は大変だっただろうけど」

そうして彼は藤真の肩をそっと叩くと、途端に優しげな声で囁いた。

「一学期の話だけど、高校の女は高校までで切り捨てた方がいいとか言ってるの、聞いた。お前の話だったかどうかは自信ないけど、今でも付き合いがあるならのことどんな風に思ってるのかわからんし、惑わされるなよ。だけ信じてればいいんだからな」

既に惑わされて洗脳完了、切り捨てたところです、とは言えなくて藤真は背筋が凍りついた。

「あとオレ彼女いる。まだ半年くらいだけど。焦ってに突撃しなくてよかった」
「そ、そうか……
「てか余計なことしてる暇があったらと一緒にいてやれよ。忙しいんだから」

そう言い残して彼は去っていった。予鈴が鳴っている。藤真は動けずに真っ青。

どうしよう。

友人だと思っていた人物と、それほど親しくない隣のクラスの男子のどちらを信じるかという点については、かつてに片思いしていたという絶対的な過去により後者に軍配が上がった。しかもそういう過去があるというのにのためを思って藤真に惑わされるなと言ってくれた。

経験上、「やめておけ」と言う人より、「やってみろ」と言う人の方が誠実だと藤真は思っている。

主力選手全員の進路が未決だというのに、引退しないで冬の大会を目指すと言い出した藤真たちを、ほとんどの人が「やめておけ」と言った。進学先ありきで考えるべきだ、決まらなかったときのために受験に備えておかなかったら取り返しがつかないと何度も言われた。

だが、国体の代表に選出されて最初のミーティング、県予選の決勝リーグにも入れなかった藤真たちに他校の代表たちはニヤニヤしながら「冬まで残るんだってな。まあ、あれで終われないよな」と言ってくれた。同じ目線で戦ってきたからこそ言える台詞だと藤真は思った。

との関係をバスケットと同じに考えているわけではないけれど、今更ながらに自分がに対してやったことは「逃げ」だったのではないか。藤真はそう考えると余計に血の気が引いた。のためだと信じ切っていたけれど、の新しい彼氏には優しい男じゃなきゃダメだと思っていたけれど、その前に自分が思いっきり泣かしてるじゃないか!

当然藤真が忙しいのもあり、このところ改めてお互いの思いを確認するようなことはしていなかったけれど、の涙は今でも藤真のことを好きだと思っていなければ流れ出てこないのでは。

ただあの頃は疲れ切っていて、日常の色んなことが煩わしくて、自分のことを考えるので精一杯で……

そこに至り、また自室のベッドに腰掛けていた藤真は目の奥が熱くなって思わず両の指先で目頭を押さえた。今にも涙が出てきそうな気がしたからだ。

どうしてあの時、自分に問いかけなかったんだ。どうして自分の気持ちを確かめなかったんだ。

オレ、のことどう思ってるんだろう。それすら確かめもせずに、一ヶ月も無駄に悩んで「のためにバスケットは辞められない」なんてことを「結論」だと思い込んだ。そんなことより先に確かめることがあったはずだろ!

に片思いしていた隣のクラスの男子の言葉がすんなり耳に入ったのは、もう自分には冬の大会しか残されていないと思いつめていたのが一転、国体に出場できるからだろうか。確かに一学期の期末のときには付き合いを続けていかれないと思ったのだ。自分なんかと付き合っててもはつまらないだろう、進路が分かれたらきっとすぐに破綻する、そう思い込んで。

けれど、全国大会に出場するというチャンスは簡単に頭上から転がり落ちてきた。

「余計なことに耳を貸すな」と言った彼の声が耳にこだました。

「なになに、紹介できそうな子見つかったの? 翔陽の子?」

土曜の午後のこと。休憩時間に突入した藤真はをクラブハウスの裏に呼び出した。こちらも部活で登校していたはにこやかな笑顔で跳ねるようにしてやって来た。少し距離を置いてが足を止めると、藤真は息を大きく吸い込んで向かい合う。

「あら、逆かな。紹介できそうな子、いなかった?」
……
「健司なら私にぴったり来る人見つけられるかと思ったけど、ダメだったか」
にぴったりなの、ひとりだけ、いた」
「えっ、そう? 誰?」

目を丸くしているの目の前で、藤真は自分を指差した。

「えっ、どういう……
「ごめん、オレしか、いなかった」
「健司ってこと? だけど健司、私と別れたいんでしょ? 何言ってんの?」

やけに淡々と首を傾げるだったが、藤真はまた大きく息を吸い込み直すと背筋を伸ばした。

を幸せに出来るような、優しくて、見た目も良くて、真面目で、そういう男を見つけようと思ったんだけど、どれも、ダメだった。どんな男もダメだった。卒業したら進路分かれるから、今のうちに別れておいた方がのためだと思ってた。オレみたいな、時間なくていつもいつも一緒にいられないような男より、いいのがいると思ったけど、いなかった」

伝えたいことがうまくまとまらなくて、藤真は思いつくままにそう言うと息が切れてしまった。するとはまたひょいと首を傾げて腕を組んだ。

……結局どういうこと? 別れないの私たち?」
「出来れば、そう、したいんだ、けど」
「健司……!」

喘ぐようにして答えた藤真には目を潤ませ、一歩進み出ると両手を差し出した。

「私たち別れなくていいの?」
「う、うん……
「健司、まだ私のこと好きだって思ってくれてるの?」
……思ってる。全然思ってる」

むしろそれを強く再確認してしまった。一番最初に確かめることだったはずなのに。

のこと好きだから、の彼氏は、オレがいい」
「健司……!」

今度こそ本当に自分の心に誠実な「結論」だった。また一歩踏み出したを抱きとめようと藤真は両手を広げ、幸せそうな彼女の笑顔に心をときめかせた――その時だった。

「ぐえ」

気付くと藤真はに喉元を突き上げられて壁に押し付けられていた。えっ?

「ちょっと考えればわかったでしょ、そんなこと。なんで私よりあいつのこと信用した?」
……?」
「予選負けてしんどかったのは同情するけど、私のためにとか勝手に決めないでくれる?」

さっきまで潤んだ目でうっとりとした笑顔を湛えていたは一転、下から怖い顔で睨んでいて、藤真は竦み上がった。顎を下から押さえつけられているだけでなく、ジャージの襟元まで掴まれ、もうホールドアップするしか為す術がない。さんこわい!

「自称『藤真の親友』が私のことムカつくって言ってんの知らなかったわけじゃないでしょ?」
「し、知らなかっ……
「知らなかったの!?」
「ごめんなさい!!!」

藤真はホールドアップしていた腕を持ち上げて顔の前で手を合わせ、間髪入れずに謝った。ほんとに知らなかった。というかまで知ってたなんて。もしかして知らなかったのオレだけなんじゃ……

だがは手を緩めず、さらに藤真を壁に押し付けた。壁ドンて怖いんですね。

「二度とこんなバカな真似しないでよ」
「しません!」
「本当に気持ちが離れたらしょうがないけど、浮気は許さないからな」
「絶対しません!」
の彼氏は健司がベスト! はいリピートアフターミー!」
の彼氏はオレがベスト!」
「反省しろ!」
「反省してます!!!」

やっと見つけた「結論」より本音だった。

……私、時間なくても、そんなことより健司が好きだから、クリスマスとかなくても、怒ったりしなかったじゃん。だけどそのあとちゃんと埋め合わせって、休みの日にずっと一緒にいてくれたじゃん。それでよかったのに、好きなのに別れなきゃいけないのかと思ったじゃん、バカ」

するりと手が緩み、俯いたは遠慮がちに藤真に寄り添い、声を震わせた。

「健司以外に私のこと幸せに出来る人なんか、いないのに」
「ごめん……

今度は胸が締め付けられるように痛んだ藤真は、そっとの背を抱き寄せた。するとは爪先立って藤真の顔を両手で包みこみ、何も言わずに唇を押し当てた。久しぶりのキスだった。

、ごめん、好きです」

言われるまでもなくもう二度とこんなバカな真似をするもんか。決意を新たにした藤真はもう一度にキスをして額を合わせた。こんなに好きなのに、どうして彼女を信じられなかったんだろう。進路が分かれたら必ず破綻するなんて、決まってもいないのに。

安堵の息を吐くの手が頬に暖かくて心が幸せで満たされる。

そんなことはもうとっくに、知っていたはずなのに。

再び小さく触れ合う唇と唇、そしての優しげな声。

……じゃ、国体の間、待ち受け私の写真の刑ね」
「はいぃ……

まだ夏の暑さの抜けきらないクラブハウスの影に、息も絶え絶えの蚊の鳴くような声だった。