余計な仕事が増えたわけだが、木暮は文句も言わずに時間が出来ると廊下でも庭でもを踊らせた。何しろ臭くないしマダムのように金切り声も上げないのでは大人しく練習に励む。たまたま通りかかった国王が娘の上達した姿に喜んで「パパと踊ろう」と言いだすくらいには踊れるようになった。もちろん断られた。
ところ構わずを踊らせ、低い声で指導をする木暮の姿は侍女たちの間でちょっとした話題になり、もちらほらそれを耳にしていた。やれ木暮様は姿勢がいいだの、踊っていると普段よりかっこよくみえるだの、誰ものことは褒めないのでちょっと面白くない。せめてお似合いだわくらい言え。
「だいぶなめらかに足が動くようになりましたね」
「木暮が相手だからじゃないかなあ」
「そうでしょうか」
「うん。今考えると前の先生は何だか力ずくな感じがする」
それも相性と言えるかもしれないが、とにかく木暮はに無理がないように体を運び、リードし、繋いだ手で、言葉でを導いていた。それなりに基礎を練習してきたが普段より上手に踊れるのは先生が合うからと言っても差し支えなかろう。木暮はまた「やばい」顔をしているが、は少し楽しくなってきた。
「ねえねえ、学院てどんな勉強するの」
「なんでもありますよ。色んな人材を養成するところですから、勉強以外のことも学びます」
「だからダンスも?」
「まあそうですね。特にダンスは卒業式のあとに舞踏会があるので踊れないと怒られます」
は恥ずかしそうに話す木暮を見上げながら、胸の真ん中をポン、と指で突かれたような違和感を覚えた。あれっ、今のなんだろう。痛くないけどじわっと来るし、ポツンと穴が開いたような感じがする。それを振り払いたくて、は質問を続ける。
「そういうのって誰を誘うの? 恋人? 恋人がいない人はどうするの?」
「ペアで出なきゃいけないわけじゃないんですよ。全員参加だから。ちょっとずつみんなと踊るんです」
「やっぱり臭い人とも踊らなきゃいけないのか」
木暮は苦笑いだが、はうーんと考え込む。なんだか上手になって来た気がするけれど、それは相手が木暮だからなのでは。だとしたら舞踏会なんかに放り込まれて初対面の相手と踊れと言われたらしくじる気がしてならない。
「ねえ、舞踏会って決まった相手とだけ踊ります、っていうのダメなの」
「ダメでしょうね。それもある種の外交ですよ」
「……私は外交手段を習ってたわけね」
「何だと思ってたんですか」
「王子様と恋に落ちるための手段」
木暮は顔を背けてブハッと吹き出した。は真剣だ。
「あの、姫。王子様と恋に落ちるのはいいんですが、普通王女様は舞踏会で知り合った人と恋愛して結婚、ではなく、国王陛下が選んできた王子様か王様と有無をいわさず結婚、なんじゃないんですか」
痛いところを突かれたはがくりと頭を落とす。今のところ政略結婚をしなきゃならないような情勢ではないけれど、それでも木暮の言うように自由意志で結婚相手を好きに選べるかと言われれば、その点は非常に怪しい。姉妹がたくさんいて、その中からひとりふたりが好きな男と結婚したいと言い出すくらいならともかく、不運なことにはひとりっ子。
「臭い人はやだ……」
「そっ、それはお父上に直訴なさればなんとかなるのでは……」
「優しい人がいい……」
「それも……申し上げておいてはいかがですか」
木暮の方も俯くが可哀想になって来た。恋に恋するお子ちゃまな姫君というとふざけた女のように聞こえるけれど、臭くて意地悪な男のもとへ嫁がされる女性は不幸に決まっている。
「幸い国王陛下は意地悪な方ではありませんから、よくお話しておいた方が良いのでは」
「……木暮はもし好きになれない人と結婚しろって言われたらどうするの」
「まあ、女性以上に逆らえないでしょうね。そんなわがままが言えるほど偉くありませんから」
「その時好きな人がいたら駆け落ちとかするの?」
「個人的にはあまり考えられませんけど……相手がそう望んだら困りますね」
もうとっくに踊り終わっているのに、ふたりは組んだままだ。の部屋に通じる長い廊下の曲がり角、午後の日差しの影の中で言葉が途切れる。つい立場を忘れた木暮はの頭を撫でた。なまけものでガサツでわがままな時もあるが、そういう天真爛漫なが臭くて意地悪な男の妻になり、その明るさが失われてしまったら……
「……姫、そろそろ戻ります」
「わかりました」
「宿題、やって下さいね」
「心が沈んで出来そうにないので木暮あとで部屋まで来てやって下さい」
ひょいと顔を上げたはニヤニヤと唇を歪めている。木暮は切ない気持ちになったことを少し後悔しつつ、そっと背を押し出した。そして、が考えるところの「やばい」顔をしながら、彼もまた廊下を歩いて行った。
木暮のお陰でダンスが上手になって来たので、は改めて食事マナーや会話術など、木暮の言うような「王女の外交」に必要と思われる勉強・練習を次々と課せられ、次第にげっそりし始めた。あまりやる気もないので余計に疲れるし、成果も上がらない。寝坊も増えて、お姫様としては状況が悪化し始めた。
それを見かねた各講師たちはやっぱり木暮に泣きついた。
「で、とうとう部屋に入ることも許可されたってわけね」
「まあその、ちょっと詰め込み過ぎかなとは思います……」
「でしょー。じゃこれお願い」
「オレがやってどうすんですか」
は机の上に積み上がった宿題の山をポンと叩いた。
「えっ、これって全部宿題ですか?」
「それ以外に何があるっていうの」
「……ちょっと見せてもらっていいですか」
の机の上で今にも崩れ落ちそうな量の宿題の山を検めた木暮は、教科ごとに仕分けをし、期日を確かめ、腕組みでうーんと唸った。もはやこの山を消化する気のないは椅子ごと隣に移動して木暮を覗きこむ。やってくれるの?
「これって、内容とか目的とか、陛下はご存知なんですか?」
「さあ……? でも知らないんじゃないの。別に娘の宿題の内容なんて」
首を傾げるをちらりと見た木暮は宿題や課題の内容を書き止め、この日は宿題をさせないまま帰っていった。そして後日、の父である国王に謁見を願い出た木暮は、人払いを申し出ると単刀直入に切り出した。
「まとめたものがこちらになりますが、あまり意味のないことを学ばれているように思います」
「……というと?」
「例えば音楽ですが、もうこの辺りの作曲家はほとんど演奏されません。ダンスでも使われないはずです」
「流行じゃなくとも知識として知っておくべきことでは?」
「仰せの通りです。ですが、もうこの作曲家について半年も延々講義を繰り返しています」
「半年!?」
娘の勉強の内容など講師本人に任せっきりだった父は目をひん剥いた。
「数学も少々専門的過ぎます。一般教養としては様は既に充分に修められています。逆に語学は基礎の範囲を出なくて、実践的ではありません。単語はよくご存知のようですが、会話にならないと思います。芸術も偏りがあるようです。様の場合実践は特に必要ないですから、美術史や流行に沿ったものの方が良いのではないかと……」
要するには何の必要があって学ばねばならないのか、ということが教える者それぞれで統一されていない上に、それを管理する人間もいなかったということだ。木暮は言いはしないけれど、つまり目の前にいるお父さんの責任だ。先生をあてがっただけであとは放置。本人もそれに気づいて目が泳ぎだした。
例えばに明確な「何かを学び究めたい」という欲があれば話は別だが、生憎そういう意欲は殆どない。
「社交性のためなのでしたらマナー系をもっと重視して、あとは学問を少し減らして陛下が講義をなさっては」
「まあその、そんなにガツガツと外に出したいつもりではなかったんだよ」
「はあ」
「勉強は何でもしておいて損はないかと思ったものでな」
しかし学院に残って研究を続ける者のような数学の問題を解く必要はないはずだ。つまり、指導要領がちゃんと組まれていない。もちろんみんな優秀な先生なのだろうが、自分の好きなことだけ好きなように教えているのではがやる気になるはずがない。ただでさえ馬に乗った王子様に夢見ている状態なのに。
「ええとその、何でもかんでもお前に丸投げするつもりはないのだが、その、な?」
「……構いませんが、私も教師ではありません」
「それはわかってる。責任を押し付けるつもりではない。ただのことをよく理解してくれているから」
「それは陛下にして頂きたいのです。お父上なのですから」
「ただほら、あれは私を嫌がるから」
「では週に1回私と話す時間を下さい。私は全てご報告しますから、陛下はご指示を」
扱いが難しい娘はこの見習に心を許しているし、それが一番丸く収まる。国王はしっかりと頷いて微笑んだ。
「本当に済まないね、公延くん」
「いえ、これも勉強だと思っていますので」
「父上にはよくやっているといつも報告してあるからな」
「……ありがとうございます」
の「勉強」についての相談が終わると、木暮は謁見の間を出て行った。
その翌日。朝っぱらからの部屋にやってきた木暮は机に向かって座っているの正面に立ち、ぽかんとしている彼女に一礼をすると咳払いをひとつ。
「昨日、陛下と姫の勉強について話し合いました」
「はあ」
「その結果、姫の学習目標がきちんと整っていないことがわかりました」
「へえ」
「なので、本日より私がマナー系以外すべての教科を受け持ちます」
「ファッ!?」
は思わず飛び上がって背筋を伸ばした。なんだその超展開。
「ついでに、こちらで勉強を教えている間に限り、私の方が立場が上、という許しを頂いてきました」
「……上?」
「そういうわけですから、、きちんと言うことを聞くように」
「えええええ」
ついでにお父さんは「居眠りと授業放棄の際は指し棒でビシッとやってよい」という許可を出してきた。
「とりあえず昨日一晩かかって時間割を練りなおしてきたから、これに沿ってやります」
「あのー」
「よかったな。数学はもうやらなくていいよ。だけど語学――何?」
「じゃあ私は木暮のこと先生って呼ぶの?」
「それは別に好きでいいけど……」
木暮はそう言いながらの机の上に積まれた宿題をまとめてゴミ箱にドサドサと落とした。はそれを見てにやーっと笑う。そうか、あの何の役に立つのかわからない長ったらしい計算問題はやらなくていいのか。
「ねえねえ勉強って何やるの!?」
「これまでのことを考えると自国の歴史が悲惨だし、語学もボロボロ、王子様が逃げるくらい」
「ひどい」
「あなたは学者になるわけじゃない。使えない学問は全部切ります」
こうしてそれまでのほとんどの学科担当の講師たちは任を解かれて城から出て行った。木暮の練り直した授業は実践マナー6の学問4。またその学問4の中でも、歴史と時事問題が4、語学が4、流行に関わる芸術文学分野等が2、という徹底した対社交術に絞りこまれた。
さらに木暮は実践マナー系の勉強練習にはしばらく立ち会いを続けて、「なぜこれを覚える必要があるのか、どこで役立つのか」ということをいちいち口出しした。その上で役に立たないと思われることを教えていると週一の謁見で報告の上控えてもらう指示を出してもらった。
また、は嫌がっていたが、不定期で父親を授業参観に呼んで何をどんな風に教え学んでいるか、先生と生徒両方の視察をしてもらった。このお父さん、娘に関心はあるが嫌われたくないあまり接触を避ける傾向にあり、そのせいで理解が及ばず余計に嫌われるという悪循環に陥っていたのでそれも修復の方向で進める。
これが高じて自国の歴史や時事問題などは木暮が教えながら父親が補足をするようになり、時に貴重な資料なども織り交ぜながら授業が行われるまでになった。何しろお父さんは実際に外交をやっているのである。
一方でダンスの練習はが授業に腐り始める頃合いにサッと差し込まれるので、はダンスが好きになって来た。まだ父親と踊ってもいいとは言い出さないが、木暮相手なら本当に難なく踊れるようになって来た。
これがじわじわと城内に漏れ出ていき、あのなまけもの姫が木暮が先生をやるようになってからめきめきと「姫力」を上げてきたと噂になり、それはやがて「木暮すごい」という評価に落ち着こうとしていた。
「何で誰も『姫すごい』って言わないんだろう」
「そりゃまあ大抵のお姫様はこのくらい普通だからだろ」
「人は褒めて伸ばすものなんじゃないの」
「褒めてるでしょ」
はぷっと頬を膨らませてそっぽを向いた。そりゃあ木暮は褒めてくれるが、城内の評価は木暮だけに集中していて、相変わらずはなまけもののめんどくさい姫のままだ。
「王子様は迎えに来ないし褒めてくれるのは木暮だけだし、気力が維持できな〜い」
「そういえばこのところ休日以外はずっと勉強だったからなあ」
「そうなのそうなの。全然遊んでないの」
はどんより淀んだ目を一転キラキラと輝かせ、身を乗り出した。
「何かやりたいこととかあるのか」
「何でもいいから城の外に出たい!」
城、そして城を囲む城壁の内側はそれなりの広さがあるのでそこに閉じこもりきりでもそれほど困ることはない。しかし元がこうして快活なはそれが続けば息が詰まってくるだろう。息抜きも効率化のうちだなと考えた木暮は頷いて手にしていた本を閉じた。
「、馬は?」
「一応。狩猟祭にはいつも参加してるし」
「へえ、弓が使えるのか」
「ううん。馬に乗って着いて行って帰ってくるだけ」
木暮は心の中でまた国王にツッコミを入れておく。王女の使い方間違ってねえか。
「馬に乗ってどこか行くの!?」
「そんなに遠くは無理だよ。だけど湖の町くらいなら距離もちょうどいいんじゃないかと」
「嘘ほんと!? 私ボート乗りたい! 釣りもしたい!」
「王子様逃げるぞ」
しかしは目がキラキラ通り越してギラギラしてきた。そして勢い余って木暮に飛びついた。
「ありがとう木暮、超楽しみ! ああ何着て行こう! 靴は何にしよう!」
驚いて固まっていた木暮だったが、やがての背をそっと撫でて微笑んだ。