手まねくカナロア

2

「あの子があんな風に泣いたのは、マサが死んだ時以来だったかしらあ」

誰にも言わない約束だが、まあもう5年前の話である。

「高3のインターハイで負けた時も泣かなかったのよ。まあ海南の主将ってそういうものらしいけど」
「そうだよねぇ、みこっちゃんとかは割とすぐに泣くけど、ノブって泣かないよねー」
「頼朝も泣かないんだけど、あの子の場合は泣くほど感情的にならないって感じで」
「あー、わっかるー! 頼朝ちゃんて喜怒哀楽が弱い感じするよねぇー」

由香里のもっともらしい声に、ぶーちんもうんうんと頷いている。3月末、は4月から始業なのでそれまでは遊びまくろう! と方々から声をかけられる日々を送っていた。今日は由香里とぶーちんと男子禁制ランチ。

「そりゃ、外ではどうだか知らないわよ? 大学の寮に入ってた時は私もよく知らないし」
「でも頼朝ちゃんとみこっちゃんと違ってノブはよく帰ってきてたよねー」
「それがもう、ボロッボロ泣いてさあ! あらこんなのマサが死んだ時以来だわーと思ってぇ」
「やーん、と離れるのほんとにつらかったんだねぇー」

大盛り上がりのふたりを前に、そんなこと初耳だった当人は真っ赤になっている。

「でもぉー、そうだよねぇー、はまったく知らない街にポーンて飛んでっちゃったわけだけど、ノブはとの思い出がたくさん残る場所に残ったんだもんねえ。も大変だったけど、ノブも頑張ったよねえー」

もその辺りのことは本人から少しだけ、あとは大学に入ってからのことをエンジュからちらほらと聞いただけだ。高校2年生の夏からほんの僅かな再会を果たすまでの間のことは、ほとんど知らない。直後は何度か永源に来て水戸を捕まえては愚痴っていた――というのは冗談交じりに聞いたことがあるけれど……

「てかはどうだったのよ。向こうで気持ちが揺らいだりしなかったの?」
「えっ、そんな揺らいでる暇なんかなかったもん」
「揺らいでるヒマがないとかうーけーるんだけどー」
「正直言うとね、もう私がに戻ってきてほしくて、あんた浮気すんじゃないわよとか思っちゃって」

本当に正直になってしまった由香里とぶーちんは大笑いだ。エンジュによると一応浮気の事実はないそうだが、言い寄ってくる女はいたという話だ。まあ無理もない。あれでも清田は神奈川の名門中の名門、海南大附属で3年次には主将を務め、IHでは決勝まで勝ち上がった実績を持っている選手だ。

さらにエンジュが言うには、言い寄ってくる女のみならず、身持ちの固い清田をチームメイトや友人たちがからかうので、傍目にはそっちの方がつらそうに見えたという。もその気持ちはよく分かる。遠恋なんか絶対にうまくいかないのだから、手の届く距離にパートナーを見つけなさいと何度言われたことか。

「でもぉー、ノブこれからプロ選手でしょー。人気出ちゃったらどうするのー」
「えっ、人気出てくれなきゃ困るでしょ」
「マジカノの余裕なんだけどー!」

余裕とかいう問題か。は熱くなってしまった頬をさすりつつ、ゲラゲラ笑うぶーちんの隣に座っている彼女の長男の食べこぼしを拾う。ぶーちんとだぁ夫妻の第一子は男の子で、だぁそっくり。次は女の子が欲しいと最近また子作りをしているそうだが、まだ朗報は聞こえてこない。

「でもあんまり人気が出ても困らない?」
「えっ、なんか困ることある?」
「嫉妬とかそういうのはないの?」
「まあ5年も離れてたし、今更そのくらいのことでは」
マジつようーけーるー! 最近ノブの方が追いかけ回してるよねえ」

由香里は心配そうに覗き込んできたが、はプロ選手がファンから見向きもされないようでは……と思っている。そりゃあ女の子にキャーキャー言われるのが嬉しいとは思わないけれど、それに対して清田が鼻の下を伸ばさなければいいだけの話だ。その点はまあまあ信用している。

「そうなの、よー! がアパート帰るっちゃあ付いてくし、どこでも一緒に行きたがるし」
「定年退職した途端に奥さんの後ろついて回るだけになるおじさんとかいるよねー」
「そりゃも信長も4月からまた忙しくなるとは言え……ねえ?」
「てかこっちに戻ってきてから別々になったことないはず」
「えっ、アパートでまだひとりになったことないの」
「ない」
「えっ、ちょ、ノブそれはちょっと重症なんじゃないの」

ぶーちんはドン引きしているが、由香里の言うようにどちらももうすぐ新生活が始まるので、それまでの猶予と思えば、というところだ。清田の方が追いかけ回しているように見えるのは、5年の激闘の末にがすっかり落ち着き、現在の生活を余裕を持って過ごしているからである。

ぶーちんの長男がトイレに行きたいと言うので由香里が席を立つ。由香里が遠ざかると、ぶーちんはぐいっと顔を寄せてきて口元に手を立てた。

の感じでは大丈夫そう?」
「えーと、信長のこと?」
「そう」
「まあ確かにこっち帰ってきてからベッタリではある」

が清田家からも遠くないアパートに入居したのは大学の卒業前の2月のことだ。以来貯金暮らしなわけだが、それがもったいないからうちに来なさい、と由香里や新九郎が騒ぐので、週の半分ほどを清田家で過ごすことも珍しくなかった。最近ようやくアパートの方が多くなってきた。

「まーね、愛されてるのはいいことなんだけどさ、好きでも鬱陶しいことってあるよねー」
「でもまだ1ヶ月ちょっとだからなあ」
「なにそれもウェルカムなん?」
……ま、80パーセントくらい」
「だーよーねー!!!」

ぶーちんは楽しそうにケタケタ笑っている。

「鬱陶しいから帰れとは思わないんだけどさ、せっかくのひとり暮らしだし、ひとりで過ごしてみたいと……
「でもそんな機会もないままお仕事始まっちゃう」
「その通りです」

もう4月は目の前だ。清田は基本的に何をしていようと、夜はのいるところへ帰ってくる。アパートにも既に清田の服やら下着やら整髪料やら、寝泊まりに必要なものはすっかり揃っているので、自宅に帰ってがいなければ追ってやって来る。そういう毎日だ。

「4月に入れば嫌でもひとりになる日が増えてくるだろうけどね」
「でもさ、お仕事も大変だと思うけどさ、こっちでの生活、楽しもうね」
……うん、そうしたい。5年分、早く取り戻したい」

今日も由香里とぶーちんとランチを取ったあとは、最近親しくなった友人と会う予定だ。本日チームの研修に出ている清田は19時頃に終わるというので、その後合流、やっぱりそのままのアパートへ帰るコースだ。

「そーいうの全部取り戻したら結婚?」
「具体的な時期は決めてないけど、たぶん。余程のことがなければ」
「そしたら清田の家に入るの?」
「今のところはそう考えてる」

がごくごく真面目な顔をして言うものだから、ぶーちんはゆったりと微笑む。

「そーいうのもいいね。旦那の家族と同居なんか死んでも嫌って普通はなるけど、みたいなのも、いいよねぇ。うちも3割くらい清田家みたいなもんだし、そこにが入ってきてくれるって思うと、あたしも嬉しい」

ぶーちんの言うように、大好きな彼氏と結婚して夫の家族と同居したい……などと迂闊に口には出せない。しかしそれこそがの夢だったのだ。5年間遠く離れた地で戦い続けたのも、すべてそのため。いつか清田になってあの家で生きるのだと夢見て戦ってきたのだ。それはもうすぐ現実になる。

「てかマジ清田家女少ないからー! やっと女が増えるよー!」

もゆったりと頬を緩めると、大きく息を吐いた。早くそうなりたい。

最近親しくなった友人は、元は尊の彼女だった人物である。何の偶然かとは中高が一緒で、現在の住まいも遠くない。彼女は塚田さんといい、チュカと呼ばれている。実家が営むプラスチック加工業に従事しており、そのため時間は都合がつきやすく、混雑しているのが苦手という彼女は平日に時間を作って遊ぼうと誘ってきた。午後をふたりで遊び、研修の終わった清田が合流して飲んで食って22時、やっとアパートに帰ってきた。

ほどよく酒も入ったと清田はベッドに並んで横になり、研修で配布された年間スケジュール表を眺めていた。変更はあるにせよ、だいたいの流れがもう決まっている。

「なんか……高校時代より休みが多いんじゃないの」
「実際そうだと思う。海南は特に毎日少しでも、って習慣だったしなあ」
「だけどほんとに色んな所行くんだね。いいなあ〜」

シーズン中は試合のため全国を渡り歩く予定になっている。高校時代はもちろん、学生時代も旅行など無縁だったは足をばたつかせて羨ましがる。高校の修学旅行も直前に転入してきたので行かなかった。というか修学旅行先が東京だったので、抜け出せるならともかく、観光はどうでもよかった。

「確かに旅行はちょっと時間足らなかったな」
「まあもうそんなに貯金も余裕ないしね」
「どこ行きたい? また少しずつ貯めて行こうぜ」
「えーとね、えーと、どうしよう旅行なんて中学生の頃に行ったきりだから思いつかない!」

それも山梨県は清里だ。旅行というには割とご近所である。また足をばたつかせるの体に腕を絡ませて、清田は頬を擦り寄せる。まだ夜は冷えるので、はモコモコのパイル地のパジャマを着ている。ふわふわで抱き心地がいい。

……新婚旅行はどこ行きたい?」
「遠い話だな〜。そんなにまとめて休み取れるかなあ」
……さんはどーしてそうロマンがないんですか」
「そりゃ5年も貯金生活してりゃね」
「行ってみたいな〜と思うところもないのかよ」

可愛くないことを言うので、清田はの脇腹をくすぐる。悲鳴を上げたはじたばたと暴れた。

「そういうのもこれから見つけるよ。ずっとそんなこと考えてる余裕もなかったから」
「就職すると学生時代とのギャップで体壊す人とかよくいるけど……
「うん、たぶん働いてる方がよっぽど楽だと思う。土日が丸々休みなんて何年ぶりかだもん」
「少し落ち着いたらエンジュにも会いに行こうぜ」
「うん、行く行く」

予定表を見ていると、も少しずつ先のことを考えられるようになってきた。

……今日ぶーちんに言われた。そーいうことたくさんして満足したら結婚するの? って」
「まあ別に満足してもしなくても、いつでも構わないわけだけどな」
「いつ頃がいい?」
「明日でもいいけど」
「そう来たか。いやいやあんたまだ年俸入ってないでしょうが。指輪指輪」
さんがめつい」

今も一応お互いが選んで贈り合った指輪をしているが、に関しては清田が収入を得られるようになってから改めてプラチナにダイヤの指輪を買い、プロポーズをすることになっている。

「あ、でも試合後のコート上でサプライズでプロポーズとかやめてよ」
「ちょ、なんでそれ知ってんの!?」
「やるつもりだったの!?」
「いや、ちょ、ちょっといいなあって思ってただけだって!」
「そんなことしたらその場で別れるからな。てか何言ってんの、海でしてよ、あの浜で」

コート上などと、清田にしか縁のない場所でそんなことされるのは御免だ。そんなところでせずとも、自分たちには約束の海があるじゃないか。清田も思い出したらしく、頷きながらまた頬を擦り寄せる。

「そりゃそうだ。あの海でまたちゃんと約束しないとな」
……今日、ゆかりんに聞いたよ。私が引っ越す時、すごく泣いたんだって?」
……クソババアめ言わないって言ったのに」
「ちょちょちょ、すごく嬉しかったんだってば」

清田が一気に不機嫌な顔になったので、は慌てて彼の両頬を包み込んで、ゆっくりと撫で擦る。

「信長って、例えば何か映画とか見ても泣いたりしない人なのに、って驚いて、でもそれだけ、ええとその、泣くくらいのことに感じてくれてたんだなあって」
「泣くくらいのこと?」
「えーと、ですからその、私と、離れたくなかったんだなって」
「そりゃそうだよ」

清田は体を起こすと腕を突っ張っての上に覆い被さる。

「どうあがいても負け惜しみになるって思ってたから言わなかったけど、あの頃はお前のおっかさんほんと嫌いだった。なんで引っ越しなんだよ、あんたがここで仕事見つけて働けばいいだけの話なのに、どうしてまで道連れにするんだよ、あんたのせいでオレたちは苦しむ羽目になったって思ってた」

当時高校2年生、清田にとっては大好きな彼女を奪い去っていく悪魔にしか思えなかった。

「そういうの残ってて、お前は最終日チューすんのも嫌がったし、でもまだはここにいるんだし、どうにかして引き止められないかとかグズグズ考えてて、だけど由香里の車でお前んち離れた途端、ダメだった。引き止められなかった、はいなくなる、それは自分がまだガキンチョの高校生だからだって思ったら、どうにもならなくなって。は腹くくってんのに情けないのと、離れたくないのと、色んなのが混じって」

その頃のは、確かに冷えた頭で腹をくくっていた。絶対に5年間戦い抜いてやると思っていた。

「永源に、行ってたんだよね?」
「そういう話出来る相手があいつしかいなかったからな」
……永源も、行ってみようね」
「ああ、いるかどうかもわかんねえけど、そういうの少しずつ、な」

旅行もいいけれど、5年間の戦いの中で手の中からこぼれ落ちてしまったかけらを拾い集めて、全部取り戻して、そうしたらあの約束の海で今度こそ死ぬまで解けない誓いを立てたい。そのために戦ってきたのだから。

……さん」
「えっ、なに」
「そういうわけで、やっぱりオレはマジで君のことが大好きなわけです」
「ちょ、な、なに突然」

突っ張っていた清田の腕が折れ、顔が近付いてきた。

「あとほんの数日でまた新しい生活が始まるけど、それって日常が始まるってことだろ。今は何ていうか、まだ夢の中みたいな感じがするんだよな。学生でもなくて社会人でもなくて、長い長い休みが終わる直前、て感じで。オレはずっとそういう『のいる日常』が欲しかったんだなって、今ちょっと思った」

もしあの時が遠方に引っ越すということにならなければ、ずっと続いていたかもしれない日常が戻ってくる。それぞれに毎日があり、楽しいこともしんどいことも、すべてのことが詰まった日常がやってくる。

そこには家族がいて友人がいて犬たちもいて、そうして形作られている。

……そういう日常、オレと一緒でいい?」
……一緒がいい」

遠い夏の日、あの海にそう約束したから。覚悟をしたから。

いつか夢に描いた未来はちゃんと手の中にある。それを二度となくさないように、大事に守ってゆかねば。そういう気持ちがふたりの中にある限り、未来はいつでもふたりを、と清田、いやと信長を待っている。楽しいこともしんどいこともたっぷり用意して待ち構えている。今はその入口なのだ。

海はその約束が果たされるのを待っている。寄せては返す波が、まるで手招いているように。

END