回帰

02

キスの余韻に浸っているを抱き締めながら、公延は長く大きくため息をついた。

「はあ〜、なんか気が抜けた」
「今日、大変だったからね」
「今日だけじゃないよ、12年前からずっと気が抜けなかったんだから」

は体を離すと公延の頭を撫でた。

「もうそんなになるのかあ。急に公ちゃんの様子がおかしくなって、悲しかったよあのときは」
「オレも可哀想なことをしてるなと思ってたよ」
「あんなお父さんのたわごと、無視しちゃえばよかったのに」

公延の肩に両腕を置いて口を尖らせるは、まるでアナソフィアの真新しい制服を着ていた頃のようだ。

「あのときはまだ頭が恋愛になってなかったんだよ」
「北村中にだって可愛い子はいるんだろうなって、落ち込んだもんだよ」

正しくは妨害工作したもんだよ、というところだが、記憶は美化される。

「ってはいっつもそう言うけどな、オレ、ちょっかい出したことも出されたこともないぞ」
「そう思ってるのは公ちゃんだけかもしれないじゃん」
「そんなことないよ。だいたい、ちょっかい出されまくったのはの方じゃないか」

公延はの両頬をにゅっと引っ張る。常に嫉妬をしていたのはだが、人から異様なまでに想いを寄せられ続けてきたのもの方である。妨害のせいもあるかもしれないが、公延は特にモテたとかいう具体例がない。これについては晴子が後に「ちゃんの生霊が憑いてるんだね」と表現した。

「あっ。話の矛先を変えたな」
「なんだとう。そっちこそ籍入れる前に、全部白状しておいた方がいいぞ」

ふざけ半分で睨みあったと公延は、しかし全て話してしまうのもいいのかもしれないと思った。特にが抱えているあれやこれやは公延周辺の男たちなのだし、それに散々惑わされる羽目になったのは公延がちゃんとを繋ぎとめておかなかったからだ。

「でもなあ、何が地雷になって婚約破棄になるかわからないもん」
「ってもどうせ三井とか藤真だろうが」
「そうだけど! そんなさらっと言うな!」

12年かけて全てを乗り越えた公延は、ここまで辿り着いた安心感からか、余裕たっぷりである。

「ってあれ? 公ちゃんどこまで知ってんのよ」
「具体的には何も知らないよ。でもほら、文化祭のときになんとなく聞いたんだ」

が高校3年生のとき、後夜祭のステージに立つ見たさに様々な裏工作を働いた藤真は、三井と清田を巻き込んで本来なら入れないはずのアナソフィア文化祭に潜り込んで来た。その際に従兄弟と偽ってはいたものの、正規の手続きで文化祭に来ていた公延まで後夜祭に侵入してしまったのだ。

「アナソフィアから駅に戻って、飯食って帰ろうってことになって。あの面子でだぜ」
「そ、それは大変だったね……

を想う3人との彼氏という、中々にデンジャーな組み合わせだ。

「まあそんなにの話は出なかったけど、それでも、な」
「藤真先輩はぶっちゃけ怖かったよ。その前の年の文化祭でも見つかっちゃって」
「あの行動力はすごいよな……

一番接触が少なかったくせに、一番アグレッシヴだったのも藤真だ。

「湘北に負けた年だったでしょ。リーグ優勝もインターハイも、私も、全部公ちゃんに取られた気がしたって」

理由はそれだけではないのだろうが、それらの状況が重なり、藤真は泥沼に嵌っていった。

「あの後夜祭だってそうだよ。後輩を焚きつけて仕組んだのはあの人だからね」
「それは聞いた。あの後輩の子がまたのこと好きだったんだろ」
……ああ、そういえば」

藤真に唆されて侵入の手伝いをし、アナソフィア女子たちと後夜祭のステージに立った翔陽軽音楽部の部長はのことが好きだった。藤真が卒業した後のトップ・オブ・翔陽であったが、藤真に比べると大人しかった。侵入の片棒を担がされた挙句、に彼氏がいることを目の前で見せ付けられた悲運の人である。

「そういえばその件がどこから漏れたのか、清田が後で牧にすごく怒られたらしいな」
「漏れた、ってそんなの藤真先輩かミッチーしかいないじゃない!」
「清田はオレがいなくなった途端沸いて出てきたからなあ、心配したんだよ」

しかし、その想いとは裏腹に、一番を揺さぶることが出来なかったのは清田である。年下というだけではあるまいが、三井や藤真のようにはを苦しめられなかった。その分後になっても気楽に接することが出来たといえばそうなのだが。

「信長は、たまたま会っちゃったんだよね。またそれがインターハイ逃した直後で」
「それもなんかちらっと聞いた気がするな。藤真と同じような状況だったのか」
「しかも、その前に彼女と別れたばっかりだったとかで、タイミングが最悪のときだった」

街で偶然と遭遇した清田は、そんなつもりがないと言いつつ想いをぶつけずにはいられなかった。だが、このときは既に指輪を貰った後で、いわば最強の盾を持っていたに等しい。清田がどれだけ好きだと言っても、は揺らぎもしなかった。

「花道みたいに、友達っていうか、そんな風になれたらよかったんだけど。みんなそれは嫌だって言うんだもん」
「そりゃ仕方ないよ。みんなそれなりにお前のこと真剣に好きだったんだから」
「私は赤木くんとかリョータくんみたいになって欲しかったんだけど……流川にも嫌だって言われちゃったし」
「それが一番すごいよ……

の吸引力はよくわかっているつもりだが、流川まで引き寄せたということに公延は何より驚く。流川もまた理由もなくに惹きつけられてしまい、それを振り切るまでモヤモヤした思いを抱える羽目になった。だが、彼の場合はと特別な関係になることを望まなかった。だから振り切れたともいえる。

「でもあれは、本当に軽いというか薄いというか、気の迷いみたいなもので」
「それで済んだ精神力もすごいよな」
「結局3年までテストの面倒見ちゃったけど、表面的には友達っぽくしてくれたしね」

そういう意味では、が公延を介して知り合った高校バスケット選手たちの中でも桜木と流川はとてもいい関係のまま過ごして来られたといっていいだろう。彩子やリョータほど近付くこともなかったけれど、そのぶん尾を引かない関係でもある。

「今でも誰かと連絡取ってる?」
「その中で言えば、信長とアヤちゃんはメールとかで話すかなあ。会うのは晴子ちゃんくらいだよ」

藤真などはかなりごり押しをしてのメールアドレスを手に入れていたが、文化祭侵入事件の後はぱったりと連絡を寄越さなくなった。はこのまま自分を忘れてくれるよう祈ったものだった。

それを思い出しながら、は少し俯いて公延の肩に額を擦り付ける。

……ミッチーのこと、聞かないんだね」
「話したくないかと思って」

公延にとって、藤真や清田など三井に比べたらどうということはなかった。公延から見るとやはり遠い人間であり、清田は自分が近くにいられないことで警戒してしまったが、意地の悪い表現をするならば「相手にならない」のだった。しかし三井は違う。あまりに近く、あまりに脅威だった。

公延はの体に腕を巻きつけ、声を落とした。

「なんで三井にはあんなに嫉妬したんだろうって、今でも思うよ」
……公ちゃん、後悔しないなら、話すけど」
「はは、聞きたいようなそうでもないような、だな」

だが止めもしない。公延も、あの頃自分とと三井の間に何が起きていたのかわからないままだ。

「公ちゃんはあの頃、受験もあったし、まだお父さんとの約束もあったしで、迷うことも多かったと思う。でも、公ちゃんは私のこと彼女だってあんまり言ってくれなくて、バスケ部に構いっきりで、自信、なくしてた」

藤真や三井はそれにつけこんだとも言う。

「本当に私は公ちゃんが好きなんだろうかって、ただ習慣でそう思ってるだけじゃないのかって、そんなことばっかり考えちゃって、しかも急に他の人に好きだって言われたりして、余計怖くなって、足元がものすごく不安定だった。そんなときに、バイト先にミッチーが来たりして、送ってもらったこともあった」

は公延にしがみつく手に力を込める。過去を穿り返す必要なんてないけれど、全て話してしまって、全て洗い流してしまって、そうして元のふたりに戻りたかった。ふたりでいるのが当たり前で、家族よりも近い存在であった子供の頃のように。

……だからあの頃、ほんの少しだけ、ミッチーが好きだった」
「やっぱりそうだったんだな」
「気付いてたの?」
「今考えると。だからあんなに嫉妬したんだろうな。このままだと、全部持っていかれると思って」

しかも相手は三井だ。お互いないものねだりで羨み合っていたふたりは、を挟んで意地を張っていた。

「比べることなんか出来ないけど、それでもミッチーだけは、ちょっと違ってた。公ちゃんが存在しなかったら、絶対お前はオレのことが好きになるって、断言してた」
「あいつらしいな」
「それがもう、悔しくて腹が立って、つい泣いちゃって。それがマズかった」

はすうっと息を吸い込み、吐き出すと同時に言う。

「キス、された」

何秒かの間、も公延も身じろぎひとつしなかった。が、公延は柔らかく息を吐くと、の背中をゆっくりと擦った。そして、下を向いているの前髪にそっと唇を落とした。

……びっくりして、怖くて恥ずかしくて、何も出来なかった。だけど、それでわかった。やっぱり私は公ちゃんじゃなきゃだめだって、公ちゃんは私の全てで、それを壊されるのは耐えられなかった」

三井という安易な道に逃げることはいつでも出来た。しかしそれはあまりに痛みを伴う選択だったから。

……怒らないの」
「怒らないよ。もう過ぎたことだし、オレも悪かったから」

話してしまったことですっきりはしたが、恐々と顔を上げるの肩を公延は撫で下ろす。

「何かあったんだろうってことは、なんとなくわかってたんだ。だから、なんとかしなきゃって思って、それでプロポーズしたんだよ。間違ってなかったんだな」

少し照れくさそうな微笑で、公延は額を合わせる。

「いいんだ、どんなことがあったって。もう誰にも渡さないし、何よりオレたち家族になるんだよ」
「家族……
「付き合うだの誰が誰を好きだの、そんな程度の話じゃなくなるんだ」

優しい笑顔から一転、なぜか公延は顔を歪めて涙を零した。

「公ちゃん……!」
「なんだろうな、無性に泣けてきた」

もまた涙ぐむ。

「ごめん、みっともないよな、子供じゃあるまいし」
「そんなことないよ、公ちゃん、私たち子供の頃に戻るんだよ。朝から晩まで何もかも一緒だった頃に」
「ああ、そうだな、戻るのか。そうか、帰るんだな」
「だってそれが私たちにとっては正しい在り方なんだよ」

公延の頬の涙をの指が払い、そのの手に公延の手が重なる。一緒に泥遊びをした手がいつしかこうして重なり、男の子と女の子は少年と少女を経て、男と女になった。そう時を置かずして、今度は父と母にもなるだろう。

「公ちゃん」

よちよち歩きの頃から変わらないのは、この呼び名くらい。

公延が生れ落ちて、次いでが生まれて、そうして始まった世界の原初に帰っていくのだ。回りまわって道に迷い、もがきながらも幸せな恋をした。けれど今はもう、回帰への道を真正面から見ている。この世に産み落としてくれた親の手からも離れて、ふたりだけで帰っていく。

そしてまた世界が始まる。

END