18:45

18:42

私はデジタル時計へちらりと目をやって、またすぐに視線を前に戻した。平日の夕方、駅へと向かういつもの道は、普段と変わらない交通量。検事局を出て12分で、駅に到着出来る。そのため、いつも検事局の地下でエンジンをかけた時のデジタル時計は、18:33。狂いはない。

静かにハンドルを切って、地上へと這い出る。季節によっては沈みきらない日に空が赤かったり、すでにとっぷりと暮れてしまっていたり――それは変わるが、道順もたどり着くための時間も変わらない。

愛車に乗り込んで12分で、私は駅のロータリーへと車を乗り入れ、そして、彼女を拾う。

、なぜか、彼女を。

「ぴったり!」

彼女は開口一番いつもそう言う。毎回ぴったりなのだから、何度も言う必要はないはずなのだが、それでも必ず言う。そして、その次は毎回小言だ。迎えに来てやって、なおかつ年上である私に向かって小言とはいい度胸だとは思うのだが、若い女性というのは感情の赴くままにまくしたてるから、丸め込まれる事も多い。情けない話だが。この間もそうだ。

「ねえ、あのさ、この車、どうなの?」

どうなの、とはまた随分な言い様だ。全世界500台限定のスーパーカーに向かって何と言う事を。平均的な同世代より少しばかり収入が多い私に取っても安い買い物ではなかった。

「この間、友達も一緒だったでしょ?」

確かに、これより前に迎えに行った時、彼女の友人と思しき女性が2人いた。私の車は2シーターなので、当然同乗はさせられなかったが。そもそも、私はを迎えに行っているのであって、タクシーではない。

「なんかもう、すごいドン引きでした。」
「どんびき?」

簡単に言葉の意味を判じる事は出来なかったが、彼女の友人はどうもこの車がお気に召さなかったらしい。だが、それを話す彼女は、なぜこんなにも楽しそうなのだろう。横目でちらりちらりと私の方を見ながら、私の視線が追うのを察知しては逃げる。右手の中指を上唇に当てては、ふっと吹き出す。

「何か問題でもあるのか」
「うーん、あんまりフツーじゃないから、たぶん。」
「だからそれに何か問題――
「彼女たちにはあるんじゃない?」

そして、わざとらしく間を置いてから続ける。「私にはないけどね」と。

「ものすっごいロータリーが混んでても、絶対一発で見つけられるもん」

確かに最初はこの車にケチをつけられていたような気がするのだが、こう締め括られては、何も言い返しようがないではないか。そんなだから、毎回彼女と別れた後は思うのだ。「聞き損」だ、と。

何かにつけて色々口を挟みたがるのはまだいいとしよう。私も口述が仕事のようなものだし、望むところだ。だが、今のところ、全敗している。本当に情けない。こんな事法廷で顔を合わせる連中になど口が裂けても言えない。知られてしまったらまた失踪するしかない。

と、そんな事を回想していた私の目に飛び込んできたのは、もうもうと立ち上る白煙と、それに阻まれた車の列だった。だが、ここで焦って車を飛び出し、何も出来ないのに現場をうろうろするような私ではない。私は成歩堂とは違う。白煙、すなわち火災などによる煙ではない。窓を開けてみたが、異臭もない。大方、風に舞い上がれば白煙となる粉末状のものかなにかをブチまけたのだろう。

私は定時到着を諦め、おとなしくシートに背を静めて待った。その時だ。

「おい、なんだよアレ」
「なんか、農薬かなんか積んでたトラックがひっくり返ったらしいぜ」

開け放した窓からそんな言葉が飛び込んで来た。この時の私の行動を、誰か説明してくれないだろうか。気づいた時には、全世界限定500台を放り出して、私は走っていた。明らかに駅の近くと思われる場所で、地上10mにも舞い上がろうかという農薬。それが無害だと誰にわかるだろうか。

最後に見たデジタルの表示は18:44。あと1分だったのに。

その時、野次馬を押しのけて進む私の頭上から、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。だが、私はそれにも気付かずに思うように進まない道を走っていた。やがて雨が白煙を地面に押し返して、辺りには野次馬のざわめきと、雨の音だけが残った。

「あっ、どうしたの!?」

だった。

「ど、どうしたもこうしたも――ぶ、無事だったのか」
……無事?」
「の、農薬、だったんだろう」

息の上がった私は、途切れ途切れにそう言うのが精一杯だった。だが、は事も無げに言う。

「農薬?アレ、澱粉だとか片栗粉だとか言ってたよ?」

澱粉だとか片栗粉だとか。どっちにしろ同じものじゃないか。

法廷で証拠の信憑性を覆されるよりダメージが大きい。澱粉か片栗粉のために私は全世界500台を――

「あのさ、私カサ持ってないんだ。早く車、戻ろ?」

混乱もとうに過ぎ去った道端には全世界限定500台。道行く人たちがドアを開け放したままのスーパーカーを奇異な目で眺めては去って行く。鍵を差したままなどという間の抜けた事はしなかったが、ドアを閉める時にはもう走り出していたんだろう。閉まりきらなかったドアは半開きのままだ。

幸い、大粒の雨ではなかったから、私もも、ほんの少ししか濡れていない。だが、スーツの袖で顔を拭う私に、は小さく畳んだタオルを押し当てた。

「ねえ、もしかして、心配して走ってきてくれたの?」

そんな言葉に、どう答えれば一番いいのか。そんな事、判るはずないだろう。そうだと一言で返すのも癪だし、そうではないと否定するには根拠が足りない。いつもの「ムジュン」というやつだ。

「そ、それは――

なぜ、言葉が見つからない。なぜ、言葉が出てこない。

澱粉だか片栗粉だか――しつこいようだが同じものだ――の騒ぎのせいで、デジタルの表示はとっくに18時台を過ぎて、19:22になっている。停車している私達の横を、いつもの交通量で車が走り去っていく。進行方向には、もうすっかり夜が訪れていた。

……ありがと」

頬に残るタオルの感触はいつのまにか消えていて、気づいた時にはの唇が触れていた。

「怖い顔して走って来てくれて……びっくりしたけど。車、なくてもすぐに判ったよ」

だから、誰か説明してくれないだろうか。

破綻のない理屈で、誰が聞いてもムジュンなど一欠けらも見当たらない完全さで、簡潔に説明してくれないだろうか。私にもにも、判るように。

なぜ、私はそれきり何も言えない?
なぜ、私はタオルを掴むの右手を離せない?
なぜ、私は車を発進しようともせずに、の額に頬を摺り寄せている?

普段どおりのままでいたいのに、どうしても、抗えない。

どうしたら、勝てるんだ。この、という1人の人間に。

の手を離せないまま、の額に埋めた頬を引き剥がせないまま、私はデジタル時計を見る。

19:45、その見慣れない数字を。

END