誰かが小走りで近づいてくる。
それでもは、ぼんやりしている。愚かな自分とそれを覆すような虹の下にあっては、何が起ころうともはやどうという気も起こらない。
だから、地面にぺたりと座り込んだまま、空を眺めていた。
この先2度と空を見る事がなくなっても後悔しないように、出来るだけ鮮明にこの空の青と虹のぼやけた輪郭を脳裏に焼き付けておきたかった。
足音は座り込むのすぐそばまで近づいたと思ったら、突然音を止めた。
「……?」
条件反射で振り返ったは、珍しいものを見つけたように目を見開いて固まった。
それは、息を切らせて立ち竦むスコールの姿だった。
「スコール……!」
まるで「私服」といった出で立ちに、こんな大騒ぎの中にあっては頼りなさそうなライオンハート。から少し離れて、肩で大きく息をしている。
と同じように薄汚れて、せっかくの綺麗な顔も泥だらけだ。
「なんでここに……」
スコールがここまで赴いてきた事、その理由をは判るような気がした。だが、敢えて問わずにはいられなかった。
けれど、ようやく呼吸が落ち着いてきたスコールは返事をしない。いつもの不機嫌そうな顔をそのままにへと歩み寄り、そして、一呼吸置く。
「スコール?」
何か一言くらい言ってくれないものかと声をかけたは、次の瞬間スコールに手を取られて勢いよく立ち上がる。そして、有無を言わさず抱きすくめられてしまった。
「スコール……」
ほんの数日前までこうしてスコールの腕の中にいたのに、それがまるで幻のように今ここにある。戸惑いと、少しだけ残る違和感と、そしてスコールの息遣いには身を捩った。
どこかで感じていた、肌触りの良くない予感。現実と夢の間に溜まるもやのような、確信。どうしても、はスコールに愛されているという実感がなかった。
抱きしめられても、キスされても、愛の言葉を耳にしても、彼の涙を見ても。
判りづらいスコールの内面を差し引いても余る整い過ぎた全てはに不信感だけを与え続けてきた。涙と共に唇から受け取ったスコールの心はを愛しく思う気持ちで溢れていたはずなのに、それでも、どこかで思う。
「なんでスコールは私なんかが好きなんだろう」と。
そんな心を胸に抱いたままでスコールに抱きしめられている今、それはピークに達している筈だった。だが、スコールという人物の腕の中にいて、それは甘く美味な蜜のようにを絡め取る。
そこに聞こえる声は、夢の囁きであるはずなのに。
「無事でよかった……生きててくれて、よかった……」
まるで嘘偽りのない言葉に聞こえる。本心で、心底そう思っているように聞こえる。が羨望して止まなかった名声も実績も持っているSEEDのスコールは、まるでそんなものを持たないを想って安堵のため息を漏らしているように聞こえる。
だけどどこかでそれを疑う自分がいて、は言葉が出ない。
そして、あんなにも傷つけたスコールに今更甘えるなどという事は許されない事だとも思った。スコールがどう思っていようと、は罪を犯し未だ見ぬ誰かをも傷つけてきたかもしれないのに、ただこうしてスコールの腕に甘えてはいけないと漠然と思う。
けれど、過ぎた日にもそうだったように、その腕を振り解けない。やっとの思いでその場所から逃げ出したのに、また捕らわれてしまった事を望んでいたような気すらしてくる。
「スコール、私、あの……」
「どこも怪我ないか?大丈夫か?」
「いや、あの、そうじゃなくて……」
肩を掴まれたまま身体中を穴が開くほど見つめられてはうろたえた。そんなと同じように、スコールも動揺しているように見えたからだ。
「わ、私は大丈夫だから、あの」
「なんだ?」
見上げたスコールの目に、表情に、一点の曇りもない。まっすぐにを射抜く視線にさらされる。それを、突き放したい。そんな視線の中に溺れてしまうのが、怖い。
毎日スコールの顔くらいしか見るもののない独房の中にいて、飽きるほど眺めてきたそんな光景から、逃げたい。見つめられて触れられて、心に波が立つ自分を認めたくない。そんなものはいらないと切り捨てたい。
決して辿り付く事のないスコールの栄光に、何よりも羨望していたは、絶対に認めたくない。
例えどんなに惹かれていても、羨んでも。
スコールとは、の存在理由をいつでも薄っぺらにしてしまうもの。
なぜなら、彼は優秀で、無愛想な性格すら魅力に変えるから。
スコールがいたおかげで、名もなきSEEDはいつも影の中。
そこから差し出される手を取ってしまったら、それはの過ちを認めてしまう事。愚かな事だと認めてしまう事。自分で自分を誰よりも恥じてしまう事。とても、かっこわるいもの。
喉元に切っ先を突きつけられて罪を犯した罰だと裁かれるなら、その方がよっぽどいい。お前は悪だと罵られるなら、それも本望。
けれど、スコールの手を取り、それに甘んじてしまう事は恥ずべき事。
私は愚かです。あなたなどに敵いはしないのに、大した事も出来ないのに、この未熟な手は罪に触れてしまいました。あなたは正しい、私は間違っている。私は笑われてあたりまえの事をしました――
そう、言っているのと同じな気がして。
「は、離して!」
両手で突き飛ばしたスコールの顔を見たくなくて、は俯いた。
追わないでくれたらよかったのに、見つけてくれなければよかったのに。そんな言葉だけがの脳裏に渦巻いて、何度も通り過ぎてはまた舞い戻る。
「……、1つ聞きたい」
スコールの声が降り注いで、の腕を震わせる。どうして、まだここにいるのよ、と。早く消えてよ、どこかへ行っちゃってよ、と。
「バラムにいた時、言おうかと思って一度も言わなかったんだが……この先俺達がどうなろうとこれだけは聞いておきたい。嘘は、つかないでほしい。まだ俺達がSEEDだった頃、お前は嘘をつくような事はしなかっただろ?だから、嘘は、つかないでくれ」
もう一度の両腕はスコールに捕われる。どんなに顔を背けても、スコールはの目を覗き込む。それでも逃げ回るは、両手で頬を捕まれてしまう。
「、俺が、嫌いか?」
弾かれたようにスコールに向き直るの目の前で、スコールは瞬きすらせずにいる。例えば照れているとか、悲しそうな顔をしているとか。そんな表情がどこかに見えたなら、はいくらでも返す言葉を探す事が出来ただろう。
スコールがどう思いながらそんな事を言ったのかと勘繰りながら、どう答えればこの視線から逃げ出せるか、すぐに思いついただろう。
けれど、ただ答えを求めるだけの目に、どんな言葉を返せるというのか。
にとっての虹のように、スコールはいつだって触れたくても触れられない場所にいる人で、その影の下にいるしかできなかった事を、疎ましく思っていたのに。
それなのに、スコールはに触れて、少ない言葉をかけて、どんなにが拒絶しても手を伸ばしてきた。
スコールが英雄で、自分はそうでない事を、呪った。スコールのせいにした。だから、スコールを拒絶した。けれど、スコールはを求めて彷徨い、いつしか想いが溢れてこぼれてしまうまでを追い続けた。
スコールの下で、名もなく立ち竦むその他大勢のはずの。そして、それに気付きもしないはずのスコール。それが、まったく逆になってしまっている。
それが気持ち悪くて、居心地が悪くて、恥ずかしくて。
だから一生懸命拒絶して来たのに。
「セントラの指先」を発動して全てを失ったと思っているに残ったのは、スコールが嫌いかどうかという、単純な問いだけだった。
そこに、きれいで判りやすい言葉など、ない。
まるで深手を負って苦痛に悶えるような表情だった。
だが、は、小さくはあるが、確かに首を横に振った。
スコールが、に何をしたというのか。
例えば共に任務に赴いているのに、話を聞いてもらえなかっただとか。例えば有事に有無を言わさず救護班に割り当てられただとか。例えば偵察部隊に入れてもらえずに合流地点に取り残されただとか。
そんな事は、一度としてなかった。
どこか別の場所で、別の時間で、まったく違う2人であったなら、もっと簡単に恋が出来ただろうと思ったのは、「セントラの指先」に心を奪われていた日の事。譲れないものがあったときの事。
それを失い、失くす物ももはやなくなってしまったの目の前に、スコール。それを拒絶する理由、それが簡単に思いつくなら、今こうしてスコールに両腕を捕われたまま立ち竦んでなど、いなかった。
いつ終わるとも知れないスコールの愛を受ける資格など、ないのだとしても。
だけど言葉に出来ないから、嫌いではないと言う事の証に、小さく首を振った。
コツン、と額をスコールの胸に当てる。
疲れて、疲れ果てて、本当は立っているのですら精一杯だった事に気付く。目の前にいるスコールが甘い言葉をくれるから、寄りかかりたい。は、そこにスコールがいるという事の他には、あとはもう何も考えられなかった。
くずおれるの身体を抱きとめるようにして、スコールは膝をつく。セントラの乾いた大地が無機質な音を立てて2人の膝を受け止める。
腕をだらりと下げたをそっと抱え込んでスコールは大きく息を吐く。
「……、俺と一緒に、帰ろう?」
どこへ、等と無粋な事は聞かずともよい事。2人がどこへ行くのだとしても絶対に安全が保障されている所などありはしない。それでも、こんな寂れた所を後にしてしまいたい。
「……どこでもいいから、連れてって。スコール、お願い……!」
一連の事件を引き起こした、そして、SEED軍などというものを作っておきながら1人私情で姿を消した指揮官スコール。
2人は、どこの国のどんな場所に行っても、引き裂かれる事なく安全に生きていける所などこの星の上にはないと思っている。庇ってくれる大人はいるかもしれない。だけど、そんな風にして誰かに頼って甘えられるのなら、2人ともこんな場所で身を寄せ合ったりはしなかった。
吹き抜ける風に行く末を任せてしまえば、それでいいと思っている。
はスコールに寄りかかって、スコールはを抱きとめる。それが、精一杯。
力なくセントラの大地に座り込む2人の頭上にエスタエアフォースの小型機が飛来した時、スコールはを強く抱き締めて呟いた。
「、もう、何にも考えなくていいからな。お前の好きなようになんだってしていいからな。そのほかの……面倒くさい事は全部、俺が始末するから。お前は何にも心配しなくていいから」
は返事をしない。返事をしない代わりに、スコールの背中に手を回してギュッと締め付ける。過ぎた日に、スコールがそうしたように。
2人のすぐ近くに着陸した小型機は、立ち込める霧と土埃を舞い上げては襲い掛かる。そしてその小型機から真っ先に降り立ったのは、おおよそ軍事用の機体には似つかわしくない、細身の女性だった。
そして小型機の方など見ようともしない2人のもとに歩み寄ると、これまたこんな殺伐とした場所には似合いもしない優しい声をかける。
「スコール、、無事だったのですね 」
それは誰であろう、かつての魔女イデア。
「ママ先生!?」
「心配したんですよ……!」
いつでも優しく、柔和で、心も身体も曲線だけで出来ているようなイデア。しかし彼女の表情は険しかった。形の整ったゆるやかなカーブの眉を眉間で崩し、常に美しい微笑をたたえた唇は真一文字に結ばれている。
「あななたちはもう幼い子供ではありません。私などが近くにいなくても自分で考えて自分で行動できる大人です。だけど、わかっていますか?あなたたちが傷ついたりすれば、私はその何倍も悲しむ事を……私と同じように痛むほどの悲しみを抱く人が大勢いる事を……!あなたはわかっていますか!?」
そしてイデアは、瞳に涙を目一杯溜めてスコールの頬をパチンと叩いた。
「そして、あなたも」
の頬にも細い指と薄い手のひらが触れる。とても激痛を伴うような平手打ちではないけれど、年を重ねてなお怪しいまでの美しさを保つイデアの涙はそんなものより何倍も痛々しかった。
「あななたちには、もうこんな悲しい事はして欲しくないの……!」
そんなイデアを前にして、何も言えない2人。こぼれてしまった涙を真っ白な指先で掬い取るイデア。その後ろからバタバタと足音を立てて数人の男が走り寄って来ていたけれど、もスコールもイデアも、気付かなかった。
「おわ!?イデアさんなんでここに!」
悲壮な面持ちで佇む3人に駆け寄り素っ頓狂な声を上げたのは、ここにいないはずの、ラグナ大統領だった。
「ってスコール! お前、来てたのか!?」
「……ああ。悪かったな」
「別に悪くないだろ!そんな風に言うなよ」
「アンタには関係ないだろ」
イデアには従順だったスコールは、ラグナには刺々しくあたった。それをすぐ横で見ていたイデアはまた少し眉を歪め、はそんなスコールの腕にすがりながらどうしていいか判らずに黙り込んでいた。
だが、次の瞬間、スコールはの傍らを消え去り、仰向けに倒れた。
ラグナはしゃがみこんでいたスコールめがけて勢いよく殴りかかったのだ。だいぶ衰えの出てきたラグナではあるが、ふいをつかれたスコールは頬にまともに食らって弾け飛んだ。
「関係ないだと!?お前、本気で言ってんのかよ、それ!ああ、確かに俺はお前が生まれた時も初めて歩いた時もそばにはいなかった、お前が生まれて初めて口にした言葉もしらねえよ!けどな、それでも俺はお前の親なんだよ!心配して何が悪いんだよ!関係ないなんて、そんな事あるわけないじゃないか!
お前、エルに見せてもらったんだろ……?俺たちのそばにいて、見てたんだろ、レインを!そんな事言ったらレインが泣くだろ!?俺はお前の立派なお父さんじゃないかもしれねぇけどな、レインを悲しませるような事、言うなよ!
立派じゃなくたってな、今はもうお墓ん中にいたってな、俺とレインはお前の親なんだよ!それがお前の事思って心配して、それがなんで『関係ない』になっちまうんだよ!お前が何をしようと俺は何も言わないよ、俺だって好きなようにやって来ちまったからな。けどな、そりゃお前が元気で毎日やってられればの話だ!そうじゃなかったらめちゃくちゃ心配すんだよ!親ってのは!」
ラグナは地団駄を踏みながら大声でまくし立てた。ラグナとスコールのどうしても埋められなかった17年間。それは戻る事のない失った時ではあるが、その空白が未来にまで持ち越されるわけではない。傍でその様子を眺めていたは、2人の間にある境界線のようなもの、それを感じていた。スコールは、誰かを思ってもその気持ちの向こうへ行く術が判らないと言っていた。その原因が彼の17年間にあるのなら、それはほんの少しだけ消化されたのではないかと思いながら。
そして、判らないままに心をぶつけて来たスコールを拒絶するだけだった自分の中にある境界線が取り払われていく事も。人を羨み歩み寄ろうとしなかった自分とスコールが重なっていく。
同じ、だった。スコールもも。猜疑心と嫉妬で混濁していく現実を自分の都合のいいように捻じ曲げる事すら厭わなかったこれまで。それら全て、誰かが本気で声をかけてくれたのなら、それを素直に聞く事が出来たのなら、一瞬のうちに消え去るものだったのに。
ラグナの怒号に戸惑うスコールの肩を、はそっと抱き締めた。寂しくて、自分という存在の意味がわからなくて、だけど誰も心に響くような言葉は言ってくれなくて。それを指をくわえて待つだけだった辛さを、彼女はよく判っている。
それでもイデアの涙が、ラグナの叫びが、の心をも暖めた。
「スコール、行こう、今度は間違えないように、なくさないように……私はそばにいるから……。大丈夫だよ、私、もう疑ったり、羨ましがったり、しないから」
の腕と、スコールの腕を両手で取ってラグナは引き上げる。そして、2人まとめて強く抱き締めた。いい年をした大人で、大統領であるはずの彼はまだ大人という人種に差し掛かったばかりの2人を抱き締めて、大声で泣きじゃくった。
それにつられるように泣き出したと、それを見て頭を垂れるスコール。その横に佇むイデアは、その時初めて笑顔を見せた。頬に伝う涙を細い指で拭いながら、それでもにこやかに笑った。
泣きじゃくる大統領と、スコールと、そしてイデアを迎え入れた小型機の中にはキロスとウォードの姿。そして、遠目に事の成り行きを見ていた涙目のシド。
飛び立った小型機の中で、鼻水を垂らしながらラグナは喋り倒した。エスタにいるはずの自分がここにいる理由を、2人を見つけるまでの全てを。泣き笑いの大統領は、イデアに差し出されたハンカチを握り締めながら、喋りつづけた。
それを見つめるスコールの目に、口元に、ほんの少しの笑顔。それを見つけたは、スコールの手を強く握り締めて、もう一度、泣いた。
ただ言葉もなく、愛しさで一杯になりながら。