幸運の僕

1

「雨漏りなんて昭和じゃあるまいし」
「昭和じゃなくたって雨漏りはするだろ。しかも雨漏りじゃない」

は後ろ向きに椅子に座り、背もたれに肘をついてむくれている。それをすぐ後ろの席でポケットに手を突っ込んだまま足を組んでいる牧は静かにツッコミを入れる。

牧の言う雨漏りでないのは体育館のことだ。雨漏りではなくて水漏れ。トイレの手洗い場の蛇口が劣化して破裂したのは4時限目が始まった頃だったらしい。折り悪くその時体育館は未使用、昼休みに入るまで誰も噴水のごとく水が噴出しているのに気付かなかった。おかげで体育館は溢れ出た水で水浸し、というわけだ。

修理は明日になるということだったが、地元の業者が駆けつけてくれて応急処置をしている。そのせいで部活が始められない。はそれでむくれている。

「1年が掃除してくれてるんだし、そのくらい我慢しろよ」

部活を早く始めたいのはだけではない。業者に任せていたら何時間かかるかわからないので、水浸しの体育館を拭き掃除するという役割を仰せつかったのは、バスケット部の1年生たちである。そんなわけで3年生のと牧は悠々と掃除が終わるのを待っている。

「ただ待ってるのもつまんない」
「じゃあ一緒に掃除してくるか?」
「それもやだ」

は足をバタバタさせている。普段なら授業が終わったその足で部室に向かい、今頃は忙しくしている時間帯なので、余計に退屈だ。このクラスでバスケット部はと牧のふたりだけなので、さらに退屈度は増す。

「本当に落ち着きがないな、子供じゃあるまいし」
「何よう、この間OBとか言われたくせに」
「赤木の方がフケてるって言ったろ」

数日前のインターハイ県予選決勝リーグ1戦目の時、牧は対戦相手にOBと間違われた。身長が高い上に鍛えていると骨格も頑健になる。勢い顔は実年齢よりも上に見えてしまいがちだ。ただし、牧は一貫して対戦相手の主将の方が老けていると主張している。

「フケてるっていうかさ、牧の場合はそれがいけないんだと思う」

は人差し指をピンと立てて、牧の頭を指した。ややゆるいが、リーゼント風のオールバックだ。

「確かになぜか先輩たちもリーゼントの人多かったし、武藤もそうだけど、オールバックは老けるよそりゃ」
「髪型なんか関係あるのか?」
「あるよ! 一髪二化粧三衣装って言うじゃない」
「それは女のことだろ」
「同じだよ!」

は勢いよく立ち上がり、バッグの中から櫛を取り出した。

「おい、何する気だ」
「イメチェン」
「いやいいから、そんなの」

苦笑いで手を挙げて拒否した牧だったが、はお構いなしである。座っている牧の頭を掴んで櫛を入れようとする。だが、整髪料で固められてしまっている髪に櫛は入らない。は今度はタオルを取り出し、教室の隅に置いてある電動ポットに駆け寄る。コンセントが抜かれてぬるいお湯にタオルを浸して戻る。

「そんなことしなくたって部活やってりゃ崩れてくるよ」
「いいから頭貸せ」

仄温かいタオルを牧の頭に被せると、はマッサージするようにしてリーゼントをほぐし始めた。

「あれ、なんか気持ちいいな」
「お客さ〜ん凝ってますねえ、お痒いところはございませんかあ」
「なんか色々混ざってるぞ」

湿気で整髪料が緩み、固まっていたリーゼントがへなへなと崩れる。はタオル越しにくしゃくしゃと髪をかき混ぜ、手櫛を通してみる。まだ少し塊があるが、柔らかいので櫛も通りそうだ。

「少し前髪下ろした方がいいよ。その方がモテるって」
……別にそんな必要ないけど」
「なんだとう、余裕だな! うらやましいじゃんかこのー」

は櫛で分け目を変えてみたり流れを変えてみたり、牧の髪を弄りまくっている。

あまり気に入った形に至らなかった様子のは、結局部活終わりの崩れたセンター分けに落ち着いた。さくさくと左右の髪を梳かしているの手を牧が掴む。

「これでもう満足だろ」
「本当は色ももっと明るくてもいいんじゃないかと思ってますキャップ」
「なんで今日はそんなに構うんだよ。……また振られたのか」

へらへらと笑っていたの声が途切れる。図星のようだった。

……またかよ。今度は誰だ」
……内緒〜」

掴まれたままの手を押し返し、はそのまま牧にもたれかかった。センター分けになった牧の頭に顎を乗せて、だらりと寄りかかる。牧はその脱力した手をぽんぽんと叩いてやる。

「お前はいっつも大して好きでもないくせに突撃するからそういうことになるんだ」
「なんでそんなことわかるのさ」
……そんなの見てればわかるだろ。ミーハーなんだよ」

は1年生の時に対戦相手に突撃し、振られるのはもちろんのこと、その場で懇々と説教されて帰ってきたという伝説の持ち主だ。その時も振られて帰ってきたを慰めて愚痴を聞き、バカなことをするなと諭してやったのは牧である。

「毎回言ってるだろ、ちゃんと自分の気持ちを確認してからにしろって。相手にもわかるんだよお前の軽さが」
「だって〜もう3年だしさあ〜結局私一度も彼氏出来ないまんまだし〜」

こうしてぐずぐず言っては牧に諭され、しばらくすると同じことを繰り返す。

「この前はバレー部、その前は陸上部、さらにその前はええと、そうだ珍しく文化部だったな、吹奏楽だ」
「何でそんなこといちいち覚えてんのよー! 文武両道ずるいよ頭ちょっと分けろ」

中間くらいの位置とは言え、あまり芳しくない成績であるは勉強の面でもたまに牧の世話になる。

牧の胸にだらりと腕を垂らしているはぶつぶつ文句を言っている。その下で牧はため息と共に困ったように微笑む。彼氏が出来ないまま3年目のがぐずぐず言うのを聞き続けて牧も3年目だ。1年生、入学したばかりの頃から部活で一緒になり、直後にが伝説を残し、それ以来ずっと繰り返している。

……今度はけっこう好きだったんだもん」

珍しく鼻を鳴らしている。だらりと垂れた手が牧の胸で組み合わされて、ギュッとひとつになる。

「なんでみんな同じこと言うんだろう」
「同じこと?」
「みんななんでか『お前、ふざけてんの?』って言うんだよ」

牧はその言葉にこっそり吹き出す。これまでが突撃してきた男子諸君たちには確かにはふざけているように見えただろう。何しろこんな体たらくではあるが、全国にその名を知られた海南大附属バスケット部のマネージャーである。社交的で猪突猛進の気があるは全国の有名選手にも顔が利く。

それ以前に、その有名選手が牧である。その牧に言いたい放題やりたい放題、部活の中ではともかく、友人としては完全なる対等、もしくは若干牧が下という有様。その状況でも牧は何も言わない。どんなにがわがままなことを言っていても、適当にあしらいつつ言うことを聞いている。

牧の方にへの好意があると思われるのは当然の結果だろう。

それがフワフワ浮ついた顔をして告白などしてくるものだから、特に運動部の人間にはふざけているように見えるだろう。お前あんな大物横に置いてよくもまあそんなこと言うよな。そうはっきり言わない男子諸君は実に紳士的で親切だ。そういう意味ではは人を見る目に優れていると言っていい。

つまり、が振られる遠因は牧だ。

牧はそれをわかっているが、だからといってを遠ざけるような真似はしなかった。が中途半端な気持ちであちこちに突撃しているのはわかっていたし、もし本当にが誰かに本気になったのなら、それは伝わるだろうから。そして自分からも離れていくだろうから。

しかしの言う3年という言葉が牧の心にチクチクと刺さる。ただ無心で追い求めていた頂点の向こうにまだまだ長く続く階段が透けて見え始めている。高校生活は、終わるのだ。そして牧はを海南に残して巣立って行く。

牧がいなくなった世界でもは突撃しまくって振られまくって、同じことを何度も繰り返すだろう。けれど、牧がいないことで周囲はを「ふざけている」とは言わなくなるだろう。その中にはと付き合ってもいいと思う猛者もいるかもしれない。これはこれでは可愛い女だから。

、そんなに彼氏欲しいのか」
「そりゃあ欲しいでしょ〜」
「部活忙しくて会う時間もないんじゃないのか」
「牧たちほどじゃないよ、マネージャーだし。てか一緒に帰ったりとか、したいじゃん」

の願望自体はささやかなものである。高校生であるうちに高校生同士の恋愛をしたい。ただそれだけだ。

「じゃあ今日、一緒に帰ろうか」

牧は自分の胸の前で固く組まれているの手を片手でくるみ、静かに言った。

……んっ?」

言葉の意味するところがわからなくて眉がひしゃげているが容易に想像できる。牧は少し下を向いてまたこっそり笑った。きっとにとってこれは「ふざけている」ことになってしまうかもしれない。それでもこの手をこうして包み込んでいられる時間はもうそう長くはないから。

「同じ部活なら時間は問題なさそうだよな、どうせ一緒なんだし」

不思議なことにはバスケット部の部員には一切突撃しなかった。そこに意味はあるのか。

「えーっと、牧、何言ってんの?」

わかりにくい表現になってしまったのはたまたまだ。にもわかるように言ってやらねばなるまい。

「簡単なことだよ、お前の失恋につけ込んで口説いてる」

これ以上ない簡潔な言葉には慌てて牧から離れた。牧の後ろの席にブチ当たって派手な音を立てる。牧が振り返ると、はまん丸な目をして倒れかけている机を両手で抱えてプルプル震えている。体を変に捻って机を支えているので、無理がある。牧は手を伸ばして机を立て直してやる。

「オレももう、お前が振られて来ちゃ慰めるの、いい加減嫌だし、丸々2年も我慢してきたんだし」
「え、なに、夢?」
「夢じゃねえよ、水漏れで待機中、これから部活」

少し上半身を捻った体勢のままではまだ丸い目をしている。そのの手を牧が掴んで引き寄せる。

「オレはお前と違って軽々しくこんなこと言わないからな」
……うん、知ってる」
「それにオレは確実にお前をここに置いて行く」
「それも……知ってる」
「だから言わないつもりだったんだけどな。お前が振られた腹いせに構ってくるから」
……ごめん」

は魂でも抜かれたみたいに牧の言葉に頷いている。脳の処理能力が限界を超えてしまったのだろう。

「幸いまだ6月で、時間は少し残ってる。丸々2年お前の愚痴に付き合ったんだ、残りの時間、くれよ」

両手を取って少し持ち上げ、の顔を振り仰ぐ。身長には大きく隔たりがある牧が、を見上げている。に髪をいじられてセンター分けになっている牧は優しい目をしていた。黙っての愚痴を聞き、決してバカにせず諭し続けてきた目だ。

「それとも、大して好きでもない相手に振られ続ける方がいいか?」
……牧はバカなの?」
「だろうな、お前みたいな女がずっと好きなんだから、そりゃあバカだろ」
「バカ、バカだよ、なんで私なんか、なんでもっと早く言ってくれなかったの」

がくりと膝から崩れたは、椅子に深く座っていた牧に抱きついた。の体を受け止めた牧は安堵のため息をつきながらぎゅっと抱き締め返す。夏服のの背中は弓弦のようになめらかな曲線で、その感触が手のひらにくすぐったい。

「私の時間なんかいくらでもあげたのに、そんなの、いらないってくらいあげたのに」
「はは、失敗したな」

牧は2年前のことを思い出す。は練習試合で顔を合わせた他校の選手に一目惚れ、翌日には学校にまで押しかけて告白してきた。本人にも同じバスケット部の部員にも説教されて帰ってきた。部室で憤慨していたの武勇伝を聞いて、なんだか悔しい思いをしたのだ。オレの方がいい選手なのにな。

そんな可愛らしい嫉妬に端を発した想いは2年の歳月をかけて磨かれ、余分なものは削り落とされ、少しずつきれいな形に育っていった。角もなく歪みもない牧の想いは、がどんなに奔放に振舞おうと揺らぐことはなかった。そして今、失恋につけ込むなどという言い訳の元、に届いた。

好きになった女は誰に告白しても振られて帰ってくる。自分がいるせいで誰にもまともに相手にしてもらえずに失恋を繰り返す。そんなことを2年も繰り返した挙句、なぜか手洗い場の蛇口が破裂して、そして珍しく本気だったらしい相手にも振られたと言ってちょっかいをかけてきた。

ああ、なんてオレは運がいいんだろう。

牧はの髪を撫でながら、緩む頬を抑えられなかった。

END