砂を踏みしめる音、そして何かを引っかくような音。
それは徐々にの背後へと忍び寄って来た。あまり早い歩調ではないが、それでも確実にに近づいて来ている。
は、振り返ってその音の主を確かめる気すらなかった。それがどこの国の兵士であろうと、大差ないように思えたからだ。捕まればどうせいずれはガルバディアに連行されてしまうだろうし、そうでなくともあの「セントラの指先」についてもっと知っている事はないのかと尋問されるのが落ちだ。
ぼんやりしている間にの周囲で何やら騒ぎが起こっていたようだが、もう、助けとなるものは残っていないだろう。そもそも、ここまで人を裏切り続けて来たに救いの手を差し伸べる者がいるのだろうか。
それは、雨に打たれ虹を見つけてすっかり覚めてしまったの頭にはとても合理的な予想であり、それを覆す展開などというものはまったくもって荒唐無稽なものだと思えた。
だから、地面にぺたりと座り込んだまま、空を眺めていた。
この先2度と空を見る事がなくなっても後悔しないように、出来るだけ鮮明にこの空の青と虹のぼやけた輪郭を脳裏に焼き付けておきたかった。
足音は座り込むのすぐそばまで近づいて、の予想に反してその場を通り過ぎてしまった。そして、音はぴたりと止む。
「……?」
せっかくターゲットがここにいるというのに、どこぞの国の兵隊さんは何をしているのかと横を向いたの目に、飛び込んできたもの。
「よう」
それは、と同じように地面に座り込むサイファーの姿だった。
「よ、ようって、アンタ、ここでなにを……」
「いや、オレもよく判んねぇ」
「は!? 判んないって、じゃ、何でこんな所に来たのよ」
「何だろな、なんか空見てたらどうでもよくなっちまった」
先ほどまでがそうしていたようにサイファーは空を見上げている。懐かしいクロスソードを抱いた腕はあちこち避けかかっていて、漆黒のハイペリオンは泥まみれだ。
「お前、本当に虹、架けちまったなあ……」
「な、なによ」
突然現れて雑談のようにぼそぼそ話すサイファーに、は少なからず動揺していた。だいたい、サイファーに会う事すらかなり久し振りであり、それはプロポーズされた途端逃げて以来なのだ。
「そう言ってたじゃねえか。虹を作る人になりたかったって」
「いや、そうだけど、あのね……」
「俺はそれしか知らねえよ。あのデケぇ何だかも知ったこっちゃねえ」
だから、何だと言うのだ。
エスタで再会した時のようにガーデン時代を忘れるほど穏やかで、それでいて何も考えていないんじゃないかと思えるほど掴めなくて。はちょっとだけイラついた。
「で? どうすんのよ。こんな所にいたらその内捕まると思うけど」
「お前だって逃げてねぇだろうが」
「……私はいい。早く逃げたら?」
はもう、何かに抗う気分にはなれなかった。捕まるならそれでいい。ここに取り残されて誰にも見つからないならこのまま朽ち果ててもいい。そう思っていた。
けれど、それはの選択であって、他の誰のものでもない。むしろ、また人を巻き込んで騒ぎになるのはいやだった。
「お前、物覚え悪いだろ」
「な……」
1人しんみりとしているの横でサイファーはカラカラと笑った。
「俺は雨でも雪でも槍でもそばにいるって言わなかったか?」
それは、2人がまだのんびりと手をつないでいた頃のちょっとした言葉。サイファーはそんな事ですら、本気だったのだ。むしろ彼にとってはいつでも何であろうと本気で、興味のない事ならはなから鼻にもかけはしない。
「まあ……その後の、なんだ、アレはなかった事にしてもいい。俺も舞い上がってたしな。よくよく考えたらそんな年でもねぇし。自信もねえ」
の目の前に、あの日みたような曇り空とどこまでも続く砂浜が現れては消えて行く。互いに手を取り合って笑ったあの頃の景色は、まるで遠い遠い昔の思い出のようだ。
「だから、お前が捕まってどっか行くんなら、俺も一緒に行くよ」
「何言って……私が何をしたと……」
にとっては軽率すぎる発言だった。
だが、やっぱりサイファーは本気なのだ。
「お前が捕まって死刑になるなら、そん時もそばにいるっつってんだよ」
照れた様子も、ためらう様子もない。そう決めているのだから口出しするな、といういつものサイファー節に他ならない言葉に、の反論の余地はない。サイファーはそう決めたのならそれは誓いにも等しい。
「な、なによ、私はもうアンタとは……」
「あー、別に好きでなくても構わねえ。俺がそうしたいだけだからな」
「何よそれ!」
飄々と手など翻して見せるサイファーに、は声を上げた。それと同時に、手に掴んだ泥も投げつけた。突然現れて言いたい放題のサイファーにそれまでの鬱憤が一気に炸裂したようだった。
「勝手に決めないでよ! 私がどうだとしても俺は好きにするからなんて、どうしてそんな勝手な事が言えるのよ! 私がどんな思いでここにいるのかも知らないくせに!あんたなんか……あんたなんか!」
「あんたなんか、大っ嫌い、か?」
投げつけられた泥を払いながらサイファーはに向かって微笑んだ。まるでの怒鳴り声など響かない様子で、さらりと。
「あのな、お前忘れてるだろ。いきなりいなくなったのはそっちだろうが」
「そうだけど……だからって……」
「あーもうゴチャゴチャうるせぇな。勝手はお互い様だろよ?」
サイファーは指についた泥を弾きながらまだ笑っている。突然姿を消した事に対して罵声を浴びせられるならどれだけよかっただろうとは思うが、サイファーはそんなつもりは微塵もないようだ。
「だいたいあの状況でプッツリいなくなりやがって、それで時間が経ったからハイお終い、なんてので俺が納得するとでも思ってんのかよ?」
動じないサイファーにたじろぐは、その不動の意思から退くように立ち上がり一歩下がった。そのを追って立ち上がったサイファーが手を掴む。
「俺はラグナ大統領と話してお前が共和軍にいるから一緒になれねぇかもしれんつーから……でも大統領はそんな風にならないように一緒に話そうって……だからティンバーまでお前を迎えに行ったのに……」
の手首を掴むサイファーの大きな手は、彼の全てと比べてあまりにも頼りない力で、その表情ですらかつての尊大な態度よりも遥かに弱々しかった。
「サイファー……」
「俺は何にもいらねえよ……けど、頼む、俺からお前を奪わないでくれ」
には、とても勝手な言い分に聞こえる。私はアンタのものじゃない、と反論したくなる。それでもそんな言葉を吐き出せなかったのは、いつでも自信たっぷりのサイファーが情けないほどに悲痛な顔をしていたから。
「俺はなんにも知らねぇんだよ!ティンバーにいたお前しか……知らねぇんだ!」
そして、ハイペリオンを拾い上げると、力任せに横に放り投げた。
弧を描いて宙を舞い、セントラの乾いた大地に突き刺さるハイペリオンはまるで、2人の墓標のようだった。名も無い、言葉も無い、ただ黒く光っているだけの、物言わぬ墓標のようだった。
「こんなもん、振り上げないって、もう2度とこんなものには頼らねぇって思ってたんだ。お前と一緒にいられるんなら、そんなもんなくたっていいって、そう思ってた。そうするつもりだった。
けど、お前が黙っていなくなって、俺の知らない事でモメてて、それでも俺は蚊帳の外だったんだ!だからまた振り上げたんだ!
何が気に食わない?何がお前をそうさせたんだよ?どうしてこんなところで泥だらけになってんだよ?
一言くらい、言えばいいじゃねえか!
お前がそうしろってんなら、俺は何でも壊してやるよ!
ガーデンでも、バラムでも、エスタでも!全部粉々に砕いて始めっからそんなものなかったみたいにバラバラに壊してやるよ!どんな人間だろうと、全部アイツを突き立てて息の根を止めてやるよ!
そういう俺の覚悟……お前、知らねぇじゃねぇか!」
は、知らなかった。聞いていないのだから知らないのは当然だが、そんな事を聞く余地も与えなかったのはに他ならない。だが、だって知っていたはずなのだ。いくらエスタで穏やかに過ごしていたからといって、サイファーの気性が荒い事、そのくらいはだって。
そのサイファーが真剣に何かに向き合ったのだとして、そこには決して惰性だとか、妥協などという言葉があろうはずもない事を、知っていたはずなのに。
「セントラの指先」を掴んで走り出した時に、それを疑ったのは、だという事を。わかっていたつもりのサイファーという人物を、知らなかったというその事実を。それを「自信」に出来なかったのは自身だった。
「……もう一度聞く。お前、俺の事、好きか?」
は、それを、反芻する。
サイファーの事を、嫌いだろうか?サイファーの事はもう何とも思っていないのだろうか?あの時、何も言わずに消えたのはサイファーが原因だったからだろうか?サイファーは、自分にとって、いらない人間だろうか?
それら全て、そうだと即答できるなら、今こうして、掴まれた手を振り解けないのは、どうしてだろう。今にも涙が溢れ出しそうなのは、どうしてだろう。大声で叫んでしまいそうなのは、どうしてだろう。
嫌いだなんて、思った事が、あっただろうか。
だけど。
「私は、汚い、から……!」
土埃にみまれて、おまけに水を被って泥だらけで、バラムを出て以来風呂にも入ってない。そんなところも汚い。何人もの優しい人たちを自分の都合のいいようにに使って、大勢の人が傷つくかもしれないのに、「セントラの指先」を発動させた、汚い女。
「だから、私は!」
いまさらサイファーの腕に飛び込んでいい女じゃないと、は言えなかった。そんな思いを抱えたを、サイファーは強引に抱き締めた。
「お前が汚いってんなら、俺だって似たようなモンだろ……」
身体がきしむほど強く抱き締められて、の背中が音を立てる。サイファーの指に絡む髪がさらりと音を立てて砂を落とす。
「汚くていいから、ここに、俺の傍にいろ、」
それが、サイファーの決意なら。それで、いいというのが本心なら。どうしても自分の傍にいて欲しいと言うなら。サイファーの心が作り物だったとしても、甘い夢が見たい。暗いだけの未来なら、落ちている灯りでも手を伸ばしたい。
という1人の人間が、そこに存在してもいいのなら。
「もう、全部嘘でもいい……だけど、そばにいて、お願い……!」
サイファーは、返事の代わりにの頭を撫でる。まるで、そんな事始めから判っていたというように。
その2人忍び寄る、微かな足音。
エスタの者以外であれば、最悪の場合2人の未来はここで途切れるかもしれない。今ここではなかったとしても、そう遠くない未来には、確実にそうなっているかもしれない。
「……誰か来るね」
「ああ、そうみたいだな」
背中に回されたサイファーの腕が、しっかりとを包む。
「」
そっと名を呼ばれ、柔らかく触れる唇は、その温度と共に、互いを溶かす。
最後の言葉の代わりに。
「おわっ!すすすまねぇ!!」
しかし、最後かもしれないと合わせた唇の余韻を砕いたのは、とてもうろたえた男の声。儚く美しいはずの2人のキスシーンに驚き、霧の中から出てくるなり飛び退ったのは――
「大統領!!」
相変わらずのオーバーリアクションでラグナ大統領はそろそろと2人に近づいた。いい年して若者のラブシーン1つで足がつりそうになっている。
「いや~、しかし見つけられてよかった!」
「大統領、なぜここに……ここにいては……」
「ああ、へーきへーき。オダインのじーさんがよ!」
ラグナの話に寄れば、オダインが数年前から夢中になっているヒューマン・フォーミングの技術が実用可能な段階にまで達したという事のようだった。ロボットと違い、中身以外人間のそれと全く同じもので外側をくるむもので、触ったり叩いたりしたくらいでは本物の人間かどうかの判別は難しい。
そして表面がラグナと同じなら、中身は機械でなくてもいいわけだ。
キロスはオダインに脅しに近い圧力をかけ完成を急がせた。そして、あらかじめ訓練させていたラグナより少しだけサイズの小さな部下をヒューマン・フォーミングしてしまったという事らしい。
後は声さえ変えられれば瓜二つのラグナコピーの完成だ。エスタでラグナを監視しているガルバディアの大使は、気付きもしないだろう。影武者の口の中に潜む小型の変声機に。
「そうか、君がちゃんか!初めまして!オレ、ラグナ!」
「あ、は、初めまして……」
「いなくなったって聞いた時は心配したんだぜー!無事でよかった!」
これまでにも初対面の若者を大混乱に陥れて来たラグナの第一印象と自己紹介だが、それはも例外ではなかった。話に聞く「サイファーの憧れの」大統領であり、あのスコールの父親だという、少々砕けすぎな大統領閣下は嬉しそうに頬を緩ませた。
「色々……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「んなのいーっていーって!若い時は暴れるもんだぜ」
「大統領……」
「それよかよ、あんまりここでのんびりしてられないぜ」
辺りをキョロキョロと見渡したラグナは腕を組んで少しだけふんぞり返った。
「ちゃんがどうしたいかは後でちゃんと聞くからさ、ひとまずエスタ行かないか?安全だし、なんならしばらくいてもいいんだぜ!後の事、ちゃんと考えようぜ。オレ、大した事は出来ねぇけど、いくらでも力になるから!」
そう言う大統領に、は頷く。そして、サイファーの手をしっかり握り締めて、まっすぐ前を見て、言った。
「よろしくお願いします。……それと、ごめんな、さい」
ラグナが呼んだ小型輸送艇が虹の下を潜り抜けて、達の頭上から影を作る。滑走路を必要としないエスタの輸送艇は風を巻き起こしながら着陸すると、勢いよく開いた扉に3人を吸い込んだ。
機内にはキロスとウォードの姿も。
初対面でありながら、が無事であった事に手放しで喜ぶ大人達。
それを見て、は大声で泣いた。
ぎゅっと抱きしめてくれるサイファーの腕にすがって、泣いた。
虹を通り過ぎて、空の果てへと消えて行くまで、ずっと。
小型輸送艇の影がセントラの大地を滑るように移動する。やがて高度を上げた輸送艇と共に、引き上げられるようにして影はしぼんでいく。
徐々にではあるが、風に絡め取られて薄らいでいく霧を突き抜けて朝の光が降り注ぐ。「セントラの指先」のおかげですっかり水浸しになってしまった大地を、その尽きる事がないような熱で乾かして行く。
輸送艇の影などなくなってしまったその大地に、与えられた恵みを空へ返す大地に、それでもなお影を落とす墓標がある。
サイファーと、2人がこれからどんな道を歩もうとも、以前にようになどなれない事への鎮魂歌のように佇む墓標。
がそばにいてくれるのなら、手放す事も厭わないと放り投げたハイペリオン。それを失う事でと共に生きる証としたハイペリオン。
ただ風が吹き抜ける大地の上、漆黒の闇を誇ったまま物言わぬハイペリオンは誰の目にも止まる事なくそこにある。
サイファーとの残した思いだけを留めたままで。