君でなければ

「サイファー先輩を、あたしに下さい!」

突然後ろから呼び止められ、振り返った途端にそう言われた。あまりに突然の事では声の主がどんな人物なのかを把握するのにしばらく時間がかかった。

「ええ? く、下さいってあのね――

動揺激しいは何とか笑顔を取り繕いながら声をかけてみた。

先輩とじゃ、サイファー先輩は可哀想です! だからあたしに譲って下さい!」

何とか事態が飲み込めてきたは気取られないようにして相手を見てみる。やサイファーを先輩と呼ぶからには確実に年は下。特別幼いようにも見えないが、スケルトンプラスチックのヘアピンがどことなく子供っぽくも見える。

それに、カラーリングなどした事のないような髪のつや、素足でも光り輝いている肌、おそらく保湿のためのリップクリームなのだろうが、それだけでも唇はみずみずしいピンク色。だってその少女より10も20も上というわけではないが、10代から20代にかけて1つ2つの差は大きいものである。

どうやらは、〝若い子〟に勝負を挑まれたらしい。

「うーんと、あのね、譲るって言ってもね、サイファーはモノじゃないし、ね?」
先輩から別れてくれれば済むと思うんですけど」
「いや、その、そういう風に簡単に話のつく相手じゃないでしょ?」
先輩は別れ話してくれるだけでいいです。あとはあたしがやりますから」

なんとかなだめてみようと思っただったが、これではうんと頷くまでこの場を離れそうにない。それよりも、なぜサイファーの相手がだと可哀想なのか。は事態の深刻さよりもそれが気になっていた。

「1つ聞くけど、なんでわたしだとサイファーが可哀想なの?」
「そんなの誰だって思ってます」
「具体的に教えてくれないかなぁ」

幼いからというだけではありえない傍若無人さに、頭に血が上りそうになるのを必死でこらえながら、はなおも笑顔を作っている。

「だって。先輩、サイファー先輩の事すきじゃないし」
「へ?」
「サイファー先輩が先輩の事追っかけてるのは見た事あるけどその逆はないし。いっつも構ってくるのはサイファー先輩の方で、先輩はウザそうに追い払うだけじゃないですか」

こんな少女にまで目撃されるほど、サイファーのへの干渉は時と場所を選ばない。どちらかと言えば、目立たないポジションにいて穏やかにしていたいが無下にサイファーを追い払ってしまうのも仕方のない事ではあるのだが。

「そうゆうわけなんで、別れて下さい! サイファー先輩はあたしが幸せにしますから」

そして少女はそれだけ言うと、くるりと後ろを向いて走り去ってしまった。

「あっはっはっはっは」
「そんなに笑わないでよ…」

顎が外れるのではないか、というほど大口を開けて笑い転げているのはキスティス。その横でどうしたものかと頭を抱えているのが。授業の合間に保健室にお茶を飲みに来た2人は、カドワキ先生に留守を頼まれたのを幸いにと、雑談に興じていた。

「そんなに年は変わらないのだろうけど……ふふふ、過激な子ねぇ」
「笑い事じゃないわよ、これがサイファーの耳にでも入ったら…」

「てめぇが俺様の言う事素直に聞きやがらねぇからだ!」

キスティスとは、2人揃ってサイファーの声真似をした。きれいにシンクロしたその言葉に、キスティスはまた大笑い。メガネの向こうの美しい瞳は涙が滲んでいる。

「あっはっはっは、そう来るわよねぇ!」
「笑い事じゃないってば!」
「まあ、あなたの言う通り、それで事が済むなら苦労はしないわよね」
「面倒くさいなあ、もう」

まだ笑い足りない様子のキスティスだったが、一呼吸置くと、やわらかく腕を組んで微笑む。そして、少しだけ首を傾げてに囁いた。

「自分で何とかするしかないわね。サイファーは絶対あなたを離さないわよ」

急にまじめな事を言ったキスティスの口元に、は少しだけ照れた。

「何よう、そんな事――
「あら、ないと思ってるって言うの?」
「だって……
「サイファーがあなたの事をどれだけ好きか、知らないのね」

そんなキスティスの言葉には、他の事が目に入らないほど惚れているだとか、夜も眠れないくらいに想っているような印象を受ける。は、そんな風にサイファーに想われているなんて、小指の爪ほども思っていない。

「まさかあ」

事実、長く想い合った末に付き合いだしたわけではない、という記憶しかないには、どこを取っても自分達の関係をそんな熱いものだとは、到底考えられなかった。だいたい、サイファーが自分を溶かしてしまうような態度で接してくれた事があっただろうか。それすら記憶にない。

「まあ、変わってるだろうけど、昔から思いの強い子だからね、サイファーも。あなたが気づいてあげなきゃ」

キスティスはそう言うが、サイファーのどこをどう見て気づけばいいのかにはさっぱり判らなかった。

それから後、はあの少女が別れ話の催促に来るのではないかと、ビクビクしながら過ごしていた。だが、廊下ですれ違うような事もなく、また、最大の不安点であるサイファーの耳にも情報が入るような事もなかった。

キスティスにしか先日の出来事を話さないという判断をした自分を、は自分で誉めてやりたかった。これがちらりとでもアーヴァインの耳だのに入ろうものなら、と考えると背筋が凍りつきそうだ。

けれど、に何か漬け込まれる要素があるとか、そんな事は原因ではないのだ。サイファーと近しい間柄にあるという事がトラブルを招く。かといって、サイファー自身がトラブルなのでもない。騒動を呼んでしまう体質の人間もいるという事だ。

つまり、平穏な日々すらも嵐の前の静けさでしかない。

「おい、こんなところにいたのかよ」

背後から有無を言わさず襟を掴んで来たのは当然サイファー。鞭打ちになるのでないかという位の衝撃を受けては少しだけ息が止まった。襟を引きはがしたが、またすぐ袖を捕らわれてしまう。

「はっ、離して、苦しい……!」
「ンなこたどーでもいいんだよ、明日釣り行くぞ釣り!」
「釣り!? 明日わたし授業ある――
「行くっつったら行くんだよゴチャゴチャうるせぇなサボれンなモン!」
「無茶言わないでよ!」

そんなとサイファーの日常の中に、あの少女が入ってきた。

「先輩」
…………はい」

はもう、一種の諦めのようなものを感じないでもなかった。

サイファー絡みのトラブルは、何もこの少女に限った事ではない。本当に些細なものも含めれば、毎日がトラブル続きだと言っても過言ではない。だからもう、そんな生活から足を洗ってしまってもいいかと思った。

このままこの少女にサイファーを譲ってしまい、サイファーがそれで頷くなら、それでもいいのではないかと。誰も付き合っている人などいなくて、毎日キスティスやセルフィとワイワイ騒いで、ガーデンでの生活を満喫する。そんなのも、悪くない。そしてまた、好きな人が出来たり、誰かが自分の事を好きになってくれるかもしれない。

それならそれでもいいのではないか? 男はサイファー1人ではないのだから。

は心持ち睨んでいるような少女と、突然割り込んで来た珍客にしかめっ面をしているサイファーの間でそんな事を思っていた。

「サイファー先輩」
「あん?」
先輩と別れて、あたしと付き合いませんか」

それにしてもこの少女は直球勝負に出たものだ。

「何言ってんだお前」
「見ててわかりませんか? 先輩はサイファー先輩の事、ちっとも大事にしてないですよ」
「まあ、そう言われればそうかもしれんな」
「ホラ! やっぱりそう思ってるじゃないですか!」

そう、そしてこのまま2人の間で話がついて、わたしひとり取り残されれば。

はそんな風に事態の行く先を思ったのだが――

「けどなあ、なつかないペットをそのまま捨てるってのもな」
「逃げたと思えばいいじゃないですか」
「それも何かカッコ悪くねぇか?」

そんな押し問答をしながら、のらりくらりと少女の言葉を交わしながら、ちょっと考えているような表情で顎に手を添えたりしながら。サイファーの手がものすごい力での袖を掴んだまま、離そうとしない。

話がどう転ぶとしても、とりあえず拘束から逃れようと思ったの腕は、いつもより強い力で捕らえられているサイファーの手から少しも動かなかった。力を入れ過ぎているのか、サイファーの手の甲はいつもより白くなっている。ものは試し、腕を押してみたが、信じられない位に硬直している。

何か予想とは違ったけど、そういう事かぁ。

はキスティスの言葉を思い出しながら、さり気なく全体を見渡す。

がいかにサイファーを無下にしているかを力説する少女。まんざらでもなさそうに何か話しているサイファー。だけど、を掴んでいる腕だけは。その腕だけは、どこにも行くなと叫んでいるようで。

口では少女の申し出を受けてもいいような素振りを見せながら、サイファーの腕だけがを離すまいとしているようで、はため息をついた。

必要とされてるって事で、いいか。

子供が母親の袖に必死でしがみ付いているみたいに。それがないと、泣いてしまうかもしれないから離したくなくて。絶対に消えてはならない存在だから。は、捕らえられていない方の手で、そっとサイファーの手に手のひらを重ねる。ちゃんと、ここにいるよ、と伝えるようにして。

それに気づいたのか気づかないのか、サイファーはヘラヘラと笑いながら言う。

「じゃ、お前2号ってヤツになるか?」

よくよく恐れを知らないと言うか、少女は上背のあるサイファーの横っ面をグーで殴り、どこかへと行ってしまった。と共にその場に取り残されたサイファーは、少女のパンチなど屁でもないという風に首を傾げた。

「なんだあ? 悪くねえ提案だと思ったんだがな」
「すごい思考してるわねあんた」
「まあな、俺はお前で手一杯だからな」
「よく言うわ」

ようやくの袖を離した手で、今度は柔らかくの手を取る。

そういえば、ベタベタする事はなくても、手をつなぐ事は多かったっけ

1人声も出さずに笑うの横でサイファーはまた明日の予定で盛り上がっている。

「釣りだからな、朝は早めだな。今日は早寝しろよ。そうだな、5時出だな」
「はいはい」
「まあ、釣れても釣れなくても10時には引き上げだな」
「またゆっくりな」
「んで、〝ついでに〟バラムに新しく出来た店で何か食って――
「〝ついでに〟、ね」
「ああそうだ、ついでだついで!」

そっか。わたしとバラムの新しいお店でご飯食べたいのね

サイファーに気付かれないように、はまた笑った。

「お前この間みたいに勝手にどっか買い物とか行くなよ」
「はいはい、ちゃんと網持って横にいます」
「そうそう、大事な役目だからな」
「はいはい、ちゃんとここにいますって」
「あーそうかよ」

悪態をつきながらもちょっとだけ嬉しそうなサイファー。 はそっとサイファーの肩に頭を寄せた。

END