彼女の恋人

前編

その頃の藤真というのは、とにかく日々忙殺されていて、しかし敗北の傷は癒えきれておらず、そのせいで集中しなければならないこと以外には細やかに気を配っていられる状態ではなかった。

高校3年間の全てをかけた最後のインターハイを逃し、2年生の冬頃にはニコニコ顔で推薦の話を進めていた某大学の監督は笑わなくなってしまった。親には二学期の中間までに推薦が確定すれば好きなだけ部活を続けてもいいけれど、それを過ぎても話が宙ぶらりんのままだったら受験に備えて引退するか高卒で就職かを選べと言い渡されている。浪人は認めないそうだ。

しかし一応推薦の話は反故にされたわけではないようだし、夏休みの間に気持ちを立て直してラストチャンスである12月の大会に備えたい、そのために出来ることをひとつずつ確実にこなしていこう、それだけで頭がいっぱいだった。

そんな彼には付き合いがそろそろ1年半になる恋人がいた。

そもそも藤真は優秀なバスケット選手であり、そのためチームのリーダーであり、先輩からは信頼され後輩からは慕われ、部活ばかりの割には勉強も頑張っていて、なおかつ人目を引く美少年という校内でも異様に目立つ人物だった。

一方の恋人の方は藤真に負けず劣らずハイスペックな美少女――ではなく、真面目で親切ではあるものの、校内の誰もがその存在を知るほどの有名人ではなかった。藤真とは小学校が一緒で高校になって再会、そこから親しくなって付き合い始めた。

これが破綻もせずに1年半も続いているのはひとえに藤真が忙しく、またその彼女であるが忙しいことについて文句を言わないからだ。も彼氏の派手なスペックに遠慮することなく部活や趣味に日常を楽しんでいる。なのでそこそこ仲はいい方だったし、付き合いに問題はなかった。

だが、高校3年生の9月、ふたりは破局を迎えるのである。

ラストチャンスである12月の大会だけに集中していたはずの藤真はしかし、月末に始まる国体に出場が決まって毎週末を代表チームの合同練習に参加することになっていた。その初回の練習を翌日に控えた金曜日、早めに練習を切り上げた藤真は帰り道でを呼び止め、別れを切り出した。

それを聞いたは3秒ほど固まったのち、ほろりと涙をこぼした。

「ごめん……
「ううん、もしかして、ってことはずっと考えてたし」
「えっ?」
「健司、忙しすぎるから」

ほろほろと涙をこぼしながら緩く笑うに、藤真はバツが悪くなって首筋を掻いた。

付き合って1年半とはいうものの、その間に恋人同士らしい時間を過ごしたのは、付き合って半年の恋人同士よりも少なかったかもしれない。テスト前だとか、特別な理由がない限り部活は毎日のようにあったし、1年生の頃から既にチームの重要な戦力だった藤真は私用で練習をサボるような半端な気持ちで競技に挑んでいるわけではなかった。

それだけ彼女を放置しておいて自分から別れを切り出したということが途端に居心地が悪くなってきた。その上、逆ギレされるかもと思っていたのに、はやけに聞き分けのいい素振り。付き合いも長いし、喧嘩はほとんどないけれど、その代わり濃密なカップルでもないと思っていただけに、の涙は藤真の胸をチクチクと突っついた。

はバッグの中から折り畳んだハンドタオルを引っ張り出すと、俯いてそっと目元を押さえた。

「明日も国体の練習だもんね」
……そう」
「冬の選抜だけしか残ってないと思ってたけど……よかったね国体」

の言葉がまた藤真の胸をチクチクと刺す。そこら辺のカップルのように過ごした時間は少ないけれど、はいつでも藤真の勝利を願い、応援してくれていた。しかも別れを切り出しているというのに「よかったね」ときた。藤真の胸は痛みっぱなし。

……この先も、ずっとそういう生活が、続くから」
「ああ、推薦そのままになりそうなんだよね。それもよかったね」
「あ、ああ、ありがとう……
「私これから受験シーズン突入だし、ちょっと羨ましいよ」

まだちょっと涙目だが、は優しげな表情でそんなことを言う。藤真は痛む胸が少し不安に淀み始めた。、受け入れてくれたんだろうか。するとはハンドタオルをバッグに戻して顔を上げ、藤真に向き合った。

「これまでは健司の方が忙しかったけど、私の方が時間なくなるんじゃないかなあ」
「うん、まあ、オレは3学期になれば何も、ないし」
「私はその頃になったらほんとに時間なくなるな〜」

はちょっと声を上げて笑うと、いたずらっぽい目で首を傾げた。

「じゃあさ、健司。私別に泣き叫んで縋ったりしないからさ、ちょっと頼まれてくれない?」
「えっ、何を……
「新しい彼氏ほしいから、誰か紹介して!」

エヘッと恥ずかしそうに笑うに、藤真は口を開けたまま固まった。

新しい彼氏。

そうか、別れるということは、自分は「の彼氏」ではなくなるんだもんな。

今更のようにそれが大層な違和感だと感じてきた藤真だったが、別れるということはそういうことだ。恋愛関係を解消し、無関係ないしは友人に戻り、それぞれはまた新たな相手を見つけたり見つけなかったりすればよかろう。

「私そんなに付き合いが広い方じゃないし、友達は女子の方が多いし、家もまあまあ厳しいから外で見つけるのも難しいし、これから受験で時間ないしさ〜!」

別れたばかりの元カレに新カレを見つけてもらうという思いつきがツボに入ったのか、は楽しそうに声を弾ませた。藤真の方がどんよりしている。

「それにほら、付き合ってなかった時間を含めても付き合い長いじゃん、私たち。だから私に合うのはどんな男子かってこと、一番わかってるの健司だと思うんだよね。それに健司ならバスケ関係で男子の知り合いめちゃくちゃいっぱいいるでしょ? 私学校違っても全然OKだし!」

確かに。藤真は機嫌の良さそうなの声につい頷いた。ちょうど地域内の小中学校の統廃合が重なって、ふたりは中学が分かれた。だが、小学校は6年間ずっと一緒だったし、高校で再会した時も同じクラスだった。その上一応1年半も付き合ったのだから、お互いのことはよく知っている。

ついでに藤真が部活関係で高校生男子に顔が広いのも事実だ。顔が広いと言うか、普通に全国各地に面識のある男子がいっぱいいる。藤真の脳内に彼らの顔が浮かんでは消えていく。

は、どういうのがいいの」
「うーん、さっきまでそんなこと考えたこともなかったからなあ」

顎に人差し指を押し当てては唸ると、またニヤッと笑った。

「健司が選んで! こういう男ならいいなって健司が思うような、そういう人を選んで!」

と別れようと思ったのは、1学期末のテストの最中のことだった。正直勉強している精神的余裕もない藤真だったけれど、去年一昨年と違って、インターハイはない。その分テスト勉強のための時間はたっぷり用意せざるを得なかった。

そんな頃、同様普段は藤真が忙しいので遊んだりする暇のない友人にファストフード店でノートを写させてもらっていた。インターハイ予選の間に不在ですっぽり抜けている箇所が見つかったので頼んだところ、快く引き受けてくれた。

その時に、友人は心配そうな声色で「と進路別れるんだろ?」と問いかけてきた。

推薦の話がなんだか不安定になってきた……という時期のことだったけれど、どちらにしても藤真は大学に進学してバスケットを続けるつもりでいたし、それは気軽なサークルではダメだったし、県内の私大を考えているというとは進学先が別々になるであろうことは確定だと思っていた。

友人は「お前は目立つから」と前置きをした上で、が放置のままで不満を抱えていないはずがない、微妙な遠恋みたいになったらこじれるんじゃないか、大学で運動部にいたら付き合いがもっと広がって、その時に嫉妬されると大変なんじゃないか、と腕組みでため息をついた。

は嫉妬深い方ではないけれど……と思いつつ、あまり余裕のない藤真は背もたれに寄りかかって同じように腕を組み、窓の外を見つめた。

進路が分かれることはわかっていたけれど、高校を卒業した後については具体的に考えたことがなかった。藤真は基本いつでも次の試合に集中していたし、チームの展望については常に部員たちとミーティングを重ねていたけれど、大学生の自分と、という想像はしたことがなかった。

言われてみると、今以上にとの時間がなくなるような気がする。生活のパターンももっとずれていく気がする。もしこのまま自分が都内に進学して、は県内に進学となれば余計に都合がつけづらくなるのでは。それに、友人の言うようにもし進学先のチームが男縦社会的な体制を今でも続けていたとしたら、を優先できないかもしれない。

そんな男と付き合ってて、は面白いんだろうか。

藤真が最初に感じた疑問はそれだった。中学の時に付き合っていた女の子は中3の春に同じ高校に行こうねと言い出し、藤真はバカ正直に「高校はバスケで選ぶ」と言ってしまい、その場で振られた。そのくらい「一緒にいられないこと」は恋愛において大変なマイナスポイントのはずだ。

24時間365日をのために使ってやれない男なんか、付き合う意味があるんだろうか。

そういえば目の前で渋い顔をしている友人は趣味にしているスケボーのアマチュア大会に出場するためクリスマスをすっぽかし、当時付き合っていた女の子と喧嘩別れをしていた。普通はそのくらい怒るものだろうに、は思った以上に我慢していたのでは。

前年のクリスマスがちょうど練習試合でと一緒に過ごせなかった。埋め合わせはしたけれど、あとで補填すればいいというものではないのでは……という気がしてきた。

以来藤真は夏休みをフルに使って悩み、のためにバスケットを辞めることはどうしても出来ないと結論が出たので、別れを切り出すに至った。

なのにどうしてこうなった。

藤真は自分のベッドで仰向けになり、携帯の画面をのろのろとスクロールさせていた。そこには大量の「男」の名前。小中高の友人、小学生時代のミニバスの仲間、中学のバスケ部の仲間、現在の部員がほぼ全員。ちなみに卒業していった先輩を入れると全部で100人超。翔陽高校籠球部計5学年分。

の言うように、藤真には「男の知り合い」が異様に多い。しかも範囲が広い。ちらりと目に止まったのも茨城のチームの選手の名前だし、次に続いているのは関西の大学に進学した東北出身の先輩。現在留学中の先輩もいるし、そのほとんどがバスケ関係という共通点があるだけで男のバリエーションには困らない。どんな男もよりどりみどりだ。

しかしひとまず距離が離れているのは問題外だ。近くにいてすぐに会えるのが最低条件。となると候補はせめて県内の人間に絞られる。出来れば同じ路線の沿線上に住んでいるとか、バスで行き来ができるとか、そういう場所に住んでいるのがいい。

なんだったらごく地元の男なら自転車で、という手もある。これなら夜中でものもとに飛んでいける。それが一番いいけれど、まあまずはざっくりと絞り込んでいかねば。こっちの都合で不仲でもないのに別れてもらうことになったのだし、責任を取るというやつだ。

だが、小中学校の知人友人を絞り込んでいたところで、ひとりの先輩の名が目に入った。彼は中学の時のひとつ先輩で、なかなかの良い選手だった。藤真ほどではないにせよ、県内のバスケット強豪校に進学していった人だ。彼はもちろん背が高く、責任感があり向上心があり頼れる先輩だったが、当時人気の芸能人によく似ていたことで女子人気が高く、とにかく女関係がだらしなかった。

中学3年生の時点で付き合ったり別れたりを毎月のように繰り返していたし、それはいつでも彼の浮気が原因だった。誰と付き合ってもすぐに飽きてしまうのである。

これダメ、こいつ最悪。

藤真は携帯を見上げながら思わず呻いた。いくら近くに住んでいてもこれはいかん。そう思うと、ずらり並んだ名前たちに別の顔が見え始めた。こいつもダメ、こいつも彼女泣かしてた、こいつは大学行ってすぐ彼女妊娠させて中絶させた論外、こいつもヤりたい時はブスをナンパしてバックで済ますが口癖だった死ね、ふざけんな、こんな男と付き合わすなんて絶対ダメだ!

藤真は勢いがばりと起き上がり、ベッドに腰掛けて携帯を放り出して髪をかき混ぜた。ちくしょう、普段男同士の付き合いじゃ何も気にならなかったけど、に紹介する前提で考えたらクソ野郎ばっかりじゃねーか! なんでオレ平気な顔して付き合ってられたんだ!?

せめて神奈川県内に住んでいること、という前提で絞り込み始めたはずなのだが、藤真はそれを忘れてメッセージツールの友達リストを遡る。男は中身! 中身!

暴力暴言はもってのほか、例えそれを表に出さないとしても、裏で女の子を侮辱してるようなのもダメ。それがバスケット関係であれば、狡っ辛い手を好むようなやつもダメ。

そう、洒落っ気なんかなくても誠実が一番に決まってる。不器用でも真面目が一番だろ。うちのおじいちゃん高倉健の大ファンで孫の名に「健」という字が入っただけで喜んだって話だけど、いや健さんかっこいいよな! 背中が渋い!

ほらほらこいつなんかもう堅物中の堅物って感じで、バスケットやってんのか武士道やってんのかわかんないような――そういえば、ニコリともしないよな、こいつ。すっごい真剣にバスケットやってて正々堂々勝負ってその心意気はいいんだけど、試合前とかだと挨拶もスルーとかたまに……

藤真はまたベッドにひっくり返って髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。

真面目ならいいってもんじゃないだろ。そりゃ常にふざけたこと言ってを笑わせろとは思わないけど、一緒にいてが幸せな気持ちになれなかったら意味がないじゃないか。

は「こういう男ならいいなって健司が思うような、そういう人を選んで」と言った。

それはがつらい思いをするような相手ではなく、楽しくて幸せで、相手のことを好きだなと思える人物でなければならない。と一緒にいられない自分に代わり、と楽しく過ごしてくれるような相手。安心してを任せられる相手。

ちらりと携帯に目をやると、先日行われた国体の最初のミーティングで繋がることになった代表選手の名前が並んでいる。この年の初夏に敗北を喫した相手も含まれるが、勝負の世界でいつまでもそんなことは引きずっていられない。自分を負かした相手だからこそ学び取らねばならないことがあるはずだ。こいつらの方がまだマシだよな……

不思議なもので、自分たちにはもう冬の大会しか残されていないと思っていた頃は彼らに対して強い敵意があった。だが、同じ神奈川代表選抜チームとしてまとめられてしまうと、そんなじりじりと身を焼く敵意はいつの間にか消えていた。

これは戦争じゃない、バスケットなんだ。自分たちがいつも目指しているのはチームの勝利であって、対戦相手の敗北ではない。今はむしろ、さんざん戦ってきたこいつらが頼もしくて仕方ない――

すると今度は小綺麗な顔をした代表選手の名前が目に入った。藤真は自分が一番小綺麗な顔をしていることを忘れて携帯を手に取る。そういやこいつだけじゃなくて、こいつとかこいつも女子が好きそうな顔してるよな……いわゆるイケメンてやつか。

だが、藤真自身はその「小綺麗な顔」があまり好きではなかった。子供の頃から周囲の女性は彼を見て「女の子みたいに綺麗な顔をしてる」とにこにこしていた。藤真にとって「女の子みたいに綺麗」は褒め言葉ではなかった。もっと精悍な、ちょっとワイルドさを感じるような顔が良かった。

同学年の女子たちは「藤真って顔ちっちゃーい! 顎ほそーい!」とはしゃぐけれど、もう少ししっかりした輪郭が欲しかった。実は代表チームの中でも背が高い方ではない。一般的には充分な身長を持っているけれど、いつも隣に197センチがいるので余計に自分が細く小さく思えた。

……具体的に好みとか聞いたことないけど、ってどういうのがタイプなんだろう。

付き合うまでに充分な友人期間があったけれど、聞いたことがなかった。特に熱を上げてる芸能人とかも聞いたことがない。というかそういう話をほとんどしなかった。記憶に残っていない。

自分の感覚ではいかにも男らしいような体つきにワイルドな顔、チャラチャラしない、ふたりきりの時だけはを目一杯甘やかし、浮気もせず、例えばバスケットやってるなら自分と同じかそれ以上の能力があること。そんな男なら理想。

まあそれは極論だけど。県内で自分より上手いプレイヤーなんてそうたくさんいるわけもないし……とため息を付きつつ画面をスクロールする。いた。藤真は携帯をベッドの上に放り投げて頭を抱えた。性格とか浮気とかその辺は知らんけどオレよりワイルドマッチョでバスケットの腕は同等。いるじゃん。

だが、それにを紹介しようとはどうしても思えない。思えないし、紹介したい女がいるんだけどなんて言おうものなら代表から外すように監督に進言されてしまう。そうだ、最終的には誰かにを紹介しなきゃならないんだった……

こんなところで携帯の文字だけ追っててもに紹介できる男なんか見つかるわけない。

それに、は他校でも気にしないと言うけれど、紹介するということも含めて違う高校は現実的ではないような気がした藤真は充電ケーブルを差し込むとまたベッドに倒れ込み、左腕で顔を覆った。

週明け、月曜から校内で探そう。同じ高校ならどんな人物なのかという話も聞きやすい。

の彼氏を見つけてやらねば。