プレシャス

後編

「あれ、ネウロど」

どこ行くの、と言おうとしていた私は、首を掴まれて事務所の階下へと引きずられていった。

事務所の下には、以前吾代さんがマスコミ対策のために潜んでいた空き部屋がある。今も空き部屋のままであるはずだが、私に用はないし、ましてやネウロにはもっと用がないはずなのに。空き部屋の中に放り込まれた私は、そっとドアを閉めるネウロに文句を言おうとして口を開き、そのまま手を突っ込まれてもがいた。

「静かにしていろ」

大人しく従ったけど、何でこんな所に? それだけはどうしても聞きたかったのだが、窓辺に歩み寄ったネウロを見て、背中に冷たいものが走った。何か魔界777ツ道具らしきものが窓の上へと這いずっている!

「ちょっと、何するつもりよ! まさかアンタ2人の事覗こうってんじゃ」

もちろんささやき声だったけど、私は目一杯抗議した。当然、それを聞き入れてくれるわけもない。しかも、色々とセッティングが終わった手をはたきながら、いつもの見下した目で付け加える。

「我が輩はこれで吾代の弱みをまた1つ掴むわけだが、それはそれとして、貴様も気になっているだろうが」

なんて失礼な。アンタみたいなドSと一緒にしないでくれる。私はそんなピーピング・トムみたいな人間じゃありませんよーだ。さっさとそんなもの片付けて謎を食べに行こうよ。

――と、胸を張って言えなくてごめんなさい。本当にごめんなさい、特にさん。

私とネウロに覗かれているとも知らずに、気まずい雰囲気になっているさんと吾代さん。信じられない事に2人はケーキに手もつけず、テーブルの上に放置している。ああ食べないならせめて冷蔵庫に入れて! でも、2人は向かい合わせにソファに腰を下ろしている。吾代さんが勧めたんだろう。少しだけ希望が見える。

きちんと音声まで流してみせる魔界777ツ道具に向かって、私は正座をしていた。天井からぶら下がってモニターのようなものを眺めているネウロは、大きくあくびしている。退屈するくらいなら、こんな事しなければいいのに――と、声に出して言えなくてごめんなさい。

「あの、先日は本当に――
「もういいよ、そんな事は。いつもの事だ、別に気にしてねェ」

話を切り出すとしたら、先日の一件しかないというのに、吾代さんは早々に打ち切ってしまった。

「私、ヤコちゃんに呼ばれてこちらに来たんですが……あなたもここで?」
「俺は助手じゃねェよ。探偵業はあいつら2人がやってる」
「じゃあ、業務委託か何か?」
「まあ、そんなところだ」

なんとなく、じれったい。私は正座した膝についた手を固く握り締めていた。

「望月総合信用調査って知ってるか」
「ええ、ヤコちゃんがCMをやっていた会社でしょ? ああ、それで」
「いやまあ、そうなんだが……

自分から話を振った手前、答えなくてはならないという義務感と、吾代さんが望月総合信用調査に出向する事になった経緯を濁したいのとで、吾代さんは板ばさみだ。そんな所適当でいいんだよ、吾代さん。

「広報か何かされてるんですか?」
「いや、副しゃちょ、あ、違っ……
「副社長!?」

言っちゃった。もちろん恥ずかしい事でも何でもないのだけれど、吾代さんが名の知れた企業の副社長というのはかなり違和感がある。もちろんちゃんと仕事はこなしているのだけれど、それは吾代さんの風体、年齢とは別の話だ。しかも、さんがそこに食いついてしまったら――少し寂しい。

「す、すごい方だったんですね」
「いやその、俺は――
「副社長なんて……もしかして社長令息だとか?」
「いやそういうわけじゃ」

望月さんの息子だとは死んでも思われたくないだろう。でも、それを否定する事で吾代さんはどんどん墓穴を掘っている。しかも、私自身も目を疑ったのだが、さんの目がきらきらと輝き始めた。さん、そういう人だったかなあ。

それと同時に、吾代さんが不機嫌そうな顔をする。元々常に不機嫌顔の吾代さんだけど、それは彼にとっては軽いしかめっ面や難しい顔程度でしかなく、今は明らかに嫌悪感をむき出しにしていた。副社長だと耳にした途端目の色を変えたさんに、不信感を抱いたんだろう。私だってそうだ。

でも、さんはそのきらきらした目で意外なことを言った。

「あの、不躾にごめんなさい、そちらで求人はありませんか!?」

ぽかんと口を開けている吾代さんと階上の私をよそに、さんはしゃべり続ける。大企業の子会社に就職したはいいが、不況の折、子会社は本社に吸収され部門縮小、しかもさんの居た課は1課と2課まとめた上に、課長2人とそれに次ぐ2人の計4人しか残れなかったそうだ。結果として解雇になったさんは、後の保障として地方都市の工場勤務を斡旋されたが、断ったと言う。

「この間は、ヤコちゃんに嘘ついちゃったんです。仕事探してる途中でした」

そういえば、前に言ってたなさん。「私、1人っ子で1人孫なの」と。

調査会社で役立つようなスキルはないと思うけど、どんな所でもいいから空きはありませんか。さんはそう言って、祈るように手を組んだ。吾代さんが副社長だと聞いた時の目の輝きは、希望の光だったんだ。

案の定、吾代さんはどう返答したものかと思いあぐねている。思いのほか義理堅いこのチンピラ風情の副社長は、私の知り合いだというさんのすがるような目を足蹴に出来ないんだ。

「いや、その、俺は人事までは……
「そ、そうですよね、副社長さんですものね、ごめんなさい」

さっきから何かしゃべる度に「いや」から始まっている吾代さんは、根本的に嘘がつけないタイプだ。副社長という立場の吾代さんにすがりたくてテンション上げてしまったさんは、急にしおれて静かになった。

さんも可哀想だけど、吾代さんも可哀想だ。かといって、ウチの事務所で雇ってあげる事も出来ない。ネウロに頼んで望月さんを突付いてもらう、なんて事が出来ればいいのに。まだ天井にぶら下がってるコイツは、そんな事絶対にしてくれない。

このセッティング、間違いだったかな。ちょっと自信がなくなって来て、私は改めて膝の上の手を握り締めた。

……ウチの会社、案外物騒なんだよ」
「え?」

吾代さんが、頭を抱えながらブツブツ言い始めた。確かに一皮めくると望月総合信用調査は物騒だ。

「アンタ、あの探偵の知り合いなんだろ。不用意に紹介できないだろうが」
「すみません……

さんが謝る事ではないのだけど、しおれてしまったさんは肩をすくめて下を向く。

…………どうだ」
「吾代さん?」

また吾代さんの顔が赤くなり始めている。何かボソボソ言っているけれど、よく聞き取れない。さんもそれは同じだったようで、少し身を乗り出して吾代さんの言葉を待っている。何を言うつもりなの、吾代さん。

「俺の秘書ならどうだって言ってんだ!」

いきなり爆発した。

今度は、さんと私がぽかんと口を開ける番だった。秘書。なんていかがわしい――いや、なんて安直な。ただ、私も詳しくは知らないのだけれど、望月さんは吾代さんに仕事を丸投げで遊んでばかりいるらしい。しかも、早坂兄弟を欠いた上層部は、事実上吾代さんの一人舞台で、目が回るほど忙しいとか。

これは……いいんじゃないか?

「ひ、秘書、ですか、私が?」
「それなら俺の目が届くし、ここに用がある事も多いし、業務内容は雑多だ。スキルなんかどうだっていい」

そっぽを向いたまま、吾代さんはつっけんどんに言う。そして、やおら立ち上がった吾代さんは、さんなど振り返りもしないで出て行こうとする。もう、限界なのかな。

「別に履歴書もいらねェよ。それでもいいんなら、明日来な」

ずいぶんな捨て台詞だが、ツカツカとドアに向かう吾代さんの後を追ってさんが走り出した。さんの手が、吾代さんの袖を掴む。身じろぎをして立ち止まった吾代さんが、さんを見下ろす。ああ、どうしよう、ドキドキする。こんな所覗き見してごめんなさい。

「本当に、いいんですか、あの、私」
……困ってるんだろ。俺でいいなら頼れよ」

少しさんから目を背けていたけど、今度は本当にかっこいい事を言った。吾代さん、かっこいいぞ。

「その代わり、仕事は山積みだからな。覚悟しとけよ」

吾代さんにしては、さりげなく、本当に自然に、さんの頭を撫でた。その瞬間、さんは火がついたみたいに泣き出した。まだ高校生である私に実感は沸かないけれど、広い社会の中で、突然放り出されてしまったさんは、とってもとっても不安だったんだろう。1人っ子の1人孫で、見上げるといつもご両親と2組の祖父母がいて、その下で突然職をなくした事は何よりも怖かっただろう。

「お、おい、何だよ、何泣いて――

苦しそうな嗚咽と共に、さんは泣いている。吾代さんの袖をギュウッと掴んで、泣いている。気付いたら、私も泣いていた。さんがこんなに苦しそうにしている所を、見た事がなかったから。

泣き出したさんを持て余したように少し身を引いていた吾代さんは、小さくため息を漏らして、そして、さんを引き寄せて優しく抱きしめた。私は、その光景にどうしようもなく胸を締め付けられて、さんみたいに泣いていた。声が漏れないように口元を押さえながら、泣いていた。

背の高い吾代さんの長い腕に抱きしめられて、さんがとっても小さく見える。さんはその小さい肩を震わせて、少し踵を上げて、子供のように全身を預けて泣いている。「いつもの顔」であるしかめっ面をしていた吾代さんだけど、今はそれが、どんな時よりも優しい顔に見える。そして、吾代さんはさんの頭をもう一度撫でる。さんを、〝よしよし〟している。

爆発的に泣いて、それが少し治まったさんは、改めて困惑の表情をしたけれど、泣き顔のままふんわりと微笑んで、吾代さんの背中に両腕を回した。吾代さんの背中は大きくて、さんの腕は大木にしがみついているみたい。だけど、私にはこの上なく愛しい眺めだった。

さんの手を背中に感じてか、吾代さんがちょっと固まったように見えた。そして、私は初めて見る。しかめっ面でも凶悪な顔でもない、常に吾代さんの眉間にあった皺が取れた、穏やかであたたかな顔を。

ささくれ立った日常を忘れて、さんを優しく抱きしめる吾代さん。何も言わず、そっとさんの頭を撫でている、その表情。私は本日2度目の大洪水に抗うべく、両手で顔を覆った。

その頭上で、ネウロがボソリと呟く声を、私は聞かない事にした。

「フン、つまらん」

END