ミクスチャ:MVP

蒸し暑くどんより曇った空の下、くすんだ色の壁ばかりが立ち並ぶ住宅街は風もなく、空気まで濁っているかのようだった。そんな住宅に囲まれた道を歩いていた制服姿がふたり、曲がり角の出会い頭にぶつかりそうになって足を止めた。

「げっ」
「よう、なんだ、この辺地元なのか?」

あからさまに顔をしかめたのは湘北の三井、目を丸くして気さくに声をかけたのは海南の牧、つい2週間ほど前に試合で負けた方と勝った方なので反応にはだいぶ差がある。が、どうやら身長が同じくらいのようで、顔の位置がほぼ同じ、負けた方である三井はつい視線をそらした。

「まーな。お前この辺……なわけないよな」
「オレは怪我で引退した元部員の家に行くところだよ。テスト前で体育館使えないし」
「へえ、海南でもテスト前って練習出来ないのか」
「個人練習はしてるぞ。校内で部活動禁止なだけだから」

勝った方と負けた方だが、どちらも翌月にはインターハイを控えているので練習はいくらやっても物足りない。とはいえ一応普通科の高校生なので、期末テストより優先されるべきものはない。練習したければテストの準備も抜かりなく結果も出し、その上で練習時間をひねり出すしかない。

……という自己管理を牧は出来ているが、三井は期末などすっかり忘れていて、もちろん予習も復習もまったくやっていない。どちらも県大会のMVPを獲得したことがある優秀な選手だが、学校生活に関してはだいぶ隔たりがある。

三井の方は気まずいようだが牧は気にならないのか、先日急な体調不良で倒れた湘北の監督の具合はどうだなどと話しかけている。監督は無事に退院して練習にも戻ってきているので、つい三井も立ち話に応じていた。何しろ監督は三井が心から慕う恩師なので。

「常誠か。いいところが引き受けてくれたな」
「へえ、どんなチームよ」
「うーん、それを教えてやるほどオレは親切じゃないと思う」
「あれっ、どういう組み合わせ?」
「ちょ、ムカつく……!」
「そういえばふたりともバスケ部か」
「は?」
「え?」

会話の間に女の子の声が混ざったので、我に返ったふたりは声が聞こえてきた方、斜め下に顔を落とした。すると片手にスマホ、片手に大きな紙を持った制服姿の女の子が佇んでいた。牧と同じ制服だ。

じゃないか」
「おお、久し振りだな」
「えっ?」
「えっ? あ、海南かお前」
「そう。三井とは中学一緒なんだよ。ちなみに牧は今クラス同じ」
「世界は狭いな……

両手が塞がっている女の子は、牧と同じ海南の3年生であり、この住宅街を含む地域が地元の三井と同じ中学の出身。世界は狭い。というか世界が狭いと言いたいのはの方だろう。ふたりがバスケット部所属ということを思い出して納得しているが、思いも寄らない組み合わせには違いない。

「ていうか……ふたりとも県大会でMVPだったんじゃなかった?」
「ああ、まあな」
「同学年のMVPふたりと知り合いの私、すごくない?」
「お前がかよ」

素早くツッコミを入れた三井には楽しそうに笑った。空も空気も辺りを取り囲む壁も全部淀んでいるように感じていたけれど、が笑うとその周辺だけ色が戻ったように見えて、ふたりは目を瞬いた。なんだ、今の。なんかがすごく可愛く見えたんだけど。

「てか学校違っても仲いいんだね。意外過ぎるけど」
「いや別にそういうんじゃ……
「オレは元部員の家に行く途中だっただけだよ」
「そうなん? なんか楽しそうに話してたから」

楽しそうに話していたつもりのないふたりはちょっと不機嫌顔だ。だが、にその不機嫌をぶつけるのは不本意だ。するとに会うのはかなり久しぶりである三井が少しかがみ込んで、の手元を覗いた。

「そっちこそどうしたんだ。家、この辺だったか? 確か……
「そうなの。絶賛迷子中」
「迷子? てかこれ地図か?」
「役に立ってないけどね……。いとこの姉ちゃんが引っ越したんだけど、たどりつけなくて」

がぺらりと突き出した紙には地図らしきものが太いマーカーで描かれているが、雑かつ省略されすぎていて要領を得ない。資料がこれではいくらスマホでさらに地図を参照してもわかりづらそうだ。

「住所は? お姉さんに迎えを頼むことは出来ないのか」
「それが、姉ちゃんとこ今3ヶ月の赤ちゃんいて疲れ果ててるから頼みたくなくて」
「そうなんだよなあ……この辺て似たような住宅街が延々続くから」

元部員の家に行くつもりだった非地元民である牧もうんうんと頷いている。きっとのいとこの姉ちゃんも、この住宅街迷宮をわかりやすく地図に起こせるほど位置関係を把握出来ていないに違いない。ところどころに書き添えられている説明文は「白い壁の家」だとか「黒い屋根の家」だとかで、てんで役に立たない。

「住所は……あー、確かにこの辺だな」
「三井んちこの辺だったっけ?」
「いや、ちょっと離れてる。会いたくないのとすれ違いそうになったから逃げてきただけ」
「土地勘があっても分かりづらいんじゃどうしようもないな」

ふたり揃っての手元を覗いていたけれど、地図は役に立たないし、三井も助けてやれそうにない。すると今度は牧がのスマホの方を覗いた。の手の中の地図アプリは確かに住所の近辺を示しているのだが……

「ここって……ええと5丁目ってことになるのか」
「もしかして牧、手伝ってくれんの?」
「だってお前、ここに置いていったら帰ることも出来ないんじゃないのか」
「エヘヘヘヘ」
「笑いごとかよ。姉ちゃんちも5丁目なのか?」

牧が手伝う気になっているようなので、三井も首を伸ばしてきた。久し振りに再会したなのだし、牧と連れ立って去っていく後ろ姿をひとりぼっちで見送る気にはなれなかった。それに、なんだかさっきが可愛く見えてしまったので。

「まじか……MVPふたりに助けてもらってる――
「はいはい、お前はすごいよ」
「ちょ、先に言わないでよキメ台詞なのに」
「てかお前ちっちゃくなったな〜!」
「そっちが伸びたんでしょ! 私だって中学の間に――

一方、住所の書かれた地図を受け取って自分でも確認をしていた牧は、顔を上げるとと三井が楽しそうにじゃれていたので、腹がモヤッときた。せっかくオレが助けようと思って調べてたのに、何イチャついてんだよそこ!

、お姉さんの家の外観もわからないのか」
「残念ながら似たような家がいくつか並んでるらしい。目印は表札のみ」
「それはキツいな……
「あわわ、無理しなくていいよ牧、貴重な休みなのに」
「えっ、いや別に……

の向こうに三井のニヤついた顔が見える。こちとら地元民同士なので多忙な余所者くんは離脱していいんだぞ、という顔だ。冗談じゃない。お前こそ何年も会ってなかったんだから無理すんな。オレは今同じクラスで毎日、毎日顔を合わせてるんだよ。

「オレは大丈夫。ていうかこいつだけじゃ辿り着けないと思うぞ」
「ハァ!?」
「あははー! 仲良くないみたいなこと言ってたけどよく知ってるね〜!」
「オレは別に方向音痴じゃないし、地図が読めないわけでもねえぞ」
「でもたぶん途中で諦める」
「諦めねえ男だっつってんだろ!」
「何の話〜!」

頭上で話が飛躍していくので、は間に入ってふたりの胸を押し返した。ふたりともついその手を取ってしまいそうになって、慌てて引っ込めた。唐突なお触りは断じて許されません。不可抗力なハプニングでもあれば別ですが。別ですが!

「てか、お前、家って確か役所の方じゃなかったか」
「そう。よく覚えてたね〜」
「ちゃんと辿り着いたとしても、また徒歩で帰るのか。遠すぎるだろ」

地元話であれば牧は入ってこれまい。その通り牧は黙々と地図を見ていたのだが、

「だったら帰るとき連絡しろよ。オレも駅まで戻るから適度なところまで送るよ」
「えっ、ほんとにー!? 助かる、お義従兄さんの車は居心地悪くてさ」

今度は牧がニヤリと頬を歪めた。地元民くん、君はを無事届けたらまっすぐおうちに帰るしかないだろうね。だけどオレは友人の家に行くだけだから、また駅まで戻る必要があるんだよ――という顔だ。しかもは確実な道連れを手に入れて喜んでいる。

だが、ここでしょんぼりと戦意喪失してしまうような三井ではないのである。

「それもいいけど、チャリ出してやろうか。家まで」
「まじでー!」
「てか中学時代のやつらの話とか全然知らなくて。近況とか聞きたいし」
「えっ、連絡取ってる子いないの? そっかあ、私も普通に卒業以来だもんねえ」

何しろ同じ校区。おうちまで送迎出来る。地元民つよい。また三井はニヤリと目を細めた。

そんな攻防が頭上で火花を散らしているとも知らず、は牧と一緒に現在地と住所を照らし合わせたり、懐かしい話が出来る三井とじゃれてみたり、楽しそうだ。

どうやらこの地域は異なる3つの町が交差しているらしく、何の変哲もない住宅街の道路を境に住所が変わる。なおかつ坂道が入り組み、似たような作りの家も多く、さらに古い土地柄なのか同じ名字の家がひしめいている。難易度が高いので3人は歩く速度が遅くなり、お喋りの方が多くなってきた。

「私いまいちインターハイって意味がよくわかってないんだけど……
「高校生の全国大会だよ。色んな競技をまとめて行う」
「夏のビッグタイトルってとこだな。高校日本一をかけて戦う」
……ふたりとも、そーいう世界の人だったのか」
「なんだと思ってたんだよ」

つい突っ込んだ三井にはまたエヘヘと笑った。にとっては運動部の同級生というくらいの認識しかなかったようだ。ふたりがそれぞれ県大会のMVP経験者だと知っていても、身近な話ではなかったらしい。これはちょっと見過ごせない問題である。

「うーん、近ければ試合見に来いよって言えるんだけど」
「遠いの?」
「今年は広島」
「そんなとこまでバスケしに行くのか……
「ほんとに近ければな。オレが日本一に輝くところが生で見られたのに」
「ははは、日本一はオレだ」
「うちに勝てなかったくせに何言ってんだ」

またついヒートアップしてしまったふたりだが、その間では神妙な顔つきである。

……冗談でなくて、ほんとに日本一狙える状態なの?」
「ほんとに海南の生徒か? うち、優勝候補だぞ」
「ま、あくまでも候補であって、勝つのは湘北だけどな」
「その自信は一体どこから来るんだ」

が腕組みをしてしまったので、また3人は歩く速度が落ちた。

「ふたりがMVPっていうのは聞いたことあって、だけどそんな、日本一とかそんな話だとは思ってなくて、でも確かに毎年日本一になる人はいるんだし、なのにそれが今両隣にいる人かもしれないっていうのが、急に不思議な感じがしてきちゃって」

にとっては、そんな遠い世界の人だとは思っていなかった「同い年の子」である牧や三井の方がよほど身近な存在だった。それが実は、なんて正体を明かされてしまうと、途端に知らない人のように見えてきてしまったようだ。これはマズい。よろしくない。オレは普通の男子高校生です!

「日本一になったって、別に普段はただの高校生だけど」
「そうかなあ。日本一の高校生普通かなあ。日本一になるとどうなるの?」
「どうって、それ自体が目的だし、あとはそうだな、進路とか」
「推薦取れたり特待生になっちゃったりする? えっ、もしかしてもう決まってんの!?」
「オレは決まってないぞ」

すかさず三井が付け加えるが、大学の推薦入学などとっくに内定している牧は苦笑いしか出すものがない。の羨望とドン引きの混ざった視線が痛い。すいません、受験を知らない人生になりそうです。その分普段は真面目に勉強してます。

「三井はどうするの、受験するならインターハイで引退?」
「そ、それが、ちょっと、どうしようかと……
「オレは冬の大会に出てから引退だな」

今度は牧がサッと口を挟み、三井の方がしどろもどろだ。中学で進路別れしたは彼が見るも無残なヤンキー落ちをしていたことなど知らないので、説明が難しい。そして進路は棚ボタでスカウトでも来ない限り、非常に危うい状態。定期考査も思いきり蔑ろにしている真っ最中。

だが、はふたりの間で短く息を吐くと、ゆっくりと吸い込んで背筋を伸ばす。

「そっかあ、でも難しいなあ、どっちも応援したいけど、敵同士なんだよね」

の気持ちがありがたいだけに言葉に詰まる。本音を言えば自分だけを応援してほしいけれど、の気持ちが純粋な感情であることがわかるので、この独占欲めいた本音が醜い嫉妬に思えてくる。

「あ、わかった! どっちも負ければいいのか!」
「おい」
「それはちょっと」

空気が重くなったのを察したのか、はまたエヘヘと楽しそうに笑った。牧と三井は考える。同じトーナメントに出る以上、どちらもが勝ち続ければいつか対戦することは間違いない。どちらかが敗退になるまでその可能性は残っている。自分かコイツか、負ければはまた複雑なため息をつくのだろうか。揺らぐはずのない勝利への欲求がピクリと身じろぎをする。

いやいや、何を言ってるんだ、戦いはあくまでも自分のため、チームのため。余計な感情は持ち込むべきじゃない。例えが悲むのだとしても、余計な感情を持ち込んだ時点で負けだ。

「ふたりとも、同じ大学行けばいいのに。そしたら私」
「すごいんだろ」
「言わせろー!」

また三井とじゃれているの声を聞きながら、牧はまた地図に目を落とした。どうにも目的地に辿り着いている気がする。キョロキョロと辺りに視線を巡らせてみると、似たような家の隙間にポツンとポストがある。よく見るとポストの奥には細い路地が伸びている。これも家か?

「あ、あった!」
「えっ、ほんとに!?」
「これ、違うか? 名前」
「ほんとだー! 牧すごい!」

狭い土地に無理矢理戸建てを詰め込んだ一角、のいとこの姉ちゃんの家は家と家の間に挟まれた路地の奥にあるようだ。これじゃわかるわけがない。表札とは言うが、ポツンと立つポストの上に筆記体の細いワイヤー状のネームプレートがあるだけ。意味なし。

だがは大喜びだ。無事にたどり着けたので気が抜けたのか、ちょっと斜めに傾いている。

「てかふたりとも本当にありがとう。ふたりに会わなかったら私いい年して迷子だった」
「いいよ、これじゃわからないよな」
「てか既に迷子だっただろうが」

ひときわ明るく嬉しそうなの「エヘヘヘヘ」が耳に快い。

「えーと、なんか簡単に言っていいことでもない気がしてきたけど、頑張ってね、ふたりとも」

そう言うの目は真剣で、ふたりは素直に頷いていた。

そして数時間後――

「いやお前いらねえから」
「そっちこそ。いきなりチャリで送ってってやるとか暑苦しいぞ」
「暑苦しいのはお前のその下ろした前髪だ」

に連絡を取る手段のなかったふたりは、彼女のいとこの姉ちゃんの家の前で鉢合わせ。牧はさっきまでリーゼント風だった髪を下ろしていて前髪が出来ていたし、三井はこざっぱりした服に着替えてチャリである。どちらも送って帰る気満々。

インターハイを待つことなく、早くも場外乱闘開始のホイッスルが鳴っていた。

やっぱりはすごい……のかもしれない。

END