秋の空から春の桜へ

あの人の姿を初めて見たのは桜の下だった。

揺るがぬ決意も理想もなくガーデンへとやって来た私は、予想をはるかに上回る規模に驚いて門の前で立ち尽くしていた。まるで都市のようなその外観に足はすくみ、行き交う生徒たちは凛々しくもどこか殺伐としていて、気後れした。選択を誤った。すぐにそう直感した。

そうして一歩を踏み出せないまま、門の前でいたずらに時間を浪費していた私の視界に飛び込んで来たあの人。ずいぶんと背が高く大柄で、大股に走ってくる姿は少し怖いくらいだった。

その姿をまだ呆然と眺めていた私を指差して、あの人は言った。

「遅刻は許さねえ!」

入学初日に遅刻も何も、まだ登校時間すら知らされていなければ、翌日入寮の私には返す言葉がなかった。だけど、真新しい制服に気がついたのか、あの人は門を出て近寄ると私の前で仁王立ちになった。

「なんだ新入生か。名前は」
「あ、あの、です……
「よし、。おれは風紀委員のサイファーだ。以降、遅刻は厳禁だ。覚えておけ」

サイファーと名乗ったその人は、まだ棒立ちになっている私の手を掴んで、勢い良く引いた。私のガーデンでの生活の第一歩を、私はサイファーに手を引かれて歩み出した。

そうして始まった生活の中で、彼がガーデンで有名な生徒である事や、様々な事情もすぐ知る事になる。彼を嫌う人も多かった。だけど、そのサイファーが手を引いてくれなかったら、私の学園生活はなかったかもしれない。

揺るがぬ決意も理想もなかった。その私の全身をガーデンに引きずり込んだのは、サイファー。それが、恋に変わるのに時間はかからなかった。

当て所ない恋心を抱えたまま、気付けばガーデンでの生活も当たり前の物になっていた。そして、特に親しくなるわけでもなく、ただ顔見知りという程度のサイファーとの関係も当たり前になっていて、それをどうしようともしなかった。

そんな風にして、やはり揺るがぬ決意も理想もないまま過ごしてきた事への報いなのか、サイファーはあと1ヶ月もすれば期限が来てこのガーデンを卒業する。いつもこのガーデンにいるはずのサイファーが、消えてしまう。

好きだと伝えて何か進展の見込める相手でも、関係でもない。ただ秋風に晒された恋心が疼いただけだった。

それでもつい声をかけてしまったのは、彼が桜の木の下にいたから。あの日のような桜の花びらはなく、緑の葉も少し弱々しい桜の木の下で、サイファーは佇んでいた。

「久しぶり」
……ああ。だっけか」
「覚えててくれたんだ」
「一応、な」

素っ気無いのも判っていた事。だから、雑談なんか挟む必要なんてない。

「これも覚えてる? 私、入学初日に遅刻するなって怒られたんだよ」
「ああ。だから覚えてた」
「そっか」
「それでカッコ悪りィから手を引っ張って誤魔化したんだ」

そんな事情がサイファーにあった事も、私は知らない。こんな些細な事だけれど、初めて触れるサイファーの感情は少しくすぐったい。私は、それでもう充分だった。後は、伝えるだけ。

「そうだったんだ。私のガーデンでの最初の一歩はサイファーに手を引かれて始まったんだよ。予想外に大きな所でどうしようか、帰ろうかって思ってた私の手を引いたのはサイファーだった」

怪訝そうな顔をされるかと思っていたのに、サイファーは黙って聞いている。

「そんな簡単な事で、って思うかもしれないけど、私はそれだけでずっとサイファーが好きだった」

それでもなお、黙ったままで動かないサイファーはかえってありがたい。

「でも、もうすぐ卒業しちゃうでしょ」
……ああ。規則だからな」
「だから、ちょっと言ってみた。心残りないように。それだけ」

言いたい事は、本当にそれだけだった。あの日、桜の花びらが風に踊る空の下で、サイファーに手を引かれてガーデンへと足を踏み入れた。そして恋をしてしまったと言う事。それを伝えないままでは、後悔が残ると思ったからだ。

「卒業生答辞」
「え?」
「俺はここを出たらまずエスタに行く。そこでしばらく憧れる人を見て今後を考えるつもりだ。お前が卒業した時、まだ今と変わらない気持ちでいるなら……まずエスタに来い。そこに俺がいるならそれはそれ。いないなら、あとはお前の自由だ」

淡々と言い終えたサイファーが差し出した手を、私は震える手で取った。

「お前の為に待つ事はしねえ。それでもいいなら来い」
……はい」

去っていくサイファーの後姿を、私は桜の木越しに見ていた。春の面影はなく、花もないし葉も弱々しい。けれど、その隙間から見える空に浮かぶ秋の雲は、春の桜よりも雄大で大きく、春の桜のように儚い私の想いが奮い立つ。

花の代わりに雲をまとい、去り行くあの人の背中を見て私は桜を思う。秋の空と風に吹かれて恋心は春を見つけて飛び立つ。それが桜が咲き誇る頃だったとしても、私は秋を思いながらあの人の後を追うだろう。そこにいるかもわからない影を探して。

桜の花を、秋の空を、歌いながら。

END