どうしてわたしなんかがいいの

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祖父が亡くなったことで独居になってしまった祖母だったが、出来る限り現在の住まいで過ごしたいと言うので、一ヶ月もするとたちの生活はほぼ元通りになった。

しばらくはまめに通うつもりでいたも無自覚にショックを引きずっていたのか、真夏に突入すると体調が優れない日々が続いていた。食欲がないという程でもないし、眩暈がするだとか、どこかが痛むわけでもなく、ただなんとなく元気が出ない。

そんな夏も終わりが見えてきた8月の末のことだった。宗一郎が秋のリーグ戦開始で忙しくしている中、は真っ青な顔で自宅に帰ってきた。まだまだ気温が高くて汗をかくような陽気だが、の全身は冷たくなっている。

気付けば2ヶ月も生理が来ていなかった。

それに気付いた金曜の1日は気が気でなくて、仕事もミスばかり、しかし宗一郎が来ていたので今週は忙しくて疲れ切っていると誤魔化し、翌日宗一郎が出かけてからドラッグストアに駆け込んだ。

妊娠検査薬を持つ手がずっと震えていた。支払いをしていても、店の外に出ても手は震えっぱなし。汗をかいているのに寒いほどに体が冷たくて、また走って帰ってきた。

不安に恐慌をきたしたはしかし、頭の中が真っ二つに割れていて、片方の思考の中では「子供ほしかったんでしょ? よかったじゃん、産めば?」と気楽に受け止めており、けれど当然もう片方の思考の中では「もし妊娠してたらどうしよう、学生と付き合って避妊しくじって妊娠したとか最悪、宗一郎も手のひらを返して逃げるかもしれない」と喚いていた。

怖くて怖くて、震える手を抱き締めたはトイレの前にうずくまって泣いていた。

宗一郎はいつでも愛してるだの君が全てだの、まるで少女漫画の王子様のようなことを言う。けれど「まだ学生が1年以上残ってるのに三十路の女を孕ませた」となっても、同じ王子様でいられるものだろうか。途端にのしかかる責任、選択肢のない人生、バスケットも続けられないかもしれない――という可能性を目の当たりにしても、変わらずにいられるだろうか。

無理だよそんなの……すいませんやっぱり無理です堕ろしてくださいって親と言いに来るよ……

妊娠の可能性より、そんな「調子に乗って若い子と付き合って失敗した女」になるのかもしれないという現実に吐き気がした。この吐き気って、昔のドラマによく出てくるやつだったりするのかな。

しかし確認せねばなるまい。は重い体を奮い立たせてトイレに入った。

結果は陰性、妊娠の可能性はなさそうだった。

ホッとしたはトイレで5分ほど泣いた。

こんなことで恐慌をきたしている自分にも、宗一郎が裏切ることばかりを考えていたことも、予期せぬ妊娠という可能性を考えていなかったことも、あれほど望んでいた「子持ち」というステータスに喜べなかったことも、全て腹が立った。30年の人生の中で、今の自分が一番嫌いだ。

気が済んだはヨロヨロとトイレを出ると、リビングのソファにだらりとひっくり返り、例の「本社で肩身狭い同盟」の森永さんに連絡を取った。彼女は筋金入りの冷え性で、何をやっても改善しないので古今東西ありとあらゆる温活を試している人だ。

生理来ないんですけどなんかいい方法知りませんか。妊娠はしてなかったです。

森永さんはとにかく細かい性格をしていて、1分ほどで返信が来た。病院で問題なかったら鍼。鍼が嫌だったら漢方。慢性だったらヨガ始めろ。

病院は問題ないはずだ。会社の特定健診を7月に受けたばかり、特に異常はなかった。ということで気が抜けてぼんやりしていたはその場で鍼を予約、午後には初めての鍼を打って来た。生理不順で、という訴えに施術担当は「帰り道気をつけてくださいね、上手くいけばすぐに来ますので」と言った。

その他にも疲労を訴えたが、施術担当は背中が冷え切っているとして腰と足に数本鍼を打ってくれた。そしてまたぼんやりと帰宅すると、玄関で靴を脱いだ途端に生理が来た。慌ててバスルームに駆け込んだは、今度はシャワーを浴びながら笑った。なんなのこれ、バカみたい。

しかもなにこれ、鍼やばいな。森永さんもやばいな。てか私、つまり2ヶ月も生理来ないほど疲れてたってことなわけね。自分で思った以上におじいちゃんのことショックだったのかな。しかもパニック起こし過ぎじゃない? そりゃ妊娠したかもってものすごくビビったけど、泣くほどのことだった?

てかなにこれ下半身めっちゃ熱いんだけど。鍼やばくない? 森永さんこれも効かないの?

真夏に冷え切っていた体は初めての鍼治療ですっかり温まり、シャワーから出てきたはへらへらと笑いながらTシャツ一枚でソファにひっくり返ると、すぐに眠りに落ちてしまった。

それから数時間後、祖父の件以来合鍵を持たされていた宗一郎が帰ってくると、は散らかりまくったリビングで死体のように熟睡しており、彼は驚いて思わず声を上げた。

「あ〜おかえり〜」
「ちょっと待って何があったのこれ、大丈夫?」

潔癖症というほどではないけれど、はむやみに自宅を散らかす癖のない人物なので、宗一郎は慌ててに駆け寄った。だが、その足元には引きちぎった妊娠検査薬のパッケージが転がっており、彼はそれを手に取った。

「あー、それー」
……妊娠したの?」
「いや、してなかった。森永さんに教えてもらって鍼行ってきたら生理来た〜」

宗一郎がまだ真顔なので、はのそりと起き上がると自然乾燥の髪を掻きむしった。

「もし妊娠してたら、どうだったの」
「うん、まだ学生残ってるのにどうしようと思った」
…………現実の怖さが、わかった?」

宗一郎がきょとんとした顔をしているので、は散らばるゴミをかき集めながらため息をつく。

「怖かったでしょ。付き合ってるだけの相手を妊娠させたかもってことがどれだけ自分の未来を閉ざすのかってこと、これでわかったでしょ。ただ気持ちよくセックスしてただけなのに、突然私と子供っていう人間ふたりを抱え込まなきゃいけなくなる、怖かったでしょう。意外といるんだよね、妊娠した途端に年下の男に逃げられたとか、親が出てきてもう二度と会わないで下さいうちの子には将来があるのでってはした金を渡されるとか」

それは前から考えていたことなんかではなく、生理不順で妊娠に怯えたストレスが抜けきっていなかったことによる、宗一郎への八つ当たりだった。もし妊娠してたとしたら、そっちにはいくらでも逃げ道があるけどこっちにはないんだ、それをブチ撒けたくなってしまった。

だが、これできっと宗一郎の夢心地は完全に覚めたに違いない。祖父が亡くなったときは宗一郎がそばにいてくれることをどれだけ心強いと思ったか知れないけれど、やはりこんなリスクを学生に負わせるべきじゃない、だったらシングルマザーになってひとりで育てるからいいや、と決断出来るほどの覚悟もないし、どちらにせよまた祖母を心配させて母親に迷惑をかけることになるはずだ。

さあこれでまた私の人生リセット、湘南転勤から始まった激動のフェーズはここで一旦終わり。森永さんの言うようにヨガ始めてみようかな。それで体が楽になったらおばあちゃんのとこ通いつつ、転職考えてみようかな。それとも思い切って婚活始めてみようかな。今度は、分相応の夢を。

がそんなことを考えながら俯いていると、宗一郎が腕を掴んで引っ張った。

「な……
「またそうやって人の考えを勝手に決める。オレがいつそんなこと言った?」
「いや言ってないけど、でも」
「オレが考えてたのはどうやって親を説得して今すぐ籍入れさせてもらえるかってことだよ」
「え」

宗一郎は呆れ返って険しい顔をしており、はちょっと身を引いた。ええ……宗一郎こわい……

「まだ学生残ってるし、でも今後の生活のこと考えたら中退するよりどうにかして卒業した方がいいと思うし、それまでの間、オレが収入なくても結婚を認めて支援してほしいってことを、どう納得させるか、それは当然の家族にも言わなきゃいけないことだから、シミュレーションなんかじゃなくて現実にやらなきゃいけないこととして準備しなきゃなって、オレが考えてたのはそういうことだよ。てか妊娠が怖かったのはだろ。何この大惨事。どうせまたひとりで怖くなって不安になって泣いたんだろ! 目が腫れてるよ! なんでちゃんとオレと話し合おうって思わないわけ?」

ぐうの音も出ない。宗一郎はしょげるの隣に座り直すと、そっと肩を抱いた。

「そりゃオレはまだ学生で20歳で収入もないから、そんなこと話したら手のひら返されるかもってビビる気持ちはわからないでもないけど、、オレもうのこと4年も好きなままなんだけど、付き合い始めても1年近く経つんだけど、まだダメか」

今度は別の意味で背筋が冷たくなってきたはふるふると首を振る。

「自己嫌悪は……さっきやりました……
「なのにそれを八つ当たりしたの」
「す、すいませんでした……

何度このやりとりを繰り返せば済むのかと言いながら宗一郎がため息をつくので、はますます身を縮めた。湘南から戻って以来、不安に襲われるとパニックで絶望的になってしまう癖がついてしまったけれど、それを差し引いても冷静なのはいつも宗一郎の方。現実を直視しているのも宗一郎の方。それは落ち着いて考えればわかっていたことなのに……

「あのね。こういうこと言いたくなかったけど、ちょっともう我慢出来ないから言うよ。ずっとの心に引っかかったままになってるのかもしれないけど、オレは、元彼じゃないから!」

はウッと喉を詰まらせた。なんであんたそれ気付いたのよ……

「いい加減その人のこと忘れてよ。みんな二言目には『男は〜』って言うけど、全員が全員コピーしたみたいに同じ生き物だと思われるのは困る。女だってそうだろ。地図が読める女はいるし、虫が好きな女だっている。それは男だって同じだよ。元彼と比べてオレを見るの、いい加減やめて」

だってみんな「男なんてこんな生き物」って、みんな同じこと言うんだもん……私、虫が好きな女の子に出会ったことないもん……と考えていたのが顔に出たのだろうか、宗一郎はのぼさぼさの髪をかき上げ、頬を両手で挟んだ。

の方がオレなんかよりよっぽど不安を抱えてるってのはわかるけど、いい、『取り返しのつかない勝負』ということについてはオレの方が先輩なんだよ。どれだけ準備して鍛錬して出来ることを全てやったって負ければそこで終わり、やり直しも出来ない、最初から始め直すことも出来ない、心技体を全て限界まで高めても、持って生まれた素質や体っていう壁もある。それと戦ってるんだよ」

でもバスケの試合で負けても人生曲がらないじゃん……という言葉をは飲み込んだ。もしかして曲がるのかな。試合ひとつ失敗したらそこで終わり、そうしたら人生も曲がっちゃうのかな……

「オレは努力に勝る武器はないと思ってるけど……それでも勝負は時の運ということもある。オレたちは機械じゃなくて人間だから、コンディションていうコントロールしにくい要素もあるけど、逆にテンションていうブースターも持ってて、10人分のそういうものが複雑に絡み合う試合に、絶対に勝てる方法なんかないんだよ。誰にも予測できない。違う?」

まさか。はふるふると首を振る。

「何も今すぐ結婚してくれなんて言ってないだろ。怖い想像に一喜一憂しないで、ちゃんと話し合おうって言ってるの。まだ付き合ってるだけの関係だけど、が怖がることは全部、オレたちふたりの問題のはずだろ。ひとりで先走って悲観しないで。ちゃんとオレをパートナーとして扱ってよ」

は頭にずしりと重みを感じた。「パートナーとして扱う」、確かにそれは疎かにしていた。宗一郎はどこまでいっても「やけに優しい年下の彼氏」であり、もう何度も助けてもらっていたのに、いつでも自分の方が彼をリードしている、そういう役割分担のつもりになっていた。

そして元彼と比較しては、宗一郎の方が強いだの弱いだの、元彼の方が多いだの少ないだの、それを比べたところでなんの意味もないのに繰り返していた。

頭の中のイメージ、自分にしか見えない亡霊が元彼の顔になっていく。

過ぎたことをいつまでもグズグズ言っても過去は覆らないから次に進む、ということを何百回と繰り返して生きてきた宗一郎は、にたっぷり説教したものの、話が終わると険しい顔を引っ込めて、いつもの穏やかな彼に戻った。

年下年上ということにこだわりまくっているくせに恥ずかしい……、とが珍しく反省しつつ週明けに出社すると、朝から同僚の女の子が寿退社したいんですとにこにこしていた。結婚が決まったらしい。目がきらきらと輝いていて、まさにこの世の春といった表情だ。

よほど嬉しいのか、聞いてもいないのに相手のことを喋ってくる。本人は27歳、相手は30歳、知人の紹介で知り合って交際1年半、既に新築の一戸建ての建設が始まっているという。本人は「一戸建てって言っても大したことないんですよ、狭いし、埼玉だし」と言っているが、その向こうで埼玉の分譲住宅を35年ローンで買った45歳の別部署の課長が泣きそうな顔をしている。

ハワイでフォトウェディングにするから披露宴はやりません、ご祝儀とか心配しないでくださいね、と言われたもさすがに苦笑いだ。それでも彼女が実際に退社するときにはお祝いの品を渡さなきゃいけないんだろうな、と思ったらまた気持ちが腐ってきた。

もしかして私はこういう結婚を望んでたんだろうか。

おそらく元彼と別れる前までは寿退社希望の彼女のことをとやかく言えた義理ではなかったような気がする。というかもしあの時、元彼と結婚していたらどうなっていたんだろう。宗一郎には比較するなと怒られるが、結局のところ元彼との別れがの人生の分岐点だったのだ。

しかし今となっては新築一戸建てにもフォトウェディングにもそれほど惹かれなかった。そもそも湘南時代はもう少し癖のある好みに陥っていたし、どうにも結婚というイメージが遠のいているような気がしていた。宗一郎は真面目に将来を考えているというが、やっぱり一寸先は闇でしかない。

寿退社の彼女のようになりたいとは思わないけれど、寿退社の彼女のように浮かれてお花畑でいられる精神状態は羨ましいと思った。湘南時代のあの妙なハイテンションもちょっと異常だった気がするが、それがこの上もなく気持ちよくて幸せだったことはよく覚えている。

とどのつまり、苦しかったり、つらいのは嫌なんだよなあ。そんなの当たり前だけどさ。

自分にとって苦しくなくてつらくもないとは、どういう状態だろう。なんとなくそこにヒントがあるような気がしたは、お花畑から逃げるようにして外に出た。いつもの肩身狭い同盟とランチの約束をしていたので、いつもの古い喫茶店に向かう。今日はガッツリしたものを食べたい。

だが、ボックス席から手を振る小池さんの隣に腰を下ろすと、向かいに座っていた森永さんがシクシクと泣いていた。今年の森永さんはフワフワした生地のトップスを着ていることが多いのだが、その柔らかな素材までもが震えていた。

「えっ、どうしたんですか」
「それがね……
「えざっ、江崎さん、会社、やめぢゃうんだっでえ」
「え!?」

説明しようとした江崎さんを遮った森永さんは涙と鼻水でグズグズになりながら言い、おしぼりを顔に押し付けながら「いやだよお」と呻いている。

「どうしたんですか急に……まさか病気とかそんなんじゃ……
「ごめんね、それは大丈夫。おかげさまで特に悪いところもないし」

隣の森永さんがあんまり泣くので江崎さんはちょっと鬱陶しそうだ。そして既に話を聞いている小池さんに頷いて見せると身を乗り出して声を潜めた。

「実は、離婚することになったの。それで、子供と実家帰ろうと思って」

が袋小路にはまり込みそうになっている結婚という事象は、少なくともにとっては未だ始まらぬ未知の領域であり、憧れと不安が混ざりあった世界だった。だが、そこに初めて「終焉」が現れた。は今更のように考える。そうか、結婚は、終わることがあるんだ――