鼓動

「うん、いまご飯食べてる。いいよ、7時ね」

が退社後に電話を入れた時、モゴモゴと咀嚼する音を混ぜながら成歩堂は快く返事をした。普段なら、と成歩堂は外で会う事にしている。もちろん、年齢の割には物分りがいいとはいえ、一応は思春期であるみぬきに気を使っての事だ。だが今夜、みぬきはクラスメイトの家に外泊らしい。

電話に出るなり、成歩堂はみぬきがいない事を切り出し、「だから事務所でいい?」と言ってきた。もちろん、に断る理由はない。成歩堂が既に食事を終えているなら、行きがけに何か買っていけばいいだろうし、懐の寂しい成歩堂相手に、外食できない事を不満に思ってもどうにもならない。

と成歩堂は、その「事務所でいい?」が、色っぽい展開を誘うような関係ではなかった。もちろん、も成歩堂も大人であるから、そんな展開になったとしても問題はない。けれど、2人はのんびりと話をしているだけで満足できるし、2日と会えなければ思いが募るような熱も持っていなかった。

余暇に成歩堂と会い、のんびり話をする。今日あった事、天気の事、気になっている事、話題はなんでもいい。そうして1時間か2時間過ごす。その内にの方から断りを入れて、帰る。生活はいつもギリギリのくせに、これまたのんびりと仕事をしている成歩堂と違って、は週休2日でそれなりに忙しく働いている。

そんなデートとも呼べないような逢瀬の終わりにさらりとキスをするのは、多く見積もっても5回に1回程度だ。

それも、数年かけて関係を育みようやく結婚したような、ある意味では既に出来上がっている新婚夫婦の挨拶くらいの手軽さで。別れ際に軽くキスして、お互いを振り返る事もなく去ってゆく。と成歩堂の関係とは、ある意味ではとてもドライな、そういう関係だった。

逆に、凪いだ海のように穏やかな2人の関係を見て、ならみぬきの母親になれるのでは、と勧める声も少なくない。は親子の時間に割って入るような事はしないが、もちろんみぬきはという存在を知っているし、顔を合わせた事もある。今のところ、みぬきに拒絶反応はない。

だが、も成歩堂も、敢えてその件については考えない事にしている。

みぬきはみぬきで、「さんがママになってくれたら、パパも少しはしっかりするかも」などと、気の利いた事を言うが、と成歩堂の関係と、そこにみぬきが混じるのでは意味合いが違ってくる。

とて、成歩堂との結婚だけが目的ではないし、そもそもそのつもりで付き合っているのでもない。

……やめておくか」

成歩堂の事務所の手前でコンビニに立ち寄ったは、みぬきに買っていこうかと手を伸ばしたプリンを棚に戻した。

は、知っているのだ。みぬきの出生に関わる真実と、未だ本当の再会を果たしていない親子が在る事を。

成歩堂はその来るべき親子の再会をじっと待っているし、それまでみぬきを全力で守ってゆく事に全てを捧げている。その割には仕事が不安定だとか、保護者としてあまりに頼りないとか、そんな事は上っ面の側面でしかない。本当の意味で、成歩堂はみぬきに全てを捧げている。おそらく、などはその成歩堂の全ての内、1パーセントくらいにしか過ぎないはずだ。もしかしたら、他の色々な事と抱き合わせでまとめて1パーセントかもしれない。

は、それでも満足だった。そういう成歩堂も、ある意味では尊敬できるし、の事を「みぬきの母親になれるかどうか」という基準で見ない。あくまでも、には1人の男として接してくれる。いついかなる時でも、「みぬきのパパ」である部分を捨てなかったとしても。

だから、当分は現状維持でもいいのだ。はもちろん、成歩堂だって同じはず。

「みぬきはね、さんがママになってくれたら、もう少し安心して奇術の勉強が出来るんだけど」

みぬきはそう言う。そうしたらもっと働かなくちゃいけないじゃないか、と成歩堂は不満げな顔をするが、みぬきはにこにこしながら事も無げに言う。

「王泥喜さんがもっと働けばいいじゃない」

他人の話を盗み聞きでもしている気分なのか、そっぽを向いてお茶を飲んでいた王泥喜くんが咳き込む。なんでそこにオレが出てくるんだと反論しているが、本当は、当たり前の事なのだ。彼も、この輪の中にはいなくてはならない。

だからね、みぬきちゃん、私は成歩堂さんとはそんな関係にならないの。

みぬきがママにどうかと誘うたび、は、つい滑ってしまいそうな口をキュッと結ぶ。

の視界に現れる、成歩堂芸能事務所が入るビル。は、みぬきに笑顔を向けられた時と同じようにキュッと口を結んだ。見上げた事務所の窓に、明かりがない。

コンビニにでも出かけたのだろうか。瞬間そんな考えが浮かぶけれど、事務所から1番近いコンビニには、自身が立ち寄ってきたばかり。1番近いルートを通って来たが、成歩堂とは行き会わなかった。携帯を取り出してみるが、約束の7時まではあと10分以上ある。成歩堂は、が来るとわかっていて、連絡もせずに外出するようなタイプではない。

そよと吹くビル風に、の心臓が1度大きく跳ねる。

少しずつ、少しずつ早足になって、ビルへと急ぐ。気づいた時にはもう走っていて、右手にぶら下げたコンビニのビニール袋がガシャガシャと騒ぐ。呼吸が荒くなり、キュッと結んでいた唇は少しだけ、震えている。

ほとんど住居であるが、一応は事務所である成歩堂芸能事務所は、成歩堂か王泥喜がいれば、基本的に施錠はしない。鍵のかかっていないレトロなドアノブをは勢いよく引き、中に飛び込んだ。受付だったという部屋を抜け、所長室だったという部屋に駆け込む。

真っ暗な部屋に、窓から射す、ホテル・バンドーのネオンと窓明かり。ソファーの上には、だらりと右腕を垂らして成歩堂が横たわっている。いつものパーカにジャージ、ニット帽も被ったまま、左手首で目を覆って無言のまま、横たわっている。

「成歩堂さん……?」

返事はない。

いつだっか、崖から転落しても車に撥ねられても死ななかった、そう成歩堂は言っていた。そう言ってへらへらと笑っていた。異常に悪運が強いとか、叩かれても死ねないとか、冗談を言って笑っていた。

けれど、明かりもない真っ暗な部屋に音もなく横たわる、その姿は生きているようには見えなくて。

が聞いた、成歩堂の過去。華々しい時代の後に訪れる悲劇、そして、王泥喜の言う、「昔はもっと溌剌とした人だったって聞きますけど」。の知らない所で、たくさんのものを背負っていた彼に、暗い影が見えなかったと言えば、嘘になる。

薄暗い、散らかった部屋、置きっ放しのコンビニ弁当、床に転がるジュースの瓶、お世辞にも真っ当な社会人の部屋には見えない空間。普段の成歩堂がどんな人でどんな生活をしていたのだとしても、挫折し、堕落した1人の男の末路として見るならば、これ以上の風景はなかっただろう。

辣腕弁護士だったという過去、養女を抱えた何も弾けないピアニストの現在。まるで作り物のような、そんな成歩堂の世界が閉じてしまったのか。の手から、コンビニのビニール袋が滑り落ちる。

「成歩堂さん、成歩堂さん!」

揺らぐ視界の中央に、ピクリともしない成歩堂のピントが合う。そこここに転がるみぬきのマジック道具を避け、つまづき、跳ね飛ばしながらソファの前に滑り込み、垂れ下がる成歩堂の右手を掴んだ。

は、自分でも何をやっているのか判らないまま、掴んだ成歩堂の右手を胸に抱いて、そして、耳を胸に押し当てた。どうか、どうか規則正しく脈打っていてくれますように。

だが、成歩堂の鼓動を確かめようとすればするほど、パーカと、自身の鼓動に邪魔をされて、聞こえてこない。掴んだ右手の脈を取ってみる事も、思いつかなかった。

生きている証が聞こえない。成歩堂が生きている、その印がに届かない。

は、一瞬の内に絶望した。世間話なんかじゃなくて、天気の事なんかじゃなくて、もっと違う事を話したかった。みぬきのママになる事は考えられなかったけど、成歩堂の妻になる事なら考えられた。そんな風に、中途半端かもしれなくても、それだけ成歩堂が好きだったと、どうして言わなかったんだろう。

こんな風に目の前が真っ暗になるのだと知っていたら、はもっと、成歩堂に触れていたのに。

今にも腹の底から叫んでしまいそうな唇を、は今までにないほど強く結んだ。

だが、がもっと冷静なら、掴んだ成歩堂の左手がほかほかと温かい事に、すぐ気付いただろう。が震えていなければ、微弱ではあるが、呼吸のためにゆっくりと上下する胸の動きに気付いただろう。

?」

寝惚けた成歩堂の声、それに飛び上がるほど驚いたは、あまりに滑稽だった。

「成歩堂さん、生きてるの」
「うん、どうしたの

だるそうに起き上がった成歩堂は、にガッチリと掴まれている右手を、ゆっくりと握り返す。その上から、左手での指を撫でる。痛むほどに食い込むの指を、解こうとして、撫で擦っている。

「死んじゃったかと思った、成歩堂さん、死んじゃったのかと」
「お腹いっぱいになって寝ちゃったみたいだね」
「だって、動かなかったから、真っ暗で、動かなかったから!」

「食べ終わった後は、まだ明るかったんだけどね」と成歩堂は照れ笑った。「満腹で、ゆっくりと暗くなっていって、気持ちよくなっちゃったんだね」

安堵とともに、は大きく息を吐いて、成歩堂の右手を開放した。動かない成歩堂に驚きはしたが、涙は出てこなかった。安心してもまた、涙は出なかった。その代わりにに溢れるのは、あんな風に絶望する事がないように、平穏に慣れて大切な気持ちを無くしてしまわないようにという、強い想いだった。

「驚かせてごめん」
「私が勘違いしただけだから」

やっぱり成歩堂は、いつもの眠そうな目でぼそぼそと言うだけだ。それでもは構わない。成歩堂はそれでいい。彼の99パーセントがみぬきで、自分は残りの1パーセントの中に在るだけでも、充分だ。の99パーセントが、成歩堂になればいいだけの事なのだから。

「成歩堂さん、私、今日は帰らなくてもいい?」

今にも100パーセントになってしまいそうな心は隠さなくてもいい。今は成歩堂の鼓動が感じられるくらいの距離にいたい。1パーセントのが独占していたい。

「うん、いいよ」

少しだけ早く打つ鼓動が気持ちいい。は改めて成歩堂の右手を取った。

END