サマーレイン [三井]

空模様が一変するのに時間はかからなかった。やけに冷たい風が吹いてきたので空を見上げると、いつの間にかねずみ色の雲が空を覆い尽くしていた。湿気が強くなって、足元の生ぬるい空気と冷たい風が混ざり合い、不快感が増していく。ぽつりぽつり、雨粒が落ちる。そして雨は突然手のひらを返したように強く降り始めたのだった。

一緒に帰宅していた三井とは走った。

「うちの方が近いな、ちょっと走るぞ、いいな」
「ごめん、お願い! もうやだー!」

今日の関東地方は梅雨晴れ、貴重なお洗濯日和になります! そういう予報だった。確かに朝から太陽が覗いて、しかし梅雨時期らしく高温多湿のじめじめした1日だった。見ればどこの家もベランダに洗濯物が翻っている。そんな日だったから、ふたりは傘を持っていなかった。

ふたりは雨の中を駆け出す。それを追いかけるように雨の勢いは強くなるばかりだった。

「あー、ひっでえ」
「ほんとにひどい。泣きそう」

それでもまだ雨がひどくならないうちにふたりは三井家に辿り着いた。ふたりが玄関に駆け込んですぐ、更に雨は勢いを増して、雨樋から溢れ出る雨水の音でうるさいほどだった。

「まあでも、場所が変わっただけと思えばいいよね」
「よくねえだろ、制服どうすんだそれ」

三井とは同じ中学出身、高校1年の時に同じクラスで、3年になってまた一緒になった。中学と合わせて3年同じクラス。だが、三井の場合、不貞腐れていた時間が長いので、こんな風に普通に話せるようになったのは本当に最近のことだ。

それに、喧嘩三昧のヤンキーから熱血バスケット部員へと超展開の更生を果たした彼の場合、校内に気楽な関係の友人は少なく、は貴重な存在と言えた。その上、ろくに勉強をしてこなかったツケは確実に回ってくる。はそれを助けてくれるという。

もちろんどちらかの家でやろうなんて予定ではなかった。は図書室を提案したけれど、三井は校内が嫌だったので、地元駅のファストフードに向かった。が、そこもテストが近い高校生だらけで、また三井が嫌がった。そんなわけでふたりはごく地元のファミレスに行こうとしていたところだった。

「言うほど濡れてもないけど、ま、そのうち乾くんじゃない?」
「バカ、風邪引くだろうが。何か貸すからちょっと待ってろ」
「えー、いいよ、悪いってー」

の声を背に、三井は階段を駆け上がって自室へ飛び込む。そうは言うが、夏服のシャツはすっかり濡れてしまっていたし、三井家は生憎、乾燥機がない。が、幸い、部に戻ってからは日々の練習に大量のTシャツが必要なので、新品の買い置きがある。

部屋に飛び込んだ三井は、部屋があまりに散らかっているので一気に慌てた。部屋に入れる必要はないのに、なんとなく恥ずかしい。新品とはいえ、そんな部屋に置かれていたTシャツを貸すのもどうなんだろうという気がしてくる。

急いで玄関に戻ると、は濡れた髪を手櫛で整えていた。薄暗い玄関にの白い首筋がぼうっと光って見える。なんでこんなことになった。三井は意識に蓋をしてを促す。リビングならまあいいだろう。自分の部屋のように散らかってない。

「これ、新品だから」
「えー、いいのに。ごめんね」

リビングに通されたは、タオルとTシャツを受け取ると、ちょっと困ったように微笑む。そしてくるりと庭に面した窓に向かい、するりとベストを脱いだ。濡れてしまったシャツが肌に張り付き、細い下着の線を浮かび上がらせる。三井はついそれを凝視していた。

……ずっと見てるつもり?」
「は?」
「着替えたいんだけど」

振り返ったの頬は雨の空色を受けて青灰色に染まっていた。三井は何も言わずに180度方向転換をするとキッチンに飛び込み、シンクの縁に手を付いてがっくりと項垂れた。

オレ、なんでこんなにテンパッてんだよ……

リビングの方から衣擦れの音が聞こえてきていて、それが耳に纏わりつく。

「終わったよー」

の声に頭を振って雑念を払い、三井は殊更につまらなそうな顔を作ってキッチンを出た。

「それ、別に返さなくていいから」
「え。ちゃんと洗濯して返すよ、何時間かしか着ないんだし。てか、三井も風邪引くよ」
「あ、ああ、そうだな、適当にその辺座っててくれ」

三井はリビングを早足で出る。そしてまた部屋に駆け戻り、勢いよく制服を脱ぎ捨てた。大きく息を吐いてタオルで髪をかき回し、既に部活で何度か使用しているTシャツに着替える。普段ならTシャツにパンツのままということもあるが、今日はそうもいかない。

クローゼットから引っ張り出したジーンズは、部に戻って以来、ほとんど穿いていなかった。喧嘩と夜遊びの名残があるジーンズは少し重かったけれど、それも大きく息を吐いて振り払い、教科書やらを手にリビングに戻る。

「お、私服初めて見たかも」
「そりゃそうだろ」
「ああそうか、1年生の時の遠足、行かれなかったからね」
「遠足? そんなものあったか?」

リビングのソファの端にちょこんと腰掛けているは、また困ったように微笑んだ。

「入院、してた頃だから」
「ああ、なるほどな。てか遠足って私服で行くのか」
「遠足って言っても、浅草観光だけどね」
「へえ」

その入院以来三井は学校行事などろくに参加していない。修学旅行は一応行ったけれど、面白くなかったのであまり記憶がない。部に復帰するまでの三井の日々は学校の外が中心になっていた。

「偉い、教科書ちゃんと持ってきたね。じゃ、やろっか」
……寒くないか」
「うん、平気。てか見てよ、Tシャツぶかぶか!」

はへらへらと笑っているが、三井はまた意識がグラグラと揺れ始めて、手にしていた教科書をテーブルに投げ出した。3年生に進級して以来ろくに開かれたことのない教科書はとてもきれいだ。三井は大きなTシャツでスカートまで隠れそうなを見られなくて、目を擦る。

自分は一度も着たことのない新品のTシャツなのに、彼服に見えてくる。

そればかり目に入っても困るので、三井は向かい合わないよう、テーブルの隣の辺に腰を下ろした。それに合わせてもソファからずるりと滑り降りて床にぺたりと座る。

「テストはしょうがないけどさ、体育館は雨でも練習できていいよね」
「まーな」
「あ、そっか、今年インターハイ行くバスケも柔道もどっちも室内競技だ」
「だからってわけじゃねえだろ」
「でも雨に練習邪魔されないのは得じゃない?」

の方を見られない。制服のシャツに透けた下着の線がありありと蘇る。

三井の場合、そこそこハードにグレてはいたけれど、女遊びの方はそれほどでもなかった。というか普通の女は基本的に寄ってこないし、類が知り合いの知り合いを呼ぶような人種しか知り合いは増えなかったし、別にグレたギャルが好きでグレてたわけじゃない。

範囲の確認をしているのぼそぼそ言う声ですら、なんだか可愛い。

「インターハイってどこでやるの?」
「今年は広島」
「遠いねー。何試合くらいするの」
「えーと、優勝すれば7とか、そんな」
「えっ、そんなに長いんだ! わー、夏休み潰れちゃうね」

雑談に適当に応えながら三井は考える。オレはが好きなんだろうか。好きと言われれば好きというような気もする。だけど、好きだから大事にしたいから、不用意に手は出したくない、とかいう感情はなさそうだった。にくっついてみたい。

「その前に合宿もあるし、インターハイで終わりでもないし」
「そっか、忙しいんだねー。夏祭りとか行かないの?」
「そ、ういう予定は特には――

こいつと一緒に行きたいのかオレ? まさかな。範囲の確認が終わったが、教科書とノートを広げるよう促すけれど、三井のノートなど真っ白だ。名前すら書いてない。

「三井はさ、進路とかどうするの」
「あー、まあ、スカウトとか来ねえかな、と」
「スカウト!? 何の!?」
「え!? バスケだよ!」

芸能人か何かと勘違いしたらしい。背を伸ばして目を丸くしたは、顔を逸らして吹き出す。

「じゃ、進学ってことか」
「お前はどーすんだ」
「専門。湘北は専門が多いよねー」

意識してしまったからなのだろうか、三井は卒業後の進路が同じでないことを寂しく感じた。とはいえ自分だってバスケットで進学できるかどうかなんて決まったわけじゃないし、インターハイで優勝すればあちこちから声がかかるんじゃないか、なんて淡い期待があるくらいだ。

「じゃあここからね、ってノート真っ白だな! 最初から行きますか……
「す、すまん」

真っ白なノートを覗きこむの首筋が三井を混乱させる。こんなんで勉強になるんだろうか。

何も彼はこの期末テストで上位に入るのが目的ではない。だが、バスケット部は部長副部長が文武両道で、そのふたりと唯一の同学年である三井は少々プライドが高く、どうせ部活も出来ない上に雨なら勉強してもいいかなと思ってみただけなのである。

それに、貴重な「友達」であるが教えてくれるというので、それが少し嬉しかっただけなのだ。

「だけど三井って中学の時、普通に勉強してたよね?」
「そりゃまあ、あの頃バスケ部は厳しかったし、成績悪いとすごく怒られたからな」
「じゃあ大丈夫、やる気があれば出来るってことだよ」

の優しい声に心がざわつく。これが普通にファミレスかなんかで出来たなら、こんな風に動揺したりせずに済んだのに! とはいえ雨は止む気配がないし、は一生懸命教えてくれるけれど、そのせいで身を乗り出していて顔が近いし、そんなことばかり気になってちっとも頭に入らないし。

……でもさ、偉かったよね、普通自分の意志で戻って来られないよ」
「そんなこと……
「一緒に湘北入ったの、確か12人いたはずだけど、ふたり退学しちゃったし」

は顔を上げて少し遠い目をした。

「連休明けの頃に急に髪切って来た時はびっくりしたけど、すごいなーって思ったよ」
「別に、すごいとか、そんなんじゃ、ねーよ」
「中学の頃は褒められるの大好きだったのに、ずいぶん謙遜するようになっちゃったねえ」

ニヘッと笑うの頬が可愛くて、三井は余計に混乱する。

「広島はさすがに無理だけど、見られる試合とかってないの」
「え? ああ、しばらくは……。あるとすれば冬の予選か、練習試合でもあれば別だけど」
「もしあったら教えてよ、見てみたい」
……あればな」

動揺しているのを悟られたくなくて、三井はどんどん無愛想になる。それなのに、は態度を変えない。本当に普通に、まるで三井が道を逸れていたことなど、なかったみたいに、昔のままで。

「あ、ごめん、図々しかったよね、あはは」
「は? 何が」
「いやその、怒ったかなーと」
「何で」
「顔怖いから」

は苦笑いだ。三井は焦る。そんなつもりじゃない。ただとんでもなくテンパッてるだけなのに。

「別に怒ってねーよ。ただまあその、ちょっと恥ずかしいっつーか」
……なんか変わったねえ、昔は盛り上がれば盛り上がるほど力出るって言ってたのに」

今でもそういう時はある。けれど、中学生の頃のように自分をスーパースターだと心から思えない。自分を鼓舞するためにもオレはエースだ、誰よりも上手いと言うけれど、それをいつもどこかで疑っている。不貞腐れていた時間がそういう心を育ててしまった。

グレていた間もそれなりに楽しかった。だけど、ああして不貞腐れていなければ、とも、もっとたくさんこんな風に過ごせたかもしれないと思うと、後悔のスイッチが入る。

「あの、大丈夫? なんか私変なこと――

具合が悪いようにでも見えたか、は三井の方へ少しにじり寄ると、テーブルの上に置いてあった彼の腕に手のひらをのせた。瞬間、三井はその手を払いのけた。

「わっ、ご、ごめん」
「え!? いやそうじゃなくて!」
「えっ、何が!?」
「は!?」

どっちもパニックだ。が、はスッと息を吸い込むと、テーブルの上の教科書やノートをバッグに詰め込んで勢いよく立ち上がる。そしてバッグをギュッと掴むと、ぎこちない笑顔を作る。

「私、帰るね、なんか変なこと言ってごめん、これちゃんと洗って返すから。また明日ね」

スタスタとリビングを出て行く、しかし窓の外は未だに土砂降りで、その上何だか勘違いばかりで、三井も勢いよく立ち上がると、を追いかけ、リビングを出た所で捕まえた。三井は何も考えずにの肩に手をかけて引き寄せた。

「ちょ、え!?」
「ごめん、オレが悪い! だからその、ええと」

完全に勢いなので言葉が続かない。の方も、まさかの抱き寄せに固まっている。

「別にお前が何か変なこと言ったわけじゃないし、怒ってもいないし、だから――

を抱き寄せていた三井の腕に、の指がそっと触れた。いよいよ激しさを増す雨音の中で、三井はもう上手に言い訳を作るのは無理だと思った。それは本当の気持ちなんかではないから。

の肩を掴み、くるりと回転させると、断りも入れずに抱き締めた。

――――ごめん」
「あの、ねえ、これって」

背中にそっと伸びてくるの指先がくすぐったい。三井は意を決して引き剥がすと、息を呑んだ。

「悪い、なんかちょっとオレもよくわからん」
「わかんないの!?」
「わかんないっていうか、どういう風にすればいいのかさっぱり」
「どういう風にって、何を」
「ええと、今のこの状況」

要するにいっぱいいっぱいなんだと言いたいのだけれど、伝わらない。が鼻で笑う。

「私もわかんないや」

わからないけど、衝動は容赦なく襲い掛かってくる。三井はまたゆっくりとを引き寄せた。

「あのさ三井」
「え?」
「私もわかんないからいいけど、1週間くらいでやっぱり飽きたとか言ったら頭丸刈りね」

が急に厳しい声色になったので、今度は三井が鼻で笑った。

「あと、私は普通に前から好きだったからね!」
「は!?」

がなんだかもじもじしているので、三井はゆっくり顔を近付けてみた。薄暗い部屋とどんよりした空の色でわかりづらいけれど、の頬は薄っすらとピンク色に染まっている。

……でなきゃ一緒に勉強しようとか、言わないでしょ」
――

へえ、そうなんだ。急展開過ぎて、三井はそのくらいの感慨しか湧いてこなかった。けれど衝動は消えてないし、何も言わなかったけれど、は少し爪先立っているし、その目はちらちらと揺れている。息がかかりそうなほどの距離まで顔を近付けると、の瞼も一緒に降りていく。

もう、雨の音しか聞こえない。

重なる唇が熱い。ぴったりくっついているはずなのに、雨の音がうるさくて、何も聞こえない。ただ少しの吐息と自分の鼓動だけに包まれる。勢いを増す雨に暗くなっていく部屋、三井もも、もうお互いの顔を見ることしか出来なかった。勉強なんか出来そうもない。

そして翌週、三井は見事赤点を4つ叩き出した。

END