商店街2021

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「ふむ、そりゃあご実家にしてみれば他人の方が親しい状態なのは面白くないでしょうねえ」
「かといって兄貴んとこも旭さんとこも、すぐ近所ってわけじゃない」
「確かにあさひ屋は下手な親戚より近い存在だものね……
「それに、実家の言う通りオレたちと距離を置く方が生活に困る」

じめついた梅雨空の下、この日は康太と壮太を、アタシと一志、志津ママと呈一さんが預かることになって、今晩は家。何気に康太と壮太も商店街っ子で親がいなくても余裕。一志の背中によじ登って遊んでる。クハー! 一志ってばいいパパになりそう〜! 子供産みてえ〜!

てことで他人のアタシたちは板挟みの兄貴みたいにため息をついてた。呈一さんの言うように実家の言い分はもっともなんだけど、現状あさひ屋とアタシたちの生活は切り離せない状態になってる。一志の言うように、距離を置いたら大森家はもっと窮地に陥る。

「まあ、ご実家を尊重してご両親を立て、私たちは影に徹するのが落としどころでしょうかねえ」
「それをあの旭さんがいいと言えばいいのだけど……
「育太くんはなんて言ってるんですか」
「旭さんの決断を支持する、余計な口は挟まない……て言いつつ商店街派。一志、笑わない」
「す、すまん……

おそらく旭さんも揺れてるはずだ。一応大森家は給付金と旭さんの稼ぎで生活の維持は出来てる。子供が3人、しかも下が双子である不安は育太兄貴も旭さんもずっと抱え続けてるけど、それこそそれが手に取るように分かる商店街の人々は細かなサポートがあったし、若先生ははーちゃんのランドセルを買ってあげたいと言ってるし、そりゃ兄貴と旭さんは遠慮したけど、そういうのいいから頼ってほしい、っていう皆の気持ちをありがたく受け取り始めていたの。

「旭さんのご実家がそういうみんなのサポートを引き受けるっていうならわかるんだけど……
「あながち不可能ではないみたいなんだよね。お金だけなら」
「おや、そうでしたか。だから余計に喧嘩になってしまうのかもしれませんなあ」

たぶん呈一さんの想像通りだ。旭さんの実家は学生結婚した旭さんが卒業するまで学費と生活費を負担し続け、当時誰でも知ってる企業勤めで安定した収入のある兄貴には出させなかったそうだし、ふたりの貯金を食い尽くした不妊治療にも金銭的支援を行ってきた……らしい。それだけやってりゃ文句のひとつも言いたくなるのは確かにわかる。わかるだけに、アタシたちはため息をつくしかなかった。

が、話は7月の声を聞いたあたりで急展開を迎える。終わらない喧嘩に業を煮やした旭さんの親は頭に血が上り、とうとう言ってしまった。「離婚して子供を連れて帰ってきなさい」

「ねえ、なんでそれで旭さんが頷くと思うの!?」
「兄貴ばっかり目立つけど、おしどり夫婦だもんなあ、大森家って」
「ふたりとも甘いな、ご実家はやっぱり学生結婚にも遺恨があったんだよ」

というわけで今度は花形家。宣言も明けて感染者数が少ない時期だったけど、と透兄ちゃん、薫さんの随時テレワークは依然続行中。そこで旭さんの話を聞いたは頭の上から湯気が出そうだ。アタシの膝の上のトトの耳がピンと立ってる。そして薫さんはドヤ顔だ。

「娘の決断を認めて応援したのは育太くんの『誰でも知ってる企業勤め』あってのことだったと僕は思うね。不妊治療に協力したのも、大卒で有名企業勤務の夫婦だったからこそ、だったんじゃないかな。種はもうずっと前に撒かれていたんだよ、きっとね」

薫さんの鼻息も荒い。薫さんは春から「うち」の家長気分なので、呈一さんと違って断絶を勧める旭さんの実家に対しては快く思っていないし、それを隠そうともしない。事実アタシたちはほぼ毎日あさひ屋の弁当を食べて、子供たちを預かり、それを嬉々としてやってる。そんな幸せな関係を引き裂かれるということが我慢ならない、というのが薫さんの主張だ。

というか薫さんはと透兄ちゃんが毎日家にいるし、大森家の子供たちはしょっちゅう来るし、リクエストにも気軽に答えてくれる育太兄貴の弁当を毎日楽しめるので、幸せの絶頂にいると言っていい。トトも可愛いし毎日ラブリー。

そんな緩みきった薫さんの傍らでソファに寄り添い、しかめっ面のと透兄ちゃんはまたため息だ。今回のことでは珍しくが強めに怒ってる。

「おじいちゃんたちはすぐ近くで暮らしてるわけじゃないし、だけど大森家は誰かの手助けがなければ全員が大変な思いをするし、それを望んで手伝ってる友人と距離を置きなさいって、旭さんの気持ちを尊重するって考え方はできないのかな。その上離婚しろだろなんて」

実際「離婚しろ」は旭さんの父上が逆上した結果、つい口走ってしまった言葉だったんだけど、薫さんの言うことも事実なのか、旭さんの母上はフォローのつもりだったのかもしれないけど「あなたのことを思って言ってるのよ」と、まあ一番効果のない言葉を繰り返しちゃった。

当然旭さんは激怒、なんの問題もない家族がどうして離散しなきゃいけないの、と怒鳴り返し、「うどん屋とスーパーのパートで子供3人を育てられるわけがない」という母上の重ねての失言に絶句、とうとう何も言わずに電話を切って、以来旭さんは実家と連絡を取るのをやめた。

それにしても薫さんのニヤニヤ顔が止まらない。

「僕ぁね、透と航がどんな選択をしようと、まあ犯罪行為は別だけど、絶対支持するし、苦しんでいれば手を差し伸べるし、ましてや息子が自分で選んだ伴侶と別れろだなんてことは口が裂けても言わないね」

確かに薫さんは子供たちを心から愛してる若干アツめな人だけど、それが故にもし旭さんのご実家の立場になったらブチ切れると思われるので、誰もこの薫さんの意見には頷いてやらない。自分が「うち」の中にいてこその理屈だからね。

「ねえ、もし透くんが兄貴の立場だったらどうする?」
「そりゃ旭さんの決断を支持するよ。それは兄貴と同じ」
「他のことでは違う?」
「たぶん、オレはそもそも脱サラしない」
「そういうそもそも理論になると話が進まないでしょ」

は呆れ顔だけど、その前に薫さんとアタシを前にべったりひっついてるのは確かに航くんじゃないけど鬱陶しい。アタシと一志も普段こんな感じなのかなあ。ここまでくっついてないと思うんだけど、こんな雰囲気を醸し出しているんだとしたら……ウザいなこりゃ。反省。

「それにもしオレが兄貴の立場なら、ひとり生まれた時点でもっと避妊を徹底するよ」
「おい透、そんなのは許さんぞ」
「もしもの話をしてるんだろ。オレならそうする」
「家族が増えるのはいいことじゃないか」
「精神論で飯は食えないだろうが」
「そうだよ、だからみんなで助け合って生きてるんじゃないか」

噛み合わなくなってきた。

元々花形家は朋恵ママが超絶お花畑ガールで、男3人は冷静で理屈っぽい方だったんだけど、をきっかけに周囲に人が増えるに従って薫さんは緩みが加速、最近はとにかく長男とその彼女が早めに結婚して孫が誕生してくれることを楽しみにしてる。初孫は大変だろうなあ……

「そう、僕たちはこの禍を生き延びるため、身を慎み心を穏やかに保ち、自分にとって大事な人々とは何かをいつも考えながら過ごしてる。この共同体はそんな『助け合い』のかたちなんだ。やがて禍が過ぎ去るまで、そうして生きていこうという僕たちの意志なんだよ」

薫さんはドヤ顔のままだったけど、結局大森夫婦は薫さんと同じようなことを言って商店街で生きることを選択した。試しにはーちゃんに「お母さんと康太と壮太とはーちゃんだけで、おじいちゃんの家に行く?」と聞いてみたところ、兄貴はボコボコに殴られまくったそうだ。若先生とも離れたくないし、違う幼稚園に行くのも嫌だし、お父さんが一緒じゃなきゃ嫌だと叫び、兄貴はそこから3日間くらいずっと泣いていた。大森家の結束は固い。

「そーりゃそうだよ、あの子はこの街のアイドルだし、お友達もいっぱいいるんだから」
「お父ちゃんの転勤とかならともかく、店はここにあるってことくらい子供でも分かるわな」
「そんなに娘と孫を囲い込みたいんなら自分らが引っ越してくりゃいいんだよなあ?」

というわけで今度は亀屋の清三さんと雑貨屋のおじいちゃんがドヤ顔だ。旭さんの決断でひとまずあさひ屋は元通り、アタシの大好きな夏季限定かき氷も復活、夏休みに入ったので3日に1回くらい食べてる。一志が脇腹をつまんで心配そうな顔してるけど、まあ夏季限定だから!

「だってそうだろ、今日も子供たちの面倒は葉奈が見てる。週末はや花形兄弟もいる、これがなかったら旭ちゃんがいくら働いたところで、ぜーんぶ保育園代に消えてたさ。だったらそれを全部肩代わりしてやんなきゃ」

特に清三さんはアタシがはーちゃんの子守をずっとしてるのを知ってるので、意見は薫さん寄りだ。というか清三さん芳子さんも頭に血が上りやすいので「娘と孫がさんざん世話になってきたのにこの恩知らず!」と鼻息が荒かった。

「てか旭ちゃん、お姉さんいたよな? そっちはどうしてんだ」
「お姉さんのところには子供いないみたいだよ。お姉さんとは仲いいみたいだけど」

アタシたち、旭さんの実家が来てる時は絶対に出しゃばらない。何度かご挨拶はしたけど、そこまで。だから直接お話したことはないんだけど、お姉さんとはいつも仲良さそうに見える。でももちろんお姉さんも来ない。安全のためと思えば、来られない。

……我慢、出来なくなってきてるんだよね、みんな」
……ふん、この程度で音を上げてどうすんでい」

雑貨屋のおじいちゃんは子供の頃に水害で父親を亡くし、あちこちを転々とした挙げ句、この雑貨屋を営んでた家の婿養子になった人だ。本人は水害を経験してなお船乗りに憧れてたらしいけど、雑貨屋として生きてきた。だから忍耐力のない人々に対しては辛辣だ。

きっと夏頃には感染者もほとんどいなくなる、アタシたちはそう思ってたけど全然そんなことはなくて、この日の夜、また花あかりに集まった「うち」は大森家の報告を受けて改めて心を決めた。アタシたちは目の前の誘惑と「うち」を天秤にかけ、「うち」を選ぶ。

は透兄ちゃんと手を繋いだまま、真剣な声で言う。

「私の友達にも感染したって人、いる。合コンで感染したって言ってたから、今そんなことしなくてもいいのにってつい言っちゃったの。そしたら『あんたみたいに男いる人はいいかもしれないけど、私たちはこれが終わるまで恋愛するなっていうの!?』って怒られた。症状なくて、後遺症もほとんどないみたいで、だから勝手でしょってすごく怒られた。でも、私はそういう考えじゃないなって。お母さんや商店街のおじいちゃんおばあちゃんが感染したら、って考えるとすごく怖い。そんな怖いことになるなら、飲み会なんかなくていい。私はそうしたい」

アタシたちは全員頷く。無理に納得できない我慢をしてるんじゃなくて、アタシたちは自分たちのために自分でそう決めた。もし誰かがこの「うち」を離脱したくなったら引き止めないし、それはひとりひとりの決断あってのことだ。

何なら一志のパパママとか、呈一さんなんかはこの「うち」にこだわらず、と透兄ちゃん、アタシと一志なんかは離脱した方がいいんじゃないの、と気遣ってくれてた。でもアタシたちはの言うように、「うち」を選んだ。透兄ちゃんも、一志も。

その辺は透兄ちゃんに言わせると「オレはを選んでるだけ」だそうだけど、を選べば家もアタシも呈一さんも付いてくる。はそれを「透くんは私と一緒の世界を選んでくれたってこと」と言う。やるよね兄ちゃん、の世界ごと愛してる。

つまりそういうこと。アタシも友達に「久し振りにご飯食べない?」とか言われるけど、いつも「家族が重症化ハイリスクだから行かない」と断ってる。理解してくれる子がほとんどだけど、バカにしてくる子もいる。理解してくれる子も距離を置くようになったりする。でもそれはしょうがない。アタシはそれよりも「うち」を、一志を選ぶ。

そうやって「うち」が覚悟をして粛々と秋を過ごしているうちに、なんだか街は以前の様子を取り戻し始めていた。だからいつもマスクかけてて友達とお茶とかご飯行かないことを除けば、アタシたちは「普通」の生活みたいな日々を送ってた。

だけどそのまま冬を迎えたところで、「普通」に年末を迎えた関東は感染爆発。アタシたちはまた宣言下に置かれることになった。と思ったら商店街には新たな問題が勃発。深夜に商店街のアーケードで酒盛りする人が現れたからだ。

もちろん駅前の交番のお巡りさんはちゃんと巡回してくれてた。でもそれだって長いアーケードを30分に1回見回れるわけじゃない。さらにこの商店街は細い路地がいっぱいあって、逃げ場はたくさんある。で、いたちごっこが始まっちゃった。

なんせアーケードは雨が降ってても問題ないし、店が密集しているあたりにいれば風も通りにくいし、住んでる人もいなくて何より明るい! 公園なんかよりよっぽど快適。なので「商店街飲み」はいつも同じ人でもなく、交番のお巡りさんは「もしかして『外飲みスポット』として広まっているのかも」と腕組みしてた。ありそうなことだね。

さてどうしようか、深夜の商店街は基本無人だし、だけど「商店街飲み」の連中は必ずゴミを残していくので、それを片付けなきゃいけないのも大変。というかそんなもの触りたくない。路上に落ちてるマスクのゴミですらみんな持て余してるっていうのに。

と、思ってたら、これはまたかなり斜めの方向から対応策が出てきた。

昔、商店街に店を構えてた人々は、店の2階に住んでた。その「店の2階」ってのは、例えばフローリストなんかも昔の「店舗兼住宅」をリフォームしたお店なんだけど、お店の奥には畳敷きの部屋と台所、そしてトイレがあって、2階にも続きの二間がある。お風呂は銭湯ね。

だけど今そこに住んで商売してる人はいない。兄貴が好きだった銭湯、黄金湯が閉店してしまった時に、最後まで2階に住んでた2店舗が引っ越していったらしいので、もういない。ので、実は店舗兼住宅タイプのお店の2階は空いてることが多かった。

そこに人が住むことになった……というのは最初、確かえどやだったと思う。えどやの女将さんのいとこだか甥っ子だかがこの禍で職を失い、住んでいたアパートも出ざるを得なくなってしまったとかで、店の2階なら空いてるから仕事探す間はいていいよ、ということになった。

それは11月頃の話だったはずだけど、それを耳にした他のお店が似たような人々に2階を貸し出し始めた。身内に無料で貸してる人もいれば、知り合いに格安で貸してる人もいたけど、とにかく年末年始を挟んで商店街には「住民」が増えつつあった。

てなわけで、その「居候」さんたちが力になりたいと申し出てきた。

かといって自警団よろしく徒党を組んで歩き回るのは本末転倒。監視だけして交番に連絡を入れてもいいが、もっと根本的な解決を望んでた居候さんたちは、ちょっとした策を取った。元はネットで見たネタだって話だけど、居候さんたちは商店街飲みが現れると、外に出る。

全員ホラー系パーティーグッズで覆面、雑貨屋のおじいちゃん貸し出しのラジカセからお経、それぞれ静かに現れてじわじわと取り囲んでいく。声はかけない。怖すぎない?

まあ、中にはそれでも怯まないグループがいたそうだけど、それは素直に交番に連絡。これをどのくらい続けたかな。たぶん1ヶ月以上はやってたと思う。おかげさまで商店街飲みはほとんど現れなくなって、まあ普通に通り過ぎる人まで減ったって話だけど、とにかく居候さんたちの活躍により商店街の安全は保たれた。

そうして、気付けば若先生の講座から1年が経ってた。

あんまり詳しくは聞いてないし、アタシたちも聞こうとはしないけど、旭さんと彼女の実家は何度も何度も喧嘩をして、少しずつ関係を修復していってるらしい。まあ無理もないよ、はーちゃんに「お母さんと喧嘩してるじいじとばあばは嫌い!」と言われてしまったらしいから。

花あかりは元々ランチ営業が中心だったし、休業要請や短縮営業にも応じつつ、最近では庭を整えて外でも食事を出来るようにしたり、それなりに営業してる。

それはあさひ屋も同じで、こっちは元々商店街を利用する高齢者のお昼と夕ご飯を支えてたような店なので、そこにターゲットを絞ったお弁当も好調で、「うどん屋」という体裁は曖昧になりつつあるけど、ひとまず閉店は考えなくてもいいみたい。

……だったんだけど、スーパー勤務を続けてる旭さんが同僚に懸想されて、ちょっとしたストーキングを受けてしまったなんていう事件があったりと、大森家はまだまだ大変な日々が続いてる。でも5人の結束は固い。アタシから見ると、最近それを取りまとめてるのははーちゃんだったりもして、トラブルいっぱいあるけど、大森家は大丈夫。

航くんは来年度から復学の予定。胃に穴が空いたくらいなので学校に戻るのには消極的だったんだけど、周囲がいちゃつくカップルだらけなので早く戻りたくなったそうだ。入寮の手続きも済んで引っ越すだけ。寂しくなるよ、というアタシに航くんは言う。

「卒業したらまた戻るし、そうしたらもうどこにも行かないから」

航くんにとっても、商店街は「うち」になってしまったらしい。

息子の再出発をトト抱っこして涙目で迎えている薫さんはいよいよと透兄ちゃんに「もうほとんど一緒に生活してるようなもんだし、籍入れちゃえばいいんじゃないの、ねえ。待ってても意味なくない?」としつこい。

だけどふたりは目指す貯金額に届かないうちは何もしない、と取り合わない。薫さんは今日も元気に「結婚はお金でするものじゃないでしょ!」と騒いでいる。そりゃ29歳の時に18歳の女の子を嫁にくれと言い出したあなたはそうでしょうけど。

「薫さんもすごいけど、よく許したな、花形の祖父さん」
「朋恵ママがいくつになってもお花畑ガールだったから、将来を悲観して思い余ったらしい」
「今でも仲がいいんだから、悪い判断じゃなかったんだろうけど」

年末年始に一気に増えた感染者がまったく減らない中、街は春を迎えた。商店街はまた深夜のアーケード飲みに悩まされるようになり、桜の蕾が開き始めてからは商店街の往来も増えつつあった。アタシたち「うち」はそれをどこか遠くから見ていた。

確かに商店街で働く人々の中からは感染者がひとりしか出なかった。けれど、若先生が勤めているホームではクラスターが発生、数人が亡くなった。若先生はショックで自主隔離の間に5キロも痩せてしまい、はーちゃんが作った弁当を泣きながら食べていた。

アタシたちは、自分たちの手の届く範囲の中からそういう結末を出したくなくて、マスクをしたまま見上げる2度目の桜を前に、手を繋いで立ち尽くしていた。早朝の花見は寒い。

いつか、旅立つ健司兄ちゃんの送別会として花見をした場所だ。今年は飲食禁止という張り紙とビニール紐が桜の幹を飾っている。桜には可哀想だけど、アタシは出来る限り長くこうして一志と手を繋いでいたい。みんなと生きていきたい。

そういうアタシの気持ちを一志はずっと大事にしてくれてた。アタシも一志の気持ちを宝物みたいに思っている。ふたりの心はひとつだと思う。だから、一志のいつもの優しい「なあ、葉奈」という声をアタシは冷たい空気とともに吸い込んだ。

「なあ、葉奈。結婚、しようか」
「うん。アタシもそう思ってた」
「今でもほとんど一緒に生活してるけど、それ、続けていきたい」
「アタシも。一志と家族になりたい」
……うちの親みたいに、薫さんと朋恵ママみたいに」
「兄貴と旭さんみたいに、志津ママと呈一さんみたいに」

これは確かに「禍」だった。たくさんの悲劇と苦痛の世界だった、それは間違いない。

だけどアタシには本当に大事なものはなにか、自分が本当に望む生き方とはなにかということを真剣に考え直せる時間と、きっかけでもあった。

不安がぴったりと隣に寄り添い続けている日々の中で、アタシは「本当はいらないもの」をたくさん捨てた。そして「本当に必要なもの」を見つけ、自分にぴったり合うサイズの自分ていうものがどんなものなのか、ちょっと掴めたような気がする。

その中で1番欠かせないものは一志だ。彼のいない日々は考えられない。

きっと一志も同じだったんじゃないかな。助け合う共同体である「うち」の中にいても、1番近くに、こうして手を繋いでいられる関係でありさえすれば、自分たちは満足なんだと思うから。それがアタシたちの決断なんだと思うから。

通りかかる人もいない早朝の桜、冷たい空気の中に柔らかな太陽の日が昇る。温められた風がそっとアタシたちの背中を押してくれる。

どんな困難が襲いかかってきても、アタシの大事なものは一志、そして家族、それさえあれば生きていける。それを守るためなら何でもやる。アタシたちを守ってくれたみんなのように、アタシたちがみんなを守れるように。

それがアタシの心、いつでも一志と一緒に商店街にある。

アタシの心がある場所、それが「うち」になるから。

……てこれプロポーズだと思うんだけどさ、指輪とかないけど、そういうんじゃなくて、一志の心からのプロポーズだったと思うんだけどさ、どうしてそういうタイミングで電話かかってくんのさ。今、朝の6時だけど。そりゃ最近散歩とか走りたい時とかは早朝にしてるって言ったけどさ、健司兄ちゃんバカなの?

「あ、もしもし葉奈ちゃん? オレさ、来週帰ろうかと思うん――
「帰ってくんな」
「ひどい!!!」

END