共有世界

自分でも、物分りがいい方だとは思う。大人としての振る舞いも心得てるつもりだし、時に誰かのわがままであっても、少しくらいなら笑顔で受け入れてやる事は難しくない。けれど、それはそれとして、僕だって不機嫌になる事もあるし、不満があれば言いもする。でも、それが取り返しのつかないほどにひどい言い様である事は稀なはずだ。でなければ、友達だって何だって、できるはずないだろう。ましてや、彼女なんて。

そう、だから僕にはっていう可愛い彼女がいる。それは自体はとても自然な事だと思う。些細なきっかけで知り合って、少しだけ心を痛めるような事も経て付き合うようになった。僕はが好きだし、だってそれは同じ。だから付き合ってる。特別な事など何もない、普通の恋人同士、それだけだ。

でも、どうしてか僕たちは「普通」のカテゴリから外されてしまう事が多い。少なくとも、僕には「普通ではない」つもりはないし、だからと言って普通に見えるように意識する事もない。十人十色、人の数だけ色があるなら、僕たちだって何も「普通じゃない」わけはないんだ。

実のところ、僕たちが「普通」のカテゴリから外されてしまう理由は判ってる。他人が無神経にも「変わってるね」なんて口走る理由は、簡単な事だ。僕が検事で彼女が弁護士だから。ただそれだけだ。

それを僕たちは全く気にしていない。そもそもそんな事を気にしていたらこんな関係になんてならない。だから、かなりおおまかな言い方をして2人とも「法律関係」の仕事をしているわけだけど、それには支障はないし、僕も彼女もそれなりにいい仕事をしていると思ってる。

じゃあなぜ僕がこんな風に長い前置きをしているかと言えば、それでも僕たちの関係に不満があるからだ。

不満と言うと、少し大げさな気もする。僕が気にしているだけ、そういう言い方も出来る。でも、気になっている事が宙ぶらりんのままなんて、気持ち悪いじゃないか。ずっと持ち越されたまま決着を見ないなんて、こんなにすっきりしない事はない。職業柄、そういうのは受け付けないんだよ。

ましてや、それがとの事ならなおさらだ。

で、どうして今更そんな事を蒸し返しているのかと言えば、先週、彼女が電話越しに言ったからだ。

「バカ言わないでよ、世の中そんな風に出来てないわ」

もちろん、僕はバカな事を言った。だからはこんな事を言う。でも、僕が不満に思うのは「世の中」って言葉だ。1つ付け加えておくと、僕がロックミュージシャンだからと言って、「社会なんてクソ食らえだぜベイビィ」なんて事を言いたいわけじゃない。ただ、は本当によくこの「世の中」という言葉を使うんだ。

あくまでもその「世の中」ってやつは、僕やが生きているこの現実の呼称であって、実体もなければ、意味が広すぎて解釈のしようは無限に近い。そんな所に、僕との関係すら押し込められてしまうのは嫌だった。

確かに、急に仕事が入ったに対して「休めないの?」なんて聞いた僕は軽率だったし、バカな事を言ったとも思う。でも、それをたしなめるだけなら「バカ言わないでよ、そんな事出来るわけないじゃない」と言えば済む事だ。2人で会う約束がキャンセルされそうな状況に、世の中の理なんて、関係ないじゃないか。

思えば、付き合う事を決めた時もは「世の中」って言葉を使った。なので、自動的に僕の違和感はそこから始まっているわけだ。想い合ってるんだからいいじゃないか、職業なんて問題じゃないよと言う僕に、は言う。もちろんそう思う、私も響也の事が好きだと。そして、一呼吸置いて付け足す。

「だけど、世の中はそんな風に思ってくれないかもしれないよ」

その時は僕も少しテンションが上がっていたし、うなじにチリッと引っかかる程度にしか感じていなかった。そんな事よりも、僕とが「友達」という関係から進展出来るかどうかの方が大事だった。それに、がこの時気にしていた「世の中」の解釈は、いわゆる一般的な意味ではなかったから、余計に。

検事と弁護士、だから知り合うきっかけもあったし、知り合いが友達に、友達がお互い気になる存在へ、そう変わっていったのも、ある意味では同じ世界を舞台に働く身であったからだし、その点で価値観を共有する部分も多かった、だから惹かれ合った。

でも、この時に取り憑いていた「世の中」は法曹界じゃなくて、芸能界だった。僕が人前でマイクスタンドを振り回したり、ギターをかき鳴らしたりしている側面を持っている事、そしてその世界がを怖がらせていた。だから、平たく言えば、この時のの「世の中」はファンであり、関係者であり、ガリュー・ウエーブを中心に置いた限られた世界だった。そんな事にビクつくような僕だと思っていたんなら、それは見込み違いだ。

は世の中が好きなの? 僕の事じゃなくて?」

これも、もちろんこの時にあっては本気の一言だった。だから、泣き出しそうな顔をしたが、「そうじゃない、私が好きなのは響也だよ」と言いながら僕の手を取った時、迷わずに引き寄せて目一杯抱きしめた。それだけで充分だった。僕はが好きで、も僕の事が好きで、それを誰であっても堂々と言う事が出来る関係になれる事、この時はそれが大事だったのだから。

そうやってを抱きしめてから、どれくらい経っただろう。ざっと振り返っても、僕たちは仲良くやってきたと思う。仕事が関係に響くわけでもなく、周囲の好奇な目に揺らぐ事もなく、僕たちが望む関係のまま望む世界で生きていると思う。今でもが大好きだし、だってそう思っていると信じている。

だから、の「世の中」は、僕にだけ感じる小さな内部崩壊の合図だ。僕とと、2人の生きる世界が重なって、重なった所が溶け出し混ざり合ってもう1つの世界を作る。重なり合わない世界、お互いに見えない世界、2人の外にある世界、それは僕とのどちらにも関わりのある事だけれど、僕との作り出した共有世界には手出しが出来ない。むしろ、そんなものの侵入を許した共有世界はすぐにでも崩れる。

僕とは、2人だけの共有世界と、混ざり合わない世界のどちらにも居る。その両方のバランスが保たれているから付き合っていられる。けれど、は共有世界に混ざり合わない世界を混ぜようとする。少しだけ隙間を空けて、じわりじわりと侵入を許す。きっと、それ自体には全く影響のない事なんだろう。

僕には耐えられない事だとしても。

約束をキャンセルする事になったの急な仕事。それが終わるのを待って、彼女の前に立ち塞がった事、これは確かにあまりいい振る舞いではなかった。僕らしくないといえばそうだし、子供っぽいかもしれない。仕事終わりなのだから、1人ではないかもしれないという事も考えていない無神経ぶり。

だけど、小さなヒビを、内部崩壊をどうしても止めたかった。

という大事なパートナーであるからこそ、どうしてもその世界を壊したくなかった。例え、そのきっかけを作ったのがであり、崩壊へ繋げたのが僕だったとしても、見てみぬ振りをして崩れ去るのを待つのは嫌だった。

こんなどうでもいいような事を持ち出して、ヒビどころか、勢いよく壊してしまうような事にはならないとぼくは思っている。は単純だけど軽率な人間ではないし、何かを理解すると言う事に関しては努力家でもある。それに、そんなプロファイル以上に、僕はを信じている。いっそ、盲目的なぐらいに。

突然現れた僕を、仕事帰りのはきょとんとした目で見ている。きっと普段通りではなかっただろう僕の顔色に感づいてか、上手く言葉も出て来ないらしい。でも、そんなポカンとした表情で仕事のファイルを手にしたが好きだ。いきなり立ち止まったせいで、つま先が少し内股になっているが好きだ。

だから、2人の世界を壊さないために。どんなものの侵入も許さない世界を守るために。

、僕は世界じゃないよ」

の目がもっと大きく見開かれるのと、僕がそう言った瞬間口に手をビタンと叩き付けるのは、ほとんど同時だった。を待つ間に、色んな事を考え過ぎたせいだ。要約するにも程がある。

さてどうしたものか。このまま壊れる世界を黙って眺めているしかないのは不本意だが、どうすればその進行を止められるのかは、判らなかった。

だから、すうっと息を吸い込んだがボソッと呟いた時、僕は倒れてしまいそうなくらいにホッとした。

「うん、そうだね。私も、世界じゃないんだよね」

でも、もっとちゃんと話を聞かせてと僕の手を取るの目には、一点の曇りもなかった。こうして手を取り合って言葉を交わして、重なり合う世界を守りたいと思っている以上、内部崩壊は止められない脅威じゃない。大丈夫、僕たちの共有世界は壊れたりしない。

例え外の世界がどんなに荒れ狂っていようとも、僕たちの共有世界だけは、絶対に。

END