ロスト

3人の先輩たちが労働に勤しんでいる頃、僕は予定が何もない土曜の午後を1人で歩いていた。歩いている目的は本日3軒目の古書店。一軒目の大型チェーン店は元々期待していなかった以上にめぼしい物がなく、馴染みの2軒目では2冊ほど本を買った。それでもまだ時間があるので、はしごを続けているところだ。

地元の大きな街道沿いをぶらぶらと歩きながら、目的ではない店をちらりと覗き込んだりしながら歩く。思えば、受験を経て大学生になってから、こんな風に地元を歩く事が少なくなっていた。もちろん学校やバイトがあるからだが、それ以上にEMCのために割く時間も多かった。

受験勉強に追われている間は、この街道も排気ガスに染まった灰色にしか見えなかったが、そんな重荷から開放された今は至って普通の街並みに見える。この街道がまっとうな色を取り戻したのは、そう、3年振りだ。

当時付き合っていた――今にして思うと付き合っている振りのようなものだったけれど――彼女と歩いた事がある。その時は今以上にただの街並みが素敵な景色に見えていたような気がする。結局、その彼女とは進級してクラスが変わったという、たかがそれだけで自然消滅的に別れてしまった。

胸を焦がすほどに好きだったとは、思わない。彼女は《付き合ってもいい女の子》であり、彼女の方もきっと僕が《付き合ってもいい男の子》だっただけだろう。彼女は可愛かったし、性格も悪くない。しかも、僕のミステリ読みには大変理解があって、よく古書店回りを付き合ってくれた。それでもその程度の想いだった。

僕はそこで一瞬立ち止まりかけた。なんだかとてつもなく大きな獲物を寝ている間に逃がしてしまったような気がしたのだ。僕の幼い心には、吹けば飛ぶような淡い淡い恋心すらあったかどうか疑わしい。彼女持ちである事が大事だったのだし、与えるより与えられる方を望むだけだった。だが、思い返す程に後悔が膨らむ。

記憶の蓋が、開いてしまったらしい。僕の頭の中では3年前のヒット曲が鳴り続けている。彼女と一緒によく聴いた、懐かしいラブソング。軽快なテンポに、今となっては特別響くもののない稚拙な歌詞、それが少しだけ胸に痛い。過去に置き去りにしてきた恋が道の上に再現されては消えていく。

今頃、どうしているんだろう。

そんな風に考えて、再度立ち止まりかけた。1年に満たない時間ではあったが、一応は恋人であった女の子の進路を知らないというのは無関心過ぎるのではないか。いや、終わった事なのだから知らなくても当然なのか?

結局クラスが同じだったのは高校1年生の時だけ。残る2年は別のクラスだったし、3年次に至ってはどのクラスにいたのかすら思い出せない。これは……普通の事だろうか。喧嘩別れしたのならともかく、僕たちは自然消滅だったし、情報をシャットアウトしたわけでもない。

自然消滅で終わって以降、彼女の消息がプッツリと切れている。これは、普通なのか?

いや、おかしいだろう。同じ学校で同じ学年なのだから、自然消滅しても2年の間にはすれ違う事だってあるんじゃないか? それもそう低い確率ではないような気がする。おかしい。なぜ僕は彼女のその後を何も知らないんだ? 見かける事すらなかったのはなぜ?

迷宮入りした事件をほじくり返している老刑事みたいだ。手がかりもない、記憶も怪しい、けれど疑問だけが心に降り積もって払いきれない。困ったな。こんな事だけが目的では高校時代の友人に連絡を取るのも憚られる。

そうこうしている内に、僕の視界に本日3軒目の古書店が見えてきた。一介の学生の土曜の午後としては優雅な時間を過ごしているはずだったのに、どうもそんな雰囲気ではなくなってきた。目の前の謎も解けないのに、本の中の謎が解けると思うなどおこがましいような気すらしてくる。

そこで僕は前につんのめる程の急ブレーキで足を止めた。

狭い間口を全て開いて外にまで本を溢れさせているその古書店は、まるで銭湯の番台のようなレジが入口の真ん中にある。そんな造りのせいかどうかは判らないが、雨の日は休みだとも聞く。そのレジの前に、今僕の頭の中を目一杯に占めていた顔があった。なんて事だ。彼女が、いる。

、なんでここに。

僕は足を止めただけではなく、無意識のうちに古書店の2軒手前にある床屋のサインポールの影に身を潜めた。幸い、サインポールと床屋の窓との間には背の高い植え込みがあり、床屋の店主に怪しまれる事もなさそうだ。僕は古書店と床屋の間にあるシャッターの閉まったかつては店舗だったらしい1軒を挟んで様子を伺った。

古書店の主は相当な高齢で、耳も遠い。僕も必要があれば往来を背に大声を上げる事がある。そんな事も今は幸いした。店主が本を袋詰めしながら何か言っている。それに対しては何と答えるだろう。店主の爺さんに聞こえるように話すなら、僕にも聞こえる。

「違いますよ、大丈夫、間違えてないですって」

なんのこっちゃ……と首を捻りかけたがすぐに納得した。この耳の遠い店主の爺さんは「前にも同じ本を買っていっただろう」というのが口癖だった。僕も何度か聞いた事がある。特に、ここ30年ばかりの比較的新しい本でそれが顕著だ。そろそろ記憶容量が足りなくなってきているのかもしれない。

「違います。それは私やないですよ。この間も話したやないですか」

その上客の同定が出来ていない。誰と間違えられたのやら。

しかしはよくこの半ボケ爺さんに笑顔で付き合っていられるものだな、と僕は感心した。爺さんは袋詰めがとうに終わっている本を渡そうともしないで、まだ喋っている。僕ならろくに相手をしないでさっさと帰ってしまうような気がする。

思い出の中の通りに、はそういう広い心の持ち主だったようだ。

「高校生の時に病気しちゃって少し入院したんです。それで本を読むようになって……聞いてます?」

僕はその場で確かに飛び上がった。問いかけられたのは耳の遠い爺さんなのに、まるでが僕に問いかけたように聞こえた。しかも、なんだその入院て。病気って何の話だよ。

「いや、癌やないですよ。自然気胸って言うて……いや結核やなくて」

爺さんには病気で入院と来れば癌か結核なのだろうか。それにしても、にそんな事があったとは知らなかった。いつの話なんだろう。いくら自然消滅だったからといって、そんな事があったのに僕が何も知らないというのはやはりおかしい。

爺さんは癌と結核を否定されたせいか、途端に興味をなくしたようだが、は続ける。

「入院は短かったけど、体が立ち直るのにずいぶん時間がかかったんです。病気やって判るまでも時間がかかったし、治療でも参ってしまって、結局それきり学校にも戻れなくて留年してしまったし」

え?

「それで通信制に転学して、今やっと高校3年生……さぼってないですよ今日は土曜でしょう」

爺さんが余計な茶々を入れたらしいが、今はそんな事はどうでもいい。この展開は何だ。どういう事だ。僕がのその後を知らなかったのは、彼女が学校から姿を消したからだったのか? 病気だと判るまでも時間がかかった? 、一体いつから病気だったんだよ、まさか――

「え? 彼氏くらいいてましたよ。病気のせいで連絡も取れんようになってしまったけど……

まさか。まさか、そんな。

……その彼氏がね、推理小説が大好きやったんです」

は、爺さんから本の入った袋を奪って胸に抱いた。

……さあ、今どうしているか、知りません」

耳に指を突っ込んでほじくりまくっている爺さんに、はゆるゆると被りを振った。

「彼氏だけやなくて、誰にも病気の事、言わなかったから。私だけが不幸な気がして、みじめで……

2年生に進級して、クラスが別れてしまった。それでも最初はそれまで通りに付き合っていたと思う。けれど、ただそれだけの事なのにからはメールも電話も減っていって、廊下ですれ違う事もなくなっていって、僕はそれを自然消滅だと思っていた。

が、まだ16歳のが突然の病に苦しんでいたのに、僕は連絡がない事に何の疑問も抱かずに放置したままだったのだ。まあ、こんなものなのかな、とあっさり受け入れて男友達とふらふら遊び歩いたりもしていた。誰にも病気の事を言えないで、学校にすら来れなくなっていたの事など思い出す事もなく。

そうして今僕は現役で大学生になっていて、はまだ高校3年生をやっていて。そのの胸に、僕の大好きな推理小説が抱かれている。あの頃、腕を組むより繋ぐ方が気恥ずかしかったの手に、そっと抱かれている。

いつの間にか、僕は床屋のサインポールの影を飛び出して歩き出していた。

飛び出して、どうするつもりだったのかは判らない。でも、僕は引きずられるようにしてに近づいていった。の姿がどんどん大きくなって、少しだけ大人っぽくなったあの日の少女が、手が届くくらいにまで近くにあって、そして僕は突然叫んだ。

「なんで言わんかったんや!」

その声にだけでなく、爺さんまで飛び上がった。でも僕にはそんな事は気にならない。街道沿いの、そこそこ人通りもある場所で不穏な声をあげた事も意識の外だ。

ただ大声を張り上げてしまいたかったのかもしれない。なんで話してくれなかった、どうして打ち明けてくれなかった、苦しむ君を知らないまま時間だけがこんなに過ぎてしまって、僕は君に何を言えばいいのかも判らなくなってしまったじゃないか。そうぶち撒けたかっただけなのかもしれない。

の手から、本の入った紙袋がドサリと音を立てて地面に落ちた。口元に両手を当てたの目に、あっという間に涙が溢れる。僕も泣きたいくらいだった。

僕は、ここが街道沿いだという事も忘れてを力一杯抱き締めていた。

その傍らでは、耳の遠い店主と店内にいた客が割れんばかりの拍手で僕たちを見守っていた。

END