サマーレイン [木暮]

空模様が一変するのに時間はかからなかった。やけに冷たい風が吹いてきたので空を見上げると、いつの間にかねずみ色の雲が空を覆い尽くしていた。湿気が強くなって、足元の生ぬるい空気と冷たい風が混ざり合い、不快感が増していく。ぽつりぽつり、雨粒が落ちる。そして雨は突然手のひらを返したように強く降り始めたのだった。

一緒に帰宅していた木暮とは走った。

時間大丈夫か、傘貸すからうち行こう!」
「ごめん、お願い! もうやだー!」

今日の関東地方は梅雨晴れ、貴重なお洗濯日和になります! そういう予報だった。確かに朝から太陽が覗いて、しかし梅雨時期らしく高温多湿のじめじめした1日だった。見ればどこの家もベランダに洗濯物が翻っている。そんな日だったから、ふたりは傘を持っていなかった。

ふたりは雨の中を駆け出す。それを追いかけるように雨の勢いは強くなるばかりだった。

同じ中学出身で自宅の近い木暮とだが、帰りが一緒になったのは偶然だった。普段は部活ばかりで帰りの遅い木暮だが、テスト前なので授業が終わるとまっすぐに帰路についていた。すると最寄駅の書店の前でと遭遇、そのまま一緒に駅を出た。

今はクラスも違うのであまり話す機会のなかったふたりは、わいわい喋りながら帰り道を歩いていたのだが、そのせいか、頭上で渦巻く雨雲にはまったく気付かなかった。の頬に雨粒が当たって気付いた時には既に遅し、すぐに土砂降りになった。

「今日は降らないって言うから傘持ってこなかったのに」
「学校出る時は晴れてたのにな」

走って飛び込んだ木暮家の玄関でふたりはげんなりしてため息をついた。夏服がずぶ濡れでポタポタと雫が落ちている。もちろん靴もびちょびちょ。のローファーから雨水が溢れ出る。

「これじゃ傘があっても役に立たないね。木暮、ごめん、ちょっと雨宿りさせて」

言いつつ、は玄関先にちょこんと腰を下ろした。

「いや、何言ってんだ、そのままでいたら風邪引くぞ。テスト前なのに」
「えっ、だけど私着替えなんか持ってないよ」
「何か貸すよ。オレので悪いけど、風邪引くよりいいだろ」

玄関を入ってすぐがバスルームらしく、木暮はそこから乾いたタオルをポンポン放り投げてくる。

「それともシャワー入る?」
「そこまでしなくてもよさそう。シャツはやられちゃったけど」

湘北の女子の夏服は半袖シャツにベストなので水の染みこみが悪かったようだ。シャツの肩や袖部分は色が変わるほど水を含んでしまっているけれど、中身は無事らしい。

「じゃあ、ジャージでどう? 湘北バスケ部ジャージ」
「えっ、いいの!? あれかっこいいよね、赤と黒で」
「今用意してくるから待ってて」

メガネが水滴だらけの木暮はそう言うと階段を駆け上がり、すぐに戻ってきた。

「これ、今年作ったばっかりの方だからまだきれいだよ、洗濯してあるし」
「あはは、そんなの気にしないって。ありがと、これなら帰れるよ」
「傘も貸すし、雨が落ち着くまで雨宿りしていきな」
「うん、そうする」

がバスルームに入ると、木暮も部屋に戻って着替える。はベストのおかげで被害が少なかったようだが、木暮の方はシャツ一枚なのですっかりやられてしまった。着替えを済ませて戻ると、ちょうどもバスルームから出てくるところだった。そして、出てくるなりブハッと吹き出した。

「えっ、何!?」
「ご、ごめ、何そのTシャツ」

木暮は部活中に変なプリントのTシャツを着ていることで知られている。それがダイレクトに出てきたので、はつい吹き出してしまった。今日は黒字に白抜きであまり可愛くない犬の顔がプリントされている。なのに犬のイラストの下には「cute」と書かれていて、余計におかしい。

「母親に適当に頼んでるんだけど、何買って来てもオレの反応が薄いもんだから」
「ああ、エスカレートしちゃってんのね……
「だってどうせ部活で酷使してだめになるんだし、柄なんか何でもいいし」

立ち話も何なので、と木暮に促されたはリビングに通された。

「雨ひどいなー、これ梅雨の雨じゃないよね」
「最近こういう雨多くて怖いよな。なんか飲む?」
「わ、ありがと、いただきます」

リビングのテーブルについたは、タオルで髪を叩いている。

「ドライヤー使わなかったのか。寒かったら言いなよ」
「平気、てかむしろ少し暑い。湿気ひどいねー」

ジュースをペットボトルごと持ってきた木暮はにグラスを差し出すと、長方形のテーブルに並んで腰を下ろした。テーブルに沿うように置かれているソファに寄りかかり、ペットボトルのキャップをひねる。

「除湿かけようか。確かにベタベタしてて気持ち悪いよな」
「ごめん、助かる〜」
「いいって。雨も全然落ち着かないしな」

エアコンをつけ、除湿モードに切り替えると、ひやりとした風が吹き出してくる。ジュースをもらったはその風を感じながら、またニタリと口元を歪めた。

「今度は何」
「いやほら、普段木暮って前髪じゃん、だけど今オールバックみたいになってるから、つい」

雨に濡れた髪をタオルでガシガシと拭いて、かき上げたままになっていた。途端に途端に照れた様子で木暮は髪をぐしゃぐしゃとかき回す。

「わ、ちょ、別におかしいなんて言ってないよ、似合ってるって!」
「いやそんなつもりじゃないよ、ただほら、改めて言われると恥ずかしくて」
「そんなことないのに。てか部活忙しいのはわかるけど、ほんとに洒落っ気ないよね」

湿った前髪が垂れてきたので、は言いながら指を突っ込み、またかき上げさせた。木暮は驚いて目を丸くしていたけれど、また照れた様子で頬をむずむずさせている。

「だって部活中にオシャレしたって意味ないじゃん」
「それはそうなんだけどさ。ジャージはこんなにかっこいいのにねえ」
「数名を除いてジャージに負けてるってのはよく言われる」

特に今年は見栄えのするのがいるので、地味な部員はそんな風にからかわれがちだ。

「ああ、三井のこと?」
「も、そうだし、1年にもエラくモテるのがいるからな」
「へえー! 大丈夫大丈夫、木暮だってちょっといじったらもっといい感じになるよ」
「はあ!?」

驚いて声がひっくり返った木暮だったが、はしかし、腕組みでうんうんと頷いている。

「あのね、メガネフェチって多いんだよ、ほんとに!」
「ああ、まあそう言うよな」
「もっと自信持ちなよー! インターハイ行くんでしょ、もしかしたら超モテるかもしれないじゃん」

一応テスト前なので、は教科書を引っ張りだしながらそんなことを言う。木暮は苦笑いで返してやりつつ、また前髪をぐしゃぐしゃにしてしまった。普段部活ばかりでこんな風に女の子と喋る時間の少ない彼にとって、どう反応するのが正解なのかはよくわからなかった。

「すごいよねバスケ部。バスケ部っていうか木暮と赤木がすごいんだよね?」
「いや……赤木はともかくオレは」
「どうして? ふたりでバスケ部守ってきたんでしょ。三井なんかへそ曲げてグレてたんだし」

たしかにそれは事実だが、インターハイということにおいては、自分が大いに貢献できるとは思っていない木暮は、また苦笑い。激しい雨の音を聞きながら、なんと答えたものかと考えていた。その時。

「キャー!」

順番で言うと、まず稲光が窓の外から差し込み、一瞬世界が真っ白になったかと思うほど光った。そして次の瞬間、雷鳴というより電気の破裂音とでも言いたくなるような轟音が落ちてきた。その衝撃で窓ガラスがビリビリと震えた。そして気付いた時には、木暮は床の上に転がっていて、腹の上にを乗せていた。

木暮はまさに目を白黒、ズレたメガネを押し上げながら、一体何が起こったのかとあたりをきょろきょろ見回していた。見ればは目をギュッと閉じて木暮にしがみついていて、雷に驚いて押し倒した様子だ。確かにすごい光と音だったけれど……

、大丈夫だよ、家の中にいれば何もないから」
「ううう雷怖いよー!」
「大丈夫だって、ほら、平気平気」

肩をポンポンと叩いてやるが、は木暮の体を締め上げるばかりで解放してくれない。

木暮は腹にの体の線を感じて息を呑む。制服のシャツとベストが濡れてしまったは下着の上に直接ジャージを羽織っている。そのせいでなんだか妙に感覚がリアルだ。その上、首を起こしていた木暮の目に、スカートから伸びるの素足が飛び込んできた。これはマズい。

今にも疼きそうな腹にありったけの力を込めると、木暮はごと無理矢理起き上がる。急に木暮が起き上がったので、はずるりと滑り落ちて、そのまま床にべしゃりと潰れた。

「うわ、ごめん」
「お父さん雷怖いよー!」
「お父さんかよ!」

うつ伏せで寝転がったまま、は足をばたつかせている。

「子供じゃないんだから雷くらい我慢しなよ」
「雷怖いのに大人も子供もないと思うけどな」
「じゃあレディならそんなところに転がってないで起きなさい」

そう言われたは、またニタリと笑いつつ、むくりと起き上がった。確かにレディなら床に転がって足をバタバタはやらないかもしれない。

が大人しく起き上がってくれたので、木暮はホッとしていた。まだ胸にドキドキが残っている気がする。そして行き場のない緊張はまた前髪をかき回すことで発散するしかなかった。

「んもー、色気なーい」
「そんなものいらないだろ」
「ふん、どうせ私は色気ないですよーだ」
「そんなことも言ってないってのに」

また遠くでゴロゴロと雷が鳴っているようだが、これだけ遠ければもう怖がらないに違いない。木暮はまたホッとしてジュースを少し飲み、携帯を取り上げた。テーブルの上にの教科書はあるけれど、自分のものは全て部屋に置いてきてしまった。これは取って来るべきだろうか。

は何やらブツブツ言いつつ、稲光が窓の向こうに光るたびにびくりと肩を震わせている。

普段体の大きな部員たちが着ているところばかり見慣れている木暮は、の体をだらりと覆っている湘北ジャージを眺めていた。自分が着ているものだけれど、こんなに大きかったか? はそんなに小さかったか? 制服ではあまりよくわからない。

そして、床の上にそっと置かれているの指先が薄暗い部屋にぼうっと白く浮かび上がっていて、生きている人間の手ではないような気がした。見慣れた部員たちの巨大な手とは大違い。小さくて柔らかそうで、赤木あたりが本気を出せば粉々に粉砕できそう。

「えっ、何?」
「え、何が?」
「いやそれ、どうしたの」

の声で我に返った木暮は、彼女の視線の先を目で追いかけた。いつの間にか、自分の指がの指を絡めとっていた。一気に血の気が引く。

「うわ、ご、ごめん!!」
「いやいいけど、やっぱり木暮も怖いんじゃないの?」
「いやそうじゃなくて、ほんとにごめん」
「別に怒ってないって。てかそんなに謝らなくても……逆に傷つくよ」

はぷいと教科書に目を戻し、木暮に取られていた手をポケットにしまいこんでしまった。

木暮はまた慌てた。逆に傷つく!? どういう意味!? 無意識に触っちゃって、女の子はそんなの普通嫌だろうと思ったから、謝っただけなのに……

……あのさ、オレそういうのよくわからなくて、何か気に障ったんならごめん」
「だから別に怒ってないって」
「だけど傷つくんだろ」

は木暮の方を見ずに小さくため息をつくと、その場で座り直して向かい合った。

「私もよくわかんないよ」
「何が?」
「木暮の考えてること」
「えっ?」

思わず首を突き出して目を剥いた木暮に、は少し笑う。

「なんかさ、期待しちゃったんだよね。まあ、私の勝手な思い込みなんだけど」
「ええと……
「だって、家に入れてくれて服貸してくれて、それで触られたからもしかしてーって思っちゃって」

まだ木暮がきょとんとした顔をしているので、は俯いて顔を逸らした。

「さっき、なんで、手に触ったの」
「いやあのそれは」
「別に怒ってないんだから、ちゃんと教えてよ」

木暮も少し俯いて、しかしの言葉に誘われて彼女の手を見つめていた。

「きれいだなって……思ったから」

が顔を跳ね上げ、そして、静かに手を伸ばした。木暮の目の前にの指先が近付く。

「それは、どっちかっていうと、嬉しいので、よろしければどうぞ」
「どうぞ、って……

しかし木暮はその手を下からそっとすくい上げ、優しく包み込んだ。少し冷たくて、しなやかな手だった。小さな爪は優しいピンク色をしていて、包み込む手に力を込めると、ぴくりと跳ねた。その指に唇で触れてみたい、そう言葉で考えたわけではなかったけれど、引き寄せられるように顔を近付けた。

「あ、ちょっと待った」
……うわ、また! ごめん、こんなことするつもりじゃ」
「やめろなんて言ってないでしょ、待ってって言っただけ」

だが、また無意識に体が動いてしまって木暮は半ばパニックを起こしていた。慌てての手を放り出そうとしたけれど、逆に掴まれてしまって、もうわけがわからない。

「あのさ、結局どっちなの?」
「どっち!? 何が!?」
「そこまで言わないとわかんないの!?」

わかんないよ! とは言えなかった。はまた小さくため息をついた。

「ジャージ貸してくれたり、手に触ってきたり、しかも今ふたりっきりで、そういうのってもしかして『いい感じ』っていうやつなのかなって、思っちゃうじゃん。だったらちゃんとそう言って欲しいのに、ごめんとかそんなつもりないとか、じゃあどういうつもりなのよ、って……

さしもの木暮もやっと気付いた。だが、それは彼にとっては「まさか」の事態で、動揺を隠せない。

「そりゃしょうがないだろ、そういうのが嫌かもしれないんだし」
「私嫌なんて言ってないじゃん。言ってもいないのに決めつけないでよ」
「決めつけてないよ、そうだったら悪いなって思っただけで――

グズグズと言い合いをしていたふたりだったが、突然は膝立ちになって木暮に飛びついてきた。

!?」
「いくら雨がひどいからって! 嫌だったら普通家になんか来ないから! 服も借りないから!」

ジャージ一枚を隔てたの体の感触が木暮を追い立て、何も言わずにギュッと抱き締めた。

……いいの?」
「いいの!」

いよいよ勢いを増す雨の音の中、木暮はを抱き締めたままころりと倒れ、音もなく唇を寄せた。の指が前髪に滑り込み、何度もかき上げる。

……もしかして、もメガネフェチ、とか?」

だがはそれには答えず、木暮のメガネを取り払うと、ふにゃりと笑ってもう一度キスをした。

END