私の残滓

身を切るような冷たい風が吹くバラムの町で1人、はスコールを待っていた。

待ち合わせの時間からは、そろそろ15分が過ぎようとしているが、これは問題ではない。スコールはとにかく忙しい。彼が望んでも望まなくても彼を取り巻く全ては彼を渇望して止まない。それをよく解っているには、遅刻はそもそも、最初から付いてくるオプションにも等しい。解っていて、それでも付き合っている。

「今日は会議、あったかな」

逐一スケジュールを確かめて、常にその居場所を把握する事もない。束縛は彼女の信条に反する。自分の事だけで手一杯のスコールの心の中、その中にほんの少しだけを想うという場所を作ってもらった、それだけで満足だからだ。

そこには、そう自分に言い聞かせている、という側面がある事は否めない。だが、ありきたりな台詞でスコールを束縛し、独占したがって愛想をつかされるくらいなら、我慢を選ぶ。

はスコールが好きだったし、見栄や意地で軽はずみな事をして、がいつスコールに捨てられるかと虎視眈々と狙う女性たちを喜ばせてやる事はないのだ。2人で会う時間がなかなか取れない事を除けば、にとってスコールは完璧にも近い恋人だった。

今のところ2人の仲は上手くいっているし、ほどではないにせよ、スコールもを好いていてくれている。問題は何もない。遅刻も会えない事も、外野がうるさい事も、が気にしなければいいだけの話だ。

しかしにもささやかな願望というものがある。

あまりにもささやか過ぎて口に出す事は憚られるし、そんなちっぽけな事で頭を悩ませているなどと誰かが聞けば一笑に付す事は間違いない。それほど瑣末な事で、は冷たい風に身を晒しながら、悩んでいる。

せめて別れてから1時間、スコールの頭の中を私で一杯にしたい――

の方は1時間どころか、翌日の昼頃までスコールの事で頭が一杯になってしまう。そのせいで仕事もよくしくじる。何もそこまでスコールの頭の中を色に染めたいわけではないのだが、帰り道、自宅に――もしくはそのまま仕事に――辿り付くまでの間くらいはずっと自分の事だけを考えていて欲しい。そんな、願望。

おそらく、と会い、別れてどこかへ移動する間にも、スコールの頭の中は仕事やプライベートな事で埋め尽くされてしまうはずだから、それを抑えつけるほどの、何かいい方法はないものか。

腕を組み、俯いたは難しい顔をして考え込む。

じっと俯いて腕を組んでいたは、怒っているように見えたのかもしれない。が顔を上げると、少しだけ申し訳なさそうなスコールの顔があった。

「すまない、遅くなった」
「大丈夫、そんなに待ってないよ。私も少し遅れちゃったし」

もちろんこれは嘘だ。は約束の時間15分前には、待ち合わせの場所に必ず到着している。付き合いだしてまだ日の浅い2人だが、スコールは毎回遅刻、は毎回15分以上前から待っている。

「寒いから、どこか入ろうか」
「ああ、そうだな」

街を歩く恋人達は、腕を組んだり肩を抱いたりして寄り添いながら歩いていく。そんな中でもスコールとは触れもせず少し距離を置いて歩く。手を取るのがまだ気恥ずかしいスコール。それをねだらない。適当に選んだ店に入っても、仕事上の付き合いだと言われたら鵜呑みに出来るような2人。

「今日、会議だっけ?」
「ああ、定例会議だ。今日はちょっと長引いた」

会話ですら、とても恋人同士とは思えない。

連日の疲れで眠たそうな目のスコールは、の言葉に適当に相槌を打って、しかしきちんと話を聞いている律儀な彼は、要所要所で的確な突っ込みと意見を返す。は、そんなスコールの律儀さ、よく言えば優しさがある以上、わがままは絶対に言わないと決めている。

かと言って、お節介な図々しい女にはなりたくないは、疲れているスコールの健康管理になど絶対に口を挟まない。優秀なSEEDであれば、そんな事は出来て当たり前だからだ。せめて、と会う事で、余計に疲れないように気を使うくらいが関の山。

だが、今日のスコールはに向かって済まなそうに言った。

「いつも、悪いな。こんなので」
「こんなの、って?」
「時間、ほとんど取れないだろう。ろくに話も出来ないし」

一応スコールの方にも自覚はあるらしい。むしろ、の方が従順過ぎるだけに、無言の圧力となってしまっているのかもしれない。当のはスコールの言葉に喜びこそすれ、別段気に病む事ではないのだが。

「そんな事ないよ、気にしないというか……それでも私は満足してる」
「時間を作ろうとは思うんだが、仕事が重なると、つい――

そう思っていてくれるだけで充分。そんな言葉もは飲み込む。

「忙しいのは悪い事じゃないよ。いつか暇になったらたくさん遊んで」

それまで私を傍に置いておいてね――。それも、飲み込む。

……無理、してないよな?」
「してたらとっくに終わってるよ」

なんでもない事だという風に作る笑顔でさえ、作り物だ。2人で会う時間が取れない事、取れたとしても、それを負担に感じられてしまってはならない。に申し訳ないから別れよう、などという宣告をされてはたまらない。それを回避するためなら、偽りの笑顔も作る。

明日も仕事で朝が早いというスコールに、は文句1つ言わずに店を出る。温かい店内にいて緩んだ身体が、冷たい風を浴びてキュッと収縮するような感覚を覚えたは、スコールの斜め後ろを着いて行く。

人通りの多い駅前、待ち合わせにもよく使われる大時計のあたりで2人はいつも別れる。スコールは右に、は左に折れて帰っていく。いつもなら片手を上げてさっさと別れるのだが、今日に限ってスコールは時計の手前で足を止め、が隣に並ぶのを待った。

「今日は特に寒いね。風邪ひかないようにしなきゃ」

自分を戒めるつもりで、さりげなくスコールにも風邪を気をつけてと言うに、スコールは返事をしない。

「スコール?」
、やっぱり、無理、してるだろう」

時計を見上げながら、スコールは寒風に前髪を揺らしている。そんな彼の横顔に見惚れる一方で、はその言葉に戦慄する。次の言葉を聞くのが怖い。

「してないって……言ってるじゃない」
「そう言えばおれが気にしないで済むだろう、とでも?」
「待ってスコール、どうしたの、私そんな事」

恐れていた事が現実のものになりそうで、は怖かった。冬の刺すような風に凍えたせいだけではなく、は肘が震えるのを感じている。怖い。スコールは何を言うつもりなのだ。

「そんな顔、するな。おれはただ――

の方を向いたスコールは、彼女の怯えた目に口をつぐんだ。の気遣い、自分の中に押し込めているもの、それらをスコールは知らずのうちに感じ取っていたのだろう。ある意味ではいじらしく、またある意味では押し付けがましいそのいたわりをどうにかしたくて、つい言ってしまったに過ぎない。

「可哀想だと思ったんだ。こんな短い時間しか取れなくて――
「でも会えないよりはよっぽどいいよ」

襲い掛かる恐怖を振り払うように、はスコールの言葉を遮った。が自分を偽っているのは事実だが、それでもこうした短い逢瀬を手放したくないという切実な思いがあるからだ。それすら誤解されてしまっては、何もかもが崩壊してしまいそうな気がして、は唇を噛んだ。

「それでも、こうして欲しいとか、こうしたい、とか、あるだろうお前にも」
「だったらどうなの。そりゃあるよ、私にも。スコールと一緒にいたいよ」

もっと具体的な願望を問うたつもりのスコールは、の顔を覗き込んだまま止まった。

「私、スコールに何も望んでない。今のままのスコールで充分。だから――

だから願う事と言ったら、ただ1つ。

「帰り道、1時間でいい。私の事だけ考えてて」

難しい顔をしていたスコールの顔を両手で包むと、は唇を押し付けた。

大時計から少し外れた路上で、は強引に唇を奪い、突然の事に呆然としているスコールを解放すると、「じゃあね」とだけ言って踵を返した。言いたい事は言ったし、せめて1時間だけでもで頭を一杯にするための手段として選んだキスも、ちゃんと残せた。

まだ恐怖は残っているが、にはもうこれ以上なす術がない。

これ以上スコールを悩ませてしまうというのなら、それはそれで不本意なのだし、いつか壊れてしまう関係なら悪い印象は残したくない。とはうまくいかなかったけれど、悪い女ではなかったと、そう記憶していて欲しかった。スコールの中に残るはそれだけの印象でも、構わなかった。

どうか私を忘れないで。面倒な女だったなんて、思わないで。ただあなたが好きだっただけなの。

そんな思いで立ち去ろうとしたの手を、スコールが引いた。


「明日も朝、早いんでしょう、もう帰――

引かれた手につられて振り返り、スコールの声にか細い声で応えた。気付いた時には、スコールの両腕にしっかりと抱き締められていて、唇を塞がれていた。浮いた踵からパンプスが外れ、ふらふらと上下している。

わけもわからずにいただが、事態を飲み込んでも離れないスコールの唇に応え、冷えたスコールの背中にしがみついた。どこからか、ヒュウと口笛が聞こえてくるが、そんなものは気にならなかった。

唇を解放しても、スコールはを腕に抱いたまま佇んでいる。

「帰り道1時間、だって? それは無理な話だ」

スコールの肩になびくファーに額を埋めたは、その囁き声をぼんやりと聞いている。

「そういうのは、逆効果っていうんだ」

ふわりと緩んだスコールの腕の中で、は顔を上げる。スコールはいつになく眉を下げ、のように、無理に笑顔を作って見せようとしている。作り物の笑顔というのは、こんなに簡単に見破れるものなのかとは改めて思う。私はいつもこんな顔をしてスコールに会っていたのかと、情けなくなる。

「いつも疲れて寝てしまうまで、お前の事を考えているのに、これじゃ――

それだけ言うのが精一杯だったのだろう。スコールは次に繋がる言葉を見出せずに、もう1度に唇を寄せた。には見えなかったスコールの想い、心、それは今の冷えた身体を温める事で伝わっている。

2人を通り過ぎる冬の冷たい風が、ほんの一瞬和らいで、また再び唸り始める。

「時間なんか作ればいいんだ、無理矢理」 そんなスコールの言葉に、は初めて心から笑った。

END