それを罪と言うのなら

BARAMB GARDEN SECRET FILE : CODE 020 / 朝陽

香ばしくてほんのり甘い、パンの柔らかな匂い。

が手早く並べた白い皿の上には様々な形のパンがいくつも並んでいる。ゼルと同居するようになってからは朝食の席にパンを欠かした事が無い。だって嫌いじゃないし、近所のパン屋の商品はどれも格別に美味しかった。

そして、毎朝2人でボサボサの頭のままパンにかじりつく。ゼルは巨大なグラスに一杯のミルクと共に。はミルクをたっぷり入れたコーヒーと共に。

「ふあー、ねみ……
「しつこく粘るからいけないんでしょー。17連敗くん」

昨夜カードゲーム――TripleThirdに興じたらしい2人はまだ開ききっていない目でお互いを睨み付けた。どうやらゼルはに勝てないままだったようだ。

「っせーな、プラスとかセイムとか……特殊ルール苦手なんだよ」
「そんなんでよく私と対戦しようと思うよね」
「ベーシックルールなら負けねえっつってんだろ」

はかじりかけのパンを手に持ったまま、ニタニタと笑っていた。そのちょうど正面でゼルは苦虫を噛み潰したような顔をしている。昨日の負け分で、勝敗の為に賭ける駄菓子がなくなってしまっているのだ。

「私さ、あの毒々しい着色料の飴、イヤだな」
「なんだよお前こそあの虫歯になりそうなチョコやめろよ」
「どっちにしろ買ってこないとねぇ」

とゼルが同居しはじめて1ヵ月近くが経過しようとしていた。

その毎日は実に穏やかで、平穏そのもの。1ヵ月というと忙しく過ごしていればあっという間で、もう1ヵ月が経つのかと驚く事もある時間であるだろう。しかし、2人には毎日の1分1秒が地に足のついた存在感のあるものであり、過ぎ去った毎日はちゃんと意味のある1日1日であり……

1時間足りとも無駄にした時間は無かった。

「そーいえばよ、今度道場が増えるんだ」
「へぇ。そっちも面倒見るの?」
「おお。たかだか軍の養成所だけどよ、師範代ってカンジか?」
「ゼルのくせにー」

小さい身体をふんぞり返させてゼルは腕を組む。その様子はテストで100点を取った子供のようで、は思わず頬を緩ませる。

「道場自体は出来てるし、そうだな……週末位には開くかもな」
「じゃー、お祝いしようよお祝い!」
「おっ!それいいな!やろうぜやろうぜ!」
「じゃ、ゼルは買出し担当ね」
「またかよ!」

は笑っていた。ゼルも笑っていた。これ以上愉快な事などないという程に、2人は笑っていた。「セントラの指先」などまるで始めから知りもせず、存在しなかったかのように、優しい毎日。

そして、これからも確実にやって来る明日とその先の未来など、これっぽっちも考えていないように、ただ毎日を。

ドール陸軍兵士養成格闘技第2道場はゼルの予想したとおり、週末にはその門を開く事になった。第1道場と広さも大差なく、新設されたわけでもなく、元々は工場だった建物を改築したに過ぎない道場は、やや薄汚れた印象が無いでもなかった。表に掲げられた真新しい看板の文字がくっきりと浮かんでいる。

設備が新しくなったわけでもない道場に、それでも新米兵士達は喜んで足を踏み入れた。ただ床だけは真新しい板で敷き詰められており、ゼルも裸足で踏みしめた床にちょっとした達成感を感じていた。

取り立てて優秀でもない一介のSEEDであるゼルが、今や2つの道場を束ねる教官になっている事はきっと同期のSEEDからしたらちょっとしたニュースにもなる事だろう。

ただそれはこのドールという歴史は古くもこじんまりとした場所であるからゆえでもある。国力に比例した軍制度を持つ国であれば、ゼルがいくら格闘技に精通していようともこうはいかなかっただろう。

新しい道場で祝宴ムードの中、勤務が明けてから祝杯を上げようじゃないかと誘う同僚の誘いをゼルは断った。当然のように教え子達からブーイングが出るが、ゼルはに課せられた買い物任務を果たして早々に帰宅する事の方が重要だった。

「教官、付き合い悪いっすよ」
「別に仕事じゃねえんだから、いいだろ」
「そりゃそうっすけど……
「じゃーな。飲みすぎて明日遅刻すんなよ」

面白くないといった表情の生徒達を背後に残して、ゼルは商店街へと急ぐ。に頼まれた買い物リストをポケットから取り出して、買い残しがないようにブツブツと繰り返す。

との「お祝い」なんて、別に当日でなくても構わない。職場の付き合いも仕事の内だから、それを優先した方がいいという見方が出来なくもない。

けれど、ゼルは職場の付き合いなんかより、との「お祝い」がしたかった。

本人もおそらく気付いてはいなかっただろうが、ゼルには確実に変化が襲い掛かってきていた。変化が起こる前ならゼルにしろにしろ、それは望ましいものでは決してなかったはずなのだが、安易に始めた同居生活はゼルに「家で待っている人」を与えてしまった。

それはサイファーの激しい思いやニーダの深い思いとは全く違うものである事は確かだけれど、仏心から受け入れたは、彼を取り込んでしまった。

朝、目覚めればそこにいて、帰宅してドアを開ければそこにいるに、取り込まれたのはゼルの方。がいいとか、じゃなきゃ駄目だとか、そんな心の陽性反応はない。

もう、そこにいて当たり前になってしまったものを、失えない。

失いたくないものは、手に入れて自分のものにしてしまわなければ安心できない。無くしてしまったら困るものを、目の届かないところには置きたくない。いつまでもそこに存在している事を望み、また、そうならないためには自分で何かをしなければ。

それを、恋と言うか愛と言うか。

その判断は、きっと誰にも出来ない。

「ただいまー」
「おっ!早かったじゃん!」
「今日は買い残しないからな」
「さーてそれはどうかな」

片手にフライパンを掴んだまま顔を出したは、買い物袋の中身を覗き込んだ。指先で突付きながら確認するその目は、買い残しの1つでもあったら即座に突っ込んでやろうと意気込んでいた。

「すごいじゃん、今日パーフェクト!」
「オレだってやりゃあできんだよ」

まるで出来の悪い子供をからかうような。まるで母親のように自分を褒めてくれる。そんな人が、常に家の中にいてくれるとしたら。そんな毎日が少なくとも手に入れられるのであれば。

「オレだってがんばってんだからな」

そう、努力なら、ゼルの得意とするところ。

「さて、では、ゼルのちょっとだけ偉くなりましたにカンパーイ!」
「なんか納得行かねえけどカンパーイ!」

の心づくしの食卓は、いつでも暖かい。作り置きの冷たい食感などどこにもなくて、ふわふわと宙に舞う湯気が頬に潤いを、そして突っ張る心をも緩ませる。その湯気の向こうには、。早く一口食べて感想を言わないかと待っている

ゼルは、漠然と思う。

……こんな感じの夫婦って、いるだろ。そこらじゅうに。

たぶん自分が一番愛されていなくても構わない。心のどこかにもっと強い想いを持つ相手がいてもいい。子供が生まれたらそれが一番になってしまっても構わない。きっと自分もそうなるような気がする。

バラムにいる両親だってきっとを気に入るはずだ。いや、気に入らなくてもそれはそれでいい。孫が生まれたら変わるかもしれない。けど、それもなるようになるさ。

とにかく、はオレが住んでる家に住んでくれればそれでいい。

オレが働いて、それでが辛くないようにしてやるから、お前はそこにいてくれたらそれでいいから。なんでもない、どこにでもいるような家族になってくれたらそれでいいから。

だから、ここにいろよ。

たまにしか口にしない酒も手伝って、2人の祝宴は夜が更けるまで延々と続いた。ガーデン時代の話も飛び出して、腹を抱えて笑った。久しく会っていない友人の失敗談、先生の面白い噂、そして自分達の仕出かしたろくでもないあれこれ。

そしてやがて食卓が寂しくなってくる頃。時計は声を潜めなければいけない時間になっていた。は少しずつ食器を引き上げて行く。ゼルも手伝って汚れた食器はキッチンへと消えて行く。

お皿割りそうだから触らないで、とはゼルに食器洗いをさせない。だからゼルは大人しく座って待っている。そんな時間の使い方も、ゼルを取り込んでいく。

「あーあ、すっかり遅くなっちゃったねえ」
「カードは明日に持ち越しにしてやるよ」
「そりゃ私の台詞じゃないの?」

は先にシャワー使うね、とキッチンを後にする。ただそれを見送りながら黙っていても決まりが悪いゼルはそそさくと自室へ帰る。

思わず身を投げ出したベッドのスプリングに抱き締められて、ゼルはぼんやりと思う。

もう、いいよな。

翌朝、惜しみなく注ぐ陽の光が窓を突き破ってゼルの頬に当たる。昨夜夜更かししたおかげでちょっとだけだるさがあるが、ゼルは気合で跳ね起きた。

ここ数週間で当たり前になってしまった朝の風景を思って、ゼルはベッドに座ったまま止まる。ドアをあけてキッチンへ行くと、自分と同じようにボサボサの頭をしたが「おはよ~」と間延びした声で言う。2人ともやや不機嫌そうな、ちゃんと開いていない目で朝食に手を出す。適当な事を話して、遠慮会釈もなく勝手に支度を始め、そしてそれぞれの1日を始めてゆく。

明日、目覚めた時に、その光景が繰り返されないとしたら。

明日、目覚めた時に、その光景が繰り返されるのであれば。

これから死ぬまでずっと、毎朝同じであって欲しい。

まぶしい朝日に目を細めて、ゼルは部屋のドアを開けた。

「おはよう」