ライフ・ウィズ・ドッグス

2

……これって、シベリアンハスキーじゃないの」
「たぶんそう」
……大きく見えるけど、大型ってことを考えると」
「たぶんかなり小さい。先生は離乳食に入ったくらいじゃないかって」

尊とエンジュ以外の全員がリビングに集合して、が抱いている子犬を覗き込んでいた。

「で? どうしたんだ」
「それが……こいつ海で溺れてたんだよ」
「はあ?」

野良犬が多かった時代じゃあるまいし、しかもこんなわかりやすく高価な犬がなんで1月の海で溺れてたんだ。大人たちは全員そういう顔をしている。ちなみにカズサは友達の家の小型犬と違って足がぶっといので遠巻きに見ているだけ。

ふたりによると、1月の寒風吹き荒ぶ、とは言うものの、よく日の差す浜辺は気持ちよくて、思い出話をしながらのんびりと歩いていた。すると、穏やかな波打ち際にゴロゴロと何かが転がっていくのが見えた。それを目で追っていくと、この一発でシベリアンハスキーとわかる般若顔が水面に浮かんだ。

信長とはちらと顔を見合わせたが、次の瞬間走り出していた。

「波に引きずり込まれたばっかりだったんだよな。だから慌てて入って」

足だけとは言え、冷たい1月の海に飛び込んだ信長は子犬を救出、子犬の方は海水を飲んでしまって喉をしきりに鳴らしていたが、ひとまず無事だった。

「でも一発でハスキーってわかるだろ。まさか野良ってわけはないし、一応警察に通報したんだ」
「車で迎えに来てくれたから預けて、近くの店で服買って着替えたりしてたんだけど」

しかしあんなわかりやすい高価な犬が、しかもまだかなり幼い子犬が海で溺れるというのがどうにも気になって、ふたりは最寄りの警察署を訪ねた。すると、今のところ例えば盗難届の類や、保健所の方にも特徴的な犬が脱走したなどの連絡はないという。

「でもまだこんな子犬だし、飼いはじめてすぐにいなくなったら慌ててるはずだろ」
「保健所とか警察って思いつかなかったかな、ってSNSも漁ってみたんだけど」

は1時間ほど粘ってネットで検索しまくったのだが、神奈川の海岸でハスキーの子犬が行方不明、という情報には行き当たらなかった。すると、警察署員がその子犬を抱いてやってきた。

「キュンキュン鳴いて暴れるから連れ出してきてみた……ってことだったんだけど」
の顔見た途端に釣れたての魚みたいに暴れて、しまいにゃジャンプしてこっち来た」

それを見た署員の方が遠慮がちに「預かってもらえませんか」と言ってきたという。見るからに幼い子犬だし、高価そうな犬だし、おふたりも心配で戻ってくるくらいだし、なんかこの子懐いてるし。本来の所有者が現れるまでの「保護」という形でご協力いただけませんかという。

子犬はと信長の顔をベロベロなめて尻尾を振り、キュンキュン泣き喚くのもピタリと止まった。

……まあ、そのままじゃ保健所送りかもしれないし、それに逆らえる人間はうちにはいないわな」
「で、そのまま病院行って、事情話してザッと見てもらってきたところ」
「やっぱり推定2ヶ月くらいって話で、見た感じは問題なさそうって話だった」

歯はしっかり生え揃っているので離乳は済んでいるのでは……という医師の見立てで、試しにふやかしたドッグフードを少量与えてみたところ、ペロッと完食してしまい、様子見で1時間待ったのだが、何の異常も起きなかった。なので一応血液検査だけしましょう、と血を抜かれて帰ってきた。

というかこの病院はマサの代から清田家の犬を全て見てきているので、院長は子犬に向かって何度も「いい人に見つけてもらったねえ」と話しかけていた。一時的な保護ですと何度も説明したけれど、院長も看護師もみんな「どうせ清田さんちが飼うことになると思う」と言って笑っていた。

「でも、こんな特徴的な犬だし、それが浜辺をひとりでうろついてるのは不自然だし、値段的な意味でも捨てるってことは考えにくいし、脱走あたりが妥当なんじゃないか。すぐに飼い主が現れると思うよ。……親父、だから名前考えなくていいからな」

先程から何も言わずにじーっと天井を見上げていた新九郎はウッと喉をつまらせ、苦笑いを浮かべた。動物病院の院長の読みどおり、少なくとも新九郎はすっかり飼うつもりでいたようだ。彼はもはや人の子だろうが犬の子だろうが、自分の家にやって来た子供は全部「うちの子」になりつつある。

さてこの推定2ヶ月のハスキー犬のメスであるが、彼女は寿里のようにすぐに清田家に馴染み、特にに懐いてしまったので、3日ほどすると由香里あたりは「ユキの生まれ変わりなんじゃないかしら」と言い出し始めた。計算が合わない。

ペットロスは新しいペットで、とはいうものの、は依然体調不良が続いていて、一時預かりのおチビはが休むとその腹のあたりにくっついてウトウトするのが日課になっていた。

それから1ヶ月が過ぎても警察の方からはまったく連絡がなく、おチビの成長を考えると、名を与えて基本的なしつけだけでも始めないと大型犬なので後が大変なのでは……と動物病院の院長も難しい顔をし始めていた。というかおチビ本人はすっかり清田家の犬だと思っている様子。

という厳しい寒さの2月の日曜のことだった。

リビングでは新九郎がおチビの名をブツブツと考えていて、尊と子供たちが遊んでいて、由香里とウサコがキッチンで昼食の支度をしていて、頼朝とエンジュが事務所のパソコンの総入れ替えの相談をしていた。そこにリビングのドアが勢いよく開き、なんだか少々目の泳いだ信長と、顔の赤いが入ってきた。おチビが足元にまとわりつく。

「どしたの? ふたりとも」
「もしかしておチビの飼い主見つかったのか?」

1番近くにいた頼朝とエンジュがそう声を掛けると、信長は「気をつけ」の姿勢で咳払いをひとつ。

「子供、出来ました!」

一瞬の沈黙ののち、清田家は絶叫と犬の吠え声、そしておチビの遠吠えに包まれた。

「いや〜だぁがしばらく笑い転げてたね〜」

ぶーちんが17歳の時に「うっかり」妊娠してしまった時、周囲は「だぁがヘタクソだから避妊に失敗した」と散々ネタにしたものだった。本人はきちんと避妊していたと言い張っていたけれど妊娠自体は事実だったし、それは全てだぁの責任にされていた。

その後ぶーちんは1度の死産を経て長男を授かるわけだが、その時は妊娠まで数ヶ月かかった。なのでだぁは由香里の言葉を借りて「授かりもの」なのだと腕組みで唸り、しかしその時も信長は命中率の問題なんじゃないのなどとよくからかっていたし、その後もだぁをイジる鉄板ネタになっていた。

それから十数年、信長は3度目の「避妊してたのに嫁が妊娠した」で子供を授かった。それをぶーちんから聞いただぁは、泣くほど笑っていた。オレのこと言えねえじゃん!

「んじゃ具合悪かったのも妊娠してたからだったわけね」
「カズサの時もアマナの時もつわり殆どなかったから、妊娠だなんて思わなくて……
「んふふ〜も3人かあ〜清田家って感じ〜」
「うん……まさか3人目とはね……

やはりひどいというほどではないものの、は緩やかなつわりが続いているので部屋で横になって呻いていることが多くなっていた。しかし上ふたりの時と違い、今回はエンジュもウサコもいるので余裕がある。ぶーちんもヘルプではなくて単に遊びに来た。

薄っすらと膨らんできたの腹の近くには、すくすくと大きくなっているおチビ改め「ヨミ」が丸まって寝息を立てている。ヨミは新九郎ではなく、と信長の命名となった。新九郎が知る限りでは清田家初の戦国関係ないネームである。

というのも、獣医師の推測によると、どうやらヨミが生まれたのはがちょうど妊娠した頃……という可能性が高く、由香里はユキの生まれ変わり説を提唱していたが、は「ユキがお腹の子を心配して送り届けてくれた子」だと主張。そもそもふたりが助けた犬だし、新九郎を除いた全員の賛成を受けて命名権はと信長へ贈られた。

さらに、直近のエコーではどうやらの腹の子は男の子らしいことが判明、スサノオでカズサ、アマテラスでアマナ……とくればもう選択肢はひとつしか残されていない。万が一女の子だったとしてもこれならいける! ということで、早々に子供の名は「嗣己」――ツグミと決まった。元ネタは月読尊。

そこから一緒に取ったのが「ヨミ」である。それに、ヨミはの妊娠が判明する以前から、の腹のあたりを好んで陣取るので、これはきっと腹の子を守っているに違いない! とじいじも盛り上がってきた。じいじの中では細川ガラシャから取って「たま」と名付けられる予定だったらしい。

「そうそう、本当に真剣な顔でお兄ちゃんが『まさかエンジュの子じゃないよな』って」
、そういうのは遠慮なくしばいていいと思う」
「でも泣くほど笑ったよ。エンジュなんか、それがいい! とか言い出して」
「てことはこれで清田家って」
「13人と4匹」
「ほんとどこまで行くのこの家」

ぶーちんは少々目が死んでいるが、まあ今のところ子供より大人の方が多いのでそれほど負担はない。頼朝はリフォームが終わってからでよかった、とホッとしていた。

「でもどーなん、ノブびっくりしたんじゃないの」
……うん、作ろうとしてなかったから一瞬固まってたけど、でも、なんかすごく喜んでくれて」
「あら? 何? このタイミングでノロケって、どゆこと?」
「え、ノロケ!? そ、そんなつもりじゃ」
「顔赤くして何言ってんだ。あーこりゃエンジュの子なはずないわ〜! や〜だ〜!」

カズサからアマナの時は怒涛の日々だったし、信長もまだ現役選手だったし、彼は彼で目が回る思いをしながらを支えてきた。そういう意味では今回はとても余裕があるので、思わぬ妊娠だったけれど、にそれを聞かされた信長は大層喜んだ。

避妊してたはずなのに出来ちゃったみたい、と報告してきたを信長は抱き締め、またしんどい思いをさせてしまうけど嬉しい、自分も頑張るから体を大事にして無事に出産を迎えて欲しいと言ってきた。新九郎や尊の影に隠れがちだが、信長もそれはそれで子煩悩なお父さんなのである。

「なんか、こんなの10代の頃には想像できなかったな。が3番目かあ」
「ゆかりんは3人も産んで大変だなあ、私はそんなにいらないなあとか思ってたよ」
「だけど清田家にはこーいうのが似合うと思う」
「私もそう思う」

とぶーちんは言いながらくつくつと笑った。ただでさえ大家族の清田家、血縁があろうがなかろうが人は増えるばかり、それだけ手狭にもなっていくはずなのだが、誰も出ていかない。みんな仲良し! というほどベタベタもしないのだが、気楽な家ではある。

それから数ヶ月後、の腹が大きく張り出した頃のこと。やっと地元の警察署から連絡があって、ヨミの身元が判明した。やはりヨミはあの海岸近くの住人に飼われた子犬で間違いなかった。

だが、問題はそこから。ヨミを飼っていたのはひとり暮らしの男性で、彼は散歩にはまだ早いヨミを抱いてたびたび浜辺を訪れていたらしいのだが、と信長がヨミを見つけたその日に浜辺で倒れ、通行人の通報で救急搬送された。その時既にヨミは立ち去ってしまった後だったらしい。

さらに本来の飼い主はそのまま緊急手術、入院、意識が戻ってもしばらくはヨミのことを思い出せなかったという。彼がヨミのことを思い出したのは実に10日ほど経ってからのことで、慌てて親戚にそのことを頼んだのだが、もちろん海に行ってもハスキー犬がうろうろしているわけもないし、親戚も高齢だったので近所を回って迷子犬の情報を求めるポスターを貼るくらいしかしなかった。

結局彼は後遺症が残り、退院後もリハビリに励む傍ら、たまたま担当になった理学療法士にヨミのことを漏らしたところ、ポスター以前に警察や保健所には問い合わせしたのかと言われ、慌てて最寄りの警察署に連絡をしたら、当日に保護されていることが判明した。

彼はそのことに安心はしたけれど、残念ながら大型犬を飼育できる健康状態ではなかった。何しろ補助道具なしに歩けない。この連絡を受けて元の飼い主本人のところへ新九郎と信長が出向き、改めてヨミを清田家で引き取るという話をつけてきた。

かくして動物病院のスタッフの皆さんの予言どおり、ヨミは清田家の一員となった。ブラック&ホワイトでブルーの瞳の女の子だ。血統書付きで、やはりツグミを妊娠したと思われる頃の生まれだった。三柴の中では女の子同士のナオと仲良くなり、そのおかげか、ナオは快活さを取り戻していた。

一方、始めて弟が生まれるということに大興奮の日々なのはカズサである。弟が生まれるなら子犬はいらない、弟はオレの子分にすると鼻息荒く、その上自分はもう「大人」だから、ひとりの部屋でひとりで寝る練習をするのだと言い始めた。

実際これはまだまだうまくいかないわけだが、誰かが寝かしつけてしまうと大抵は朝まで寝ているケースが多く、頼朝とウサコが遠い先の話としていた「カズサのひとり部屋」が近付いてきている模様。

さて、その年の秋のこと。まるで「おつかいに行ってきまーす」とでもいう気軽さでは「病院行ってきまーす」と出かけ、そのままツグミを産み落とした。ウサコとエンジュはオロオロしていたが、由香里は「3番目なんてそんなもんよ」とケロッとしていた。

というかそのウサコとエンジュは、妊娠出産新生児――というものを初めて目の当たりにしたので余計にオロオロしていた。どちらも弟妹はなく、ウサコなど幼い子供と触れ合うのは実質カズサとアマナが初めてという有様。生まれたばかりのツグミを抱っこするのに震えていたほどだ。

だがそれを除けば清田家はもうすっかり慣れたもの。冬を迎える頃にはだいぶ落ち着きを取り戻していた。新生児がいるので来客制限がかかり、むしろ普段よりのんびり静か。

ただしはツグミにかかりきり、アマナは寿里と一緒にいれば問題ないし、カズサも問題ないが、ヨミは少々ヘソを曲げてしまった。なんかちっちゃいのにお母さんとられた。そのせいかどうか、に甘えられない彼女はしばらくするとウサコの膝に乗りたがるようになり、すっかり大きくなったヨミが重いので、ウサコはしょっちゅう足を痺れさせていた。

そんな中、清田家は冬を迎え、今年は赤ちゃんがいるから静かなお正月にしようか、と新九郎が言い出していた。クリスマスは子供たちのためにやるとしても、旅行はもちろん無理だし、例によって大勢の人を呼んでの餅つきだの新年会だのはやめておこうか、という判断だった。

カズサやアマナが生まれた時も多少控えめにしていたけれど、そういうわけでこの年の年末年始は新九郎世代の清田家始まって以来の静けさの中を過ぎ、毎年死ぬほど忙しい年越しをしてきた由香里が「やれば出来るのよ、やろうとさえ思えば……」と遠い目をしていた。

というところの、1月最後の日曜のことであった。尊とエンジュがツグミの取り合いをしていて、は由香里と新九郎とともに車の買い替えの相談をしていて、信長も在宅の時のことだった。いつぞやのように、今度は真っ赤な目をした頼朝とウサコが勢いよくリビングのドアを開けて入ってきた。

ドアの一番近くにいたのはで、顔を上げたらふたりとも明らかに泣いた目をしており、結婚以来穏やかな生活を送ってきたふたりなだけに、それを見たの方がサッと青くなった。ウサコだけならまだしも、お兄ちゃんも泣くって何があったのよ。まさか病気とかそんなんじゃ――

「えっ、ふたりともどうしたの」
「大丈夫? どうしたの、ウサコ、泣いたの?」

しかし、慌てたと由香里が立ち上がろうとしたのを頼朝は手で制して、咳払いをひとつ。

「子供、出来ました!」

そうしてまた、清田家のリビングには絶叫と泣き声と吠え声と遠吠えがこだましたのである。

END