ノエル

03

その後、千葉さんが契約を延長しなかったので、西村も一緒にプロジェクト「Noel」を離れることになった。仲良くしてくれたスタッフ伝手に、容易に手が届きそうなイケメンローディーの西村くんがいなくなって大変だったんだよと聞かされたのは、翌年のことだ。

西村を気遣ったわけではないが、千葉さんは長いツアーに出ることが少なくなり、そのおかげで西村は久しぶりに自分でバンドを組んでみたりして、また生活が一変した。彼女とも続いていたし、弟は大手ゲームメーカーに就職が決まったしで、西村の身辺はいつになく穏やかだった。

それから数年、26歳になった西村は、今度はプレイヤーとしてプロジェクト「Noel」のようなチームに参加することになった。ただし、今度のメインは男。世界各国5カ国ぐらい混じっているという24歳のモデル出身のシンガーで、その上混じっている5ヶ国語全部を話せるというスペックだったが、中高の6年間は日本で運動部に所属していたらしく、男臭い人物であった。

これまた事務所の目論見で、サポートは同世代の顔がいいのばかり集められた。その中にかつての仲間であるベースの北島を見つけた時は、また水を吹き出すかと思った。だが、どこを見ても男だらけのプロジェクトで、「Noel」に苦い記憶しかない西村にはとてもよい環境だと思えた。

その傍ら、例の彼女とは、彼女の就職をきっかけに別れたり寄りを戻したりを繰り返していて、その間に数人の女の子と関係を持った西村だったが、そのたびに木暮との顔が浮かんで、自己嫌悪に陥っていた。

そんな時期を経て、長く関われそうな仕事にありついた西村は一念発起、だらだらと続いている女関係を全て断ち切り、寄りを戻してかけていた彼女にプロポーズした。のだが、ここからが大変だった。彼女の家族が西村の職業が不安定だとして大反対、終いには母子家庭育ちなどと西村の家族まで攻撃し始めた。

とはいえ今更転職というわけにもいかないので、西村と彼女は頭を抱えた。それが一瞬で片付くことになったのはプロポーズから2ヶ月後のことだった。たまたま土曜にオフだった西村は、彼女も一緒に、と弟に呼び出された。指定された真昼間から暗いカフェに到着すると、なんと父親が待ち構えていた。

何の用だとぽかんとしている西村をよそに、父親と弟はふたりを引っ張って彼女の実家に向かった。都内から車で片道3時間の地方都市の、ごくごく一般的な家庭のお宅の前に横付けされたジャガーとアストンマーチンがもう異世界の様相を呈している。どちらも父親の持ち物だ。

そこから出てくるスーツにロングヘアにサングラスの父親はもちろん堅気の人間には見えない。弟もこれはこれで一部上場企業のクリエイターである。普段着で来てしまった西村とその彼女はもう成す術がない。

突然現れた有名人に彼女の家族は息も止まらんばかりに驚き、居間のド真ん中にどかりと座る父親に萎縮して小さくなってしまった。そこで父親はおもむろにもったいをつけてサングラスを外すと、両手をついて深々と頭を下げた。これには彼女も驚いて口をパクパクさせた。

いわく、音楽家としての自分を優先したばかりに母子家庭育ちになった息子ふたりだが、こんな父親の血を引いてるというのに至極まっとうに育っている。仕事が不安定なのは事実だが、自分はもう新たに家族を持つ気はないし、兄弟もいないから、将来的に自分の資産はこのふたりの息子に受け継がれることになると言った。

彼女のご両親が表のジャガーとアストンマーチンを見ているので、弟が著作権というものを説明してやる。父親はソロアーティストで作詞作曲編曲も手がけているので、もしその権利の全てを受け継いだとしたなら、働かなくても生きていけるだろう。実はミリオンも持っている。

「何をどうしたかオレは知らないんですがね、この業界で食っていこうって決めた割には、地味な男になっちまいましてね。その上こうして素朴なお嬢さんと所帯を持ちたいと言い出した。自分にはなかった暖かい家庭ってヤツを持ちたいんでしょうかね。どうでしょう、金の心配はオレが責任持ちますし、弟もいるし、本人だってこれはこれで良い音楽家に育ってます。許してやっちゃあもらえませんかね」

彼女のご両親は、壊れた人形のようにカクカクと頷いた。半ば迫力負けではあったのだが、後で彼女が話を聞いたところ、ミュージシャンなんてやくざな商売だと思ったが、あの父親に比べたら西村など公務員に見紛うくらいだったし、実のところ、父親よりも弟があまりにしっかりしていたので安心したのだという。

また片道3時間を父親のアストンマーチンに乗って帰る西村兄弟と彼女は、前を行くジャガーを追いかけながら、ぽつりぽつりと話をしていた。ジャガーがだいぶ乱暴な運転なので弟は何度も舌打ちをしている。

「悪かったな、何の説明もなくて」
「お前が話したのか」
「わざわざ連絡したんじゃないぞ。たまたまスタジオで鉢合わせしたんだ」

そこでつい兄の窮状に触れてしまったのだが、父親はそれならオレに任せろと言い出したのだという。

「今更いい父親みたいなことしてどうするんだって言ったら、いい父親ってのはこんな風に反対されないような家庭で子供を育てられる人間だろうって返されてさ。そりゃそうだと思って。こんなんでも同じ顔した身内だから、使えるものは使えって言ってた」

弟はハンドルを操りながら、鼻で笑った。

「あとな、あれ言わないけど、孫見たいんだよあいつ」
「孫、って、子供そんなに好きだったか?」
「最近自分の周辺が孫ラッシュらしいんだよな。早くに子供出来てた人も多かったろうから」

父親の世代で孫ラッシュとは平均的に見ても若干早いはずなのだが、父親の周辺の音楽人というのはヤンチャな御仁が多く、それこそ10代の頃には彼女に子供生ませてましたみたいなのが少なくない。バツ2バツ3は当たり前、40代でおじいちゃんなんていうのも、もう珍しくない。

「これもやっぱり言わないけど、もしかしたら母さんと籍入れるかもしれないぞ」
「はあ!? 何で今更」
「さっきも話出たけど、このままいくと資産を受け継ぐ人がいないんだ」

新しく知り合った誰かに譲るくらいなら、息子とその母親に渡したい――まだ遠い先の話だけれど、自分の仲間たちが孫を持つ様を見ていたら、そんな風に思うようになってしまったのかもしれない。

「でもまあ、よかったじゃないか。これでもう何の問題もないだろ」
……ああ、ありがとな」
「しかしお前が結婚かあ。翔陽やアナソフィアの同期が知ったら驚くだろうな」
「いいんだよ。オレ……木暮さんとさんみたいになりたいんだ」

弟はバックミラーの中の兄をちらりと見ると、嬉しそうに笑った。

その後、晴れて結婚の運びとなった西村だが、身内だけの結婚パーティに父親と千葉さんを呼んでしまったために、なんだか両家の間でえらい温度差のある席になってしまい、その上テンションが上がった父親が母親にプロポーズするというハプニングも経て、無事に家庭を持つことになった。

面白いくらいに順調で、あまり気を緩めないようにしなければと思うほどだった。それからしばらくして、嫁と子供が実家に帰っているから付き合えという千葉さんと飲むことになった。千葉さんは今、弟が関わっているゲーム音楽のコンサートでドラムを叩いており、先月は東南アジアを転々としていた。

「聞いたか? 『Noel』終わるらしいって」
「えっ!? 終わるってどういうことですか」

それなりに順調に見えていたプロジェクト「Noel」だったが、プロデューサーと川瀬の関係の悪化がプロジェクトにまで響き、この1年くらいはまともに活動ができていなかったという。その場しのぎでライヴは行ってきたというが、新譜の予定は立たず、なおかつ川瀬がアラサーに突入したことで、プロジェクトの根幹が揺らいできた。

「そりゃ、あのノエルちゃんだから、そこらの20代後半とはわけが違うよ。今でもドキッとするくらいきれいだ。だけど、今の10代の女の子から見たら大人の女性だろ。ファンの年齢層もどんどん高くなってきてる」

そうなると当初のプロジェクト「Noel」のままではクオリティを保てなくなってきた。作り物のような美少女が男に媚びない歌を歌うのも、そろそろ限界だったのかもしれない。

「桐明さんは新しい子に夢中らしいし、ノエルちゃん、どうするつもりなんだろうな」

ほろ酔いの千葉さんが心配した通り、プロデューサーはまた新しく10代後半の女の子を発掘してきて育成にかかりきり、結果として川瀬は捨てられた。プロジェクトはあまり惜しまれることもなくひっそりと解散、「Noel」は「川瀬ノエル」として再デビューの運びとなった。

しかし川瀬はシンガーであって、ライターでもコンポーザーでもない。彼女には過去の楽曲しかないので、業を煮やした事務所はタレント活動をさせ始めた。それが運の悪いことに、川瀬はそもそもアナソフィア女子なのである。クイズ番組に出させれば好成績を残し、アカデミックな特番でナビゲーターをさせても完璧にこなした。

西村は男臭いバンドでドラムを叩きながら、音楽の世界に川瀬が戻ってこられるよう祈ることしか出来なかった。

そんな西村が久々に川瀬と再会したのは、それからまもなくのことだった。テレビ局の廊下で声をかけられて、仕事の話をしたいというので、ツアーを控えている西村はこのところ通っているスタジオの名を挙げた。数日経ってスタジオに現れた川瀬は、いつかのように派手な赤いコートを纏っていた。

「それじゃあ、いつフリーになるかわからないの?」
「まあそうだね、一応ツアーが終われば時間は出来るけど、長期の契約はちょっと」

川瀬は新たに始める音楽活動のために、人材を探しているということだった。だが、生憎西村は今のバンドが気に入っていて、プロジェクトが方向転換でもしない限り、自分から辞めるつもりはなかった。一晩限りのライヴだとか言うならまだしも、もう川瀬と深く関わりたくもなかった。

「そうか。西村くんならよく知ってるし、バンドを任せられると思ったんだけど、残念」
「山田が専門に残ってるし、千葉さんにも聞いてみようか?」

山田は自身が通った専門学校の講師をしている。自分のことは一介の太鼓叩きと決めている西村だが、人脈だけはある。しかし、川瀬は面白くなさそうに片眉を吊り上げて笑った。

「西村くんがよかったのよ。わかるでしょ」
「そりゃ光栄だけど、今のバンド、性に合ってるんだよ。すまん」
「そういうことじゃないんだけど」
……川瀬、オレもうそういうの、無理だからな。もうすぐ子供生まれるし」
「はあ!?」

入籍からほどなくして嫁が妊娠、両家の親は狂喜乱舞、気が早い西村の父親は早速愛車のジャガーにチャイルドシートを取り付けてマネージャーと大喧嘩。さらに母方の祖父母がまだ元気で、ふたりはひ孫の出現で顔が輝きだした。こうなってみて初めて西村は自分の選択が正しかったと安堵したものだった。

「子供って……結婚は? 彼女が妊娠しただけ?」
「残念ながら授かり婚じゃないよ。結婚したのは去年。嫁は普通の人」
「普通って何よ……私や西村くんが普通じゃないみたいじゃない」
「普通じゃないだろ、充分。結婚大反対されてそのことは改めて思ったね。オレたちは普通じゃない」
「それが悪いみたいに言うのやめてくれる」

川瀬は両手を組み合わせて指を食い込ませている。唸るような声で言いつつ、西村を睨んだ。

「悪いなんて言ってないだろ。そう聞こえたんなら、川瀬はどこかで悪いことだと思ってるんじゃないのか」
「知ったようなことを上から目線で言わないで、今でもサポート止まりのくせに」
「川瀬、どうしてそんな風になっちゃったんだよ。アナソフィアの頃のお前は――
「アナソフィアのことなんかどうだっていいでしょ!!!」

よく響く声で川瀬は叫んだ。誰もいないスタジオの一室でよかったと西村は思いつつ、ため息をつく。

「川瀬、どうしたんだよ。何でそんな風に怒ってるんだ」
「去年、同窓会があったの。25歳になったからって、学年で。も来てた。岡崎ちゃんも緒方も来てた」

西村はなんとなく察しがついたが、現在のには興味がある。例えそれが川瀬の目を通した彼女だったとしても、どんな人になっているのか知りたかった。いや、むしろどうにもの呪縛から逃れられていない様子の川瀬から見た彼女の方が、より正確な像を把握できるかもしれない。

、あの頃みたいなオーラ、まったくなかった。今でも可愛いし面白いしスペック高いのは変わらないんだろうけど、なんだかふっつーの人になっちゃってて、それは岡崎ちゃんも緒方も同じで、あの頃のあの強烈な印象とか全然残ってなくて、なんか気が抜けちゃって」

は家庭に入り、岡崎は夢であったテーマパークで踊っているというし、緒方は劇作家を目指しながら劇団の養成所に入ったということだった。確かにそれなら既に見せる側の人間である川瀬には輝いて見えることはなかっただろう。だが――

「なのに、みんなあの3人に群がって、私のことなんか見もしない」

西村は静かに息を吐く。アナソフィアの同学年、それはまあ「Noel」の客層ではないしな。

「しかもに歌ってとか言い出して、私がプロで歌ってることすら知らない子もいて」

想像以上にひどい展開だったようだ。それが想像できるだけに西村は胸が痛む。

「だけどまあいいや、アナソフィアの子なんて、今の世界とはかけ離れてるんだし、私はアーティストなんだし、はただの主婦なんだし、そんなことは別に、どうでもいいし、の彼氏なんか、ダサいメガネで」

自分で言いながら川瀬は喉を詰まらせ始めた。ここで木暮の話が出てくるということは、きっとを迎えにでも来たんだろう。木暮さんはそういう人だ。西村は川瀬の発する棘に肌を刺されているような気がしていたが、木暮のことを思い出したら、体の真ん中が暖かくなってきた。

の彼氏、旦那、迎えに来た。もうとっくに結婚してて、子供も生まれてて、男の子、まだ2・3歳なのに、みたいに色気があって、みんなメロメロになってた。、幸せそうで、みんないるのに旦那と手とか繋いじゃって、だけどみんなそれを羨ましがったりしてなくって、私だけ、私だけそれが耐えられなくて……!」

川瀬は泣いてはいなかった。だが、おでこには血管が浮き出ていて、今にも破れそうだった。川瀬は、怒っているのだ。未だの呪縛から逃れられないせいで、一介の主婦であるの一挙手一投足が神経に障って、激しい怒りと苛立ちを呼び起こされている。

「どうして、どうしてあの後夜祭、真ん中にいたのは私じゃないの、なんでなの、ダンス部でも合唱部でも軽音楽部でもないのに、どうしていつもが主役だったの、どうして今でもが真ん中にいるの、なんで私いつまで経ってもが忘れられないの――

もう8年も前のたった一度のステージが川瀬の奥底にある何かを捻じ曲げて、今も戻らないままになっている。

西村は川瀬の苦悩が手に取るようにわかるのと同時に、木暮とが素敵な夫婦になっているのだとわかって、嬉しくなった。川瀬はのオーラがなくなったというが、それはその子供に受け継がれただけだろうと思う。ああいう一歩間違えるとクドいオーラは先天性のものだ。父親がそうだからよくわかる。

川瀬はという恐ろしい天体に絡め取られた衛星のようだ。自分よりはるかに大きな存在に捕らわれて、逃げ出そうにも引力が強すぎて、その周りを回り続けるしか出来なくなってしまった。

これは西村の勝手な憶測だが、かつてのプロデューサーであり恋人である桐明は、この川瀬の奥底にある捻じ曲がった記憶を戻してやろうとはせずに、逆に利用したんじゃないだろうかと思う。という大きな存在を踏み越えたいと願う川瀬の気持ちを、悪用したんじゃないだろうか。

そしてマインドコントロールされた川瀬は身も心も彼に捧げて、一年と経たずに攻撃的になり、面白くないことがあったからといって西村と関係を持ち、そうして今、こんなスタジオの片隅で怒りに任せてへの羨望と嫉妬と憎悪を叫んでいる。

なあ川瀬、オレもさんに憧れたよ。好きだったよ。だけどさ、オレ、さんのようになりたいとは思ったけど、さんになりたいとは思わなかったよ。さんのように、大事なことを正しく選び取れる人間になりたいって、そう思ったんだよ。いつでも人の真ん中にいるさんになんてなれないの、オレは途中で気付いたからさ。

言葉に出して言えるはずもないので、西村は心の中で川瀬にそう語りかけた。

そして、川瀬がいつかの呪縛から解き放たれるのを祈ろう。

「川瀬、オレ、お前の歌は本当にすごいと思ってるよ。そんなことオレに言ってる時間があるなら、歌えよ」

自分もこんな話を聞いてる時間があるなら、ドラムを叩くよ。そうでなければ、妊娠中の妻の隣にいたい。

「そんなんで悟ったつもり? 私に命令しないで」
「命令じゃなくて忠告だよ。悪いけどオレ、お前の歌以外は何も興味、ないから」

怒りに震える川瀬に構わず、西村はドラムセットの中におさまる。もう金色のの後姿は見えない。

「そんなくっだらねえ女の嫉妬より、『ノエル』の歌が聞きたいね」

川瀬の声が聞こえないように、西村は激しくドラムを叩き出した。初期のプロジェクト「Noel」のメインテーマ、ライヴで必ず最後ないしはアンコールに出てくる曲だ。タイトルは「Noel」、今でも川瀬のファンから大事に愛されている曲だ。西村が唯一そらで叩ける「Noel」の楽曲だった。

真っ青な顔をしてスタジオを出て行く川瀬の後姿を見送りながら、西村は8年前のステージを思い出す。きらきら輝くアナソフィア女子たち、それに少々気圧され気味だった我ら翔陽軽音楽部。あの時川瀬は楽しそうにはしゃいでいたのに。と一緒に歌っていたのに。

「Noel」のリズムの中で、西村の目から一滴の涙が零れ落ちた。

END