午後1時の理由

後編

ママのいない店は、若くて可愛い女の子達がわらわらといるだけの空間。腹を空かせたガラの悪い一団が好き勝手に振舞い始めるのに、そう時間はかからなかった。

まずは店のアルバイトの中でも特に大人しい女の子が足を触られた。次に、気の強い女の子がオーダーを取りに行き、強気な態度に悪態をつかれた挙句、尻を触られた。この頃になるとアルバイトの女の子達はこの一団を持て余し始め、早くママが帰ってこないかと祈るようになった。

それでも忠実に職務に励む女の子達は、料理を運び、飲み物を出し、悲鳴を上げてしまいたいのをずっと我慢していた。大人しくしていれば大丈夫、食べ終わるまでの我慢、きっとママはすぐに帰ってくる。ただそれだけを拠り所に、彼女たちは耐えた。

けれど、ママは未だ帰って来ず、とうとう事件が起こってしまう。

と共に食後のコーヒーを運んでいた女の子が、緊張のあまり熱いコーヒーが入ったカップを落とした。その衝撃で跳ねたコーヒーが、傍若無人な一団の1人の足にかかってしまった。瞬時に店の女の子達に緊張が走る。まずい。ママがいないというのに、とんでもない事が起こってしまった。

「おいコラ、なにやってんだこのクソアマ!」

は咄嗟に、震え上がって動けない女の子の前に飛び出した。

「申し訳ありません、大変失礼をいたしました」
「熱いじゃねえかおい、どうしてくれるんだ」
「お怪我はありませんか、お召し物はこちらで責任を持って……

クリーニングに、と言いかけたは胸元を掴まれて高く持ち上げられてしまった。足が浮いて、苦しさのあまり声も出ない。突然の暴力にアルバイトの女の子の悲鳴が店中に響き渡る。ママを呼びに行く、と女の子が数人店を飛び出した。だが、ママがダッシュで戻ってきても、間に合うとは思えない。

「何がお召し物だよ、え? 気取りやがって」

は足をばたつかせながら、思わず窓際の席を見る。赤毛さん、助けて。

しかし赤毛さんはもういなかった。食後のコーヒーもまだなのに、この騒ぎを知ってさっさと帰ってしまったのか。は、そうか、神羅というものはこういうものなのかと思って悲しくなる。赤毛さんは、火の粉が飛んでこないうちにそそくさと逃げてしまうような人だったのだ。そんな人だと、思わなかったのに。

の目から、熱い涙が一筋零れ落ちた。

「うお!?」

の涙が床にポツンと落ちるかというその時、野太いくぐもった声と、再び女の子達の悲鳴が店にこだました。続いて、食器の割れる音、椅子が倒れる音、その度に大合唱になる女の子達の悲鳴。掴み上げられたまま天井を見ていたには、何が起こっているか判らなかった。

どれくらい時間が経っただろうか、は時間の流れも状況も判らないまま突然戒めを解かれ、床にどさりと落ちた。大きく咳き込み、恐怖で震える身体を両腕で抱いたは頭上に差した影に顔を上げる。影の正体は、いなくなったとばかり思っていた赤毛さん、その人だった。

「おい、大丈夫か。怪我、ないか」

赤毛さんは静かにそう言って、の肩を揺する。怪我をしているかどうかなんて判らなかったが、は涙をボロボロと零しながら何度も頷いた。赤毛さんが助けてくれた、私が思ったとおり赤毛さんは悪い人じゃなかった。そんな思いでいっぱいだった。

見ればの周囲には数人の男がひっくり返って呻いている。まさか赤毛さんが? は混乱する頭で考えてみたが、どうにもよく判らない。だって赤毛さんは呼吸1つ乱れていないし、倒れている男達の方が身体も大きいのに。まさか赤毛さんがやったっていうの?

そんなの問いに応えるように、残りの無法者たちが赤毛さんに襲い掛かる。やたらと声を張り上げて大きく腕を振りかぶり、どたどたと突進してくる。喧嘩といえばママの鉄拳制裁くらいしか知らないには、どう見ても赤毛さんのピンチだ。背は高いけど、細身の赤毛さんじゃ、やられちゃう。

はっと息を吐く音が確かに聞こえた。喧騒の真ん中にいるはずなのに、には赤毛さんの短い吐息がやけにはっきりと聞こえる。次の瞬間、の動体視力では追いきれないスピードで赤毛さんは動いた。腕が、脚が、まるで機械のようにすいすいと動き、その度に長く背中に伸ばした赤い尻尾が跳ねた。

「うそ……

呆然と赤毛さんの背中を見上げるの目の前で、男達がまた全員ひっくり返った。

「お前らしつこいぞ、と」

苛立たしげにそう言う赤毛さんはやっぱり呼吸1つ乱れていない。はぽかんと口を開けて彼の背中を凝視している。他のアルバイトの女の子達も、悲鳴を忘れてぽかんとしている。ママが戻る前に、なんとかなるのかもしれない。そんな風に思えてくる。

だが、赤毛さんの言うように男達はしつこかった。1度は沈んだはずの大男がのっそりと立ち上がって血の混じった唾液を吐き出す。それを追って、さらに数人が起き上がって赤毛さんに詰め寄った。

「チョーシこいてんじゃねえぞお前、この程度でくたばると思ったのかよ」
「なんだよ意外と元気だな。手加減すんじゃなかったぞ、と」
「なんだと!? ナメやがって素人が。こっちは元神羅兵なんだぞ」

一気に店内がざわめいた。それを自分への畏怖と勘違いした大男は満足そうに鼻を鳴らす。だがもちろん、女の子達は男達が元神羅兵だから驚いたのではない。〝元〟神羅兵だという男達に対峙しているのは、〝元〟神羅兵だという男達を1人で片付けかかっているのは、〝現在進行形〟で神羅の人間らしいのだから。

「へえ、そうかい。そんじゃ、神羅の総務部調査課くらい知ってるな?」

背を向けている赤毛さんの顔をが見る事は出来なかったが、なぜか彼の声は楽しそうだった。

「それがどうしたよ、部外者が知ったような事を――
「その調査課にいる、あるチームの存在は知ってるか?」
「な、タ、タークスだろうが、なんなんだ一体、それがどうし――

楽しそうな赤毛さんの声は、しかしとても低くてぶれがなく、確信に満ちている。男達はついそのペースに乗せられてぼそぼそと言い返した。にも赤毛さんの言葉の意味するところが解らない。タークス、どこかで聞いた事があるような気がするのだが。

その時、ただ成り行きを見守っていたは、店の入り口に現れた大きな影に気付いて安堵した。ママだ、ママが帰ってきた! だが、同様ホッと胸を撫で下ろした女の子たちの目の前に現れたのは、スキンヘッドでサングラスのいかめしい大男だった。女の子たちの顔色がサッと青くなる。

「よーし、じゃあそのタークスの主任は知ってるな、もちろん?」
「ツォンだろ、それがなんだって――
「正解だぞ、と。それじゃあ、その下にいる神羅の中じゃまあ、名の知れた2人組、いってみよう」

新たに現れた脅威になど気付かないらしい赤毛さんはぺらぺらと喋り続けている。は何とかして赤毛さんに伝えたいと思うのだが、どうしても声が出ない。そうしている間にもスキンヘッドの男は店内に入り込み、ゆっくりと歩を進めて赤毛さんに近寄っていく。

「2人組? 確か……細いのとデカいので……
「そうそう、それで1番判りやすい特徴は、と」
「思い出した、レノとルードだ。赤毛と――スキン、ヘッド、の――

スキンヘッドの男が赤毛さんに並ぶ。それを目に留めるなり、そう言った男だけでなく、それまで威勢のよかった男達が一気に相貌を崩した。も店の女の子たちも、わけがわからない。その中で赤毛さんは、スキンヘッドにひょいと手を挙げて見せる。

「おう、ルード。遅えぞ、と」
……急いでないからな」
「さあて、元神羅兵だっていうあんた達は、タークスをどんな風に知っているのかな、と」

思い出した男は「2人組」の名前を「赤毛とスキンヘッドのレノとルード」だと言う。赤毛さんはスキンヘッドを「ルード」と呼んだ。は、突然目の前がすうっと開けていくのを感じていた。赤毛さん、レノっていうんだ。神羅の、タークスっていうチームで、名前はレノっていうんだ。

理由もなく恐怖感から開放されたは、レノの言葉を聞くなり情けない声を上げて店から逃げ出していった男達をただぼんやりと見送った。ママの不在に起こった事件は、こうして赤毛さん――レノ1人が片付けた形で終わろうとしている。レノはを振り返って静かに尋ねた。

「大丈夫か」
「は、はい、たぶん」

そうは言ったものの、腰が抜けていたは脚がガクガクと震えて上手く立てない。レノはの腕を取り、背中を支えて椅子に座らせると済まなそうに微笑んで謝る。

「店、引っ掻き回して悪かった。女将に怒られちまうぞ、と」
「そ、そんな事、私は、その」

助けてもらった礼を言いたいのに、上手く唇が動かない。はまた目が熱くなって、慌ててごしごしと擦った。怖かったのと、嬉しかったのと、どちらも同じだけの心の中にあって、どうしようもなく胸が締め付けられる。そんなの頬に、レノの人差し指がすっと走る。

「怖かったろうな、もう大丈夫だぞ、と」

せっかく拭ってもらった涙がどっと溢れ出す。レノはの頭をよしよしと撫で、が落ち着くまで手を握っていてくれた。の涙がおさまったところでレノは立ち上がり、ルードと共に転がったテーブルや椅子を直して回る。ついでに割れた食器の片付けも手伝う。

そんな2人の前に、神羅嫌いだという女の子数人が立ちはだかった。

「私、今でも神羅なんて大っ嫌いよ」

助けてもらったのになんて言い草だとは憤慨して声を上げようとしたが、神羅嫌いの女の子はスッと手を挙げてを押し止めた。見れば、女の子の表情は今までよりも格段に穏やかだった。

「だけど、今日の事はお礼を言うわ。助けてくれてありがとう」

その言葉に微かに微笑んだレノとルードは、すいっと身を翻して店を出て行く。何もかもが丸く収まった店内に仲間を残して、はその後を追った。「あの」と声をかけたに、レノだけが振り返る。ルードはまるでおかまいなしにさっさとどこかへ行ってしまった。

「本当にありがとうございました。なんとお礼を言えばいいか……
「そんなにペコペコするなよ。あいつらが逃げ出した理由を知ったら、あんたおれ達を軽蔑するぞ、と」
「そんな事ありません!」

また自嘲気味に笑ったレノに、はきっぱりと言う。

「私は神羅の事なんて何にも知らないんです。だから、後から何を知っても今日助けてもらった事は忘れません」

ポケットに突っ込まれたままのレノの腕を掴んで、はぐいぐいと揺らしながらまくし立てた。にとっての「神羅の人間」であるレノは、意外と紳士で、強くて、自分を窮地から救ってくれた人、ただそれだけだった。嫌う理由も軽蔑する理由もの中にはない。その言葉にレノはにやりと笑って見せる。

「可愛い事言うなよ、デートにでも誘いたくなっちゃうだろ。女将に殺されちまうわ」
「別に殺しゃしないよ、誘いたきゃ誘いな」

突然頭上から降ってきた迫力のある低音に、とレノは飛び上がった。ママのご帰還である。

「道すがら話は聞いた。兄さん、恩に着るよ」
「やめてくれよあんたまで。どうせ汚れ仕事が生業なんだ、大した事じゃない」

面倒くさそうに手をひらひらと振ったレノに、ママはそれでもニカッと笑って白い歯を見せた。

「まあ、いいよ。今後もご贔屓にね。、礼の代わりだ、デートして来てやんな」
「いや、おい、女将さん、おれは」
「男のくせにグダグダとうるさいね、6時に迎えに来な。サービスは期待するんじゃないよ」

参ったな、と言いながらレノは首筋を掻き、ドカドカと店に戻るママを見送った。

「レノさん、私、ここで待ってます」
……おいおい、本気か?」
「レノさんが言ったんでしょう」
「そりゃそうだけどよ、と」

にこにこしているにつられて、レノもふんわりと微笑む。

「昼時を避けて通った甲斐があったな」
「え?」

きょとんとしているの額を人差し指で突いて、レノはニタリと笑った。

「空いてる時間帯でなきゃ覚えてもらえないと思ったからな、と」
「レノさん……

ややはにかんだ様子のレノに、は途端に気恥ずかしさを覚える。パッと手を離し、なんと言ったものかと悩むに、レノはニカッと笑ってよく通る声で言った。

「残業はしない主義なんだ、6時に迎えに来る。楽しみにしてるぞ、と」

手を振って去っていくレノの後姿を見送りながら、も同じように大きく手を振った。今夜はレノさんとデートだ。神羅の人で、意外と紳士で、私を助けてくれたレノさんとデート、するんだ。そう思うと、少し前まで恐怖に縮み上がっていたの心はざわつき、期待でどんどん膨れ上がっていった。

店内に戻ったに、レジを眺めていたママが声をかける。

「本当の事は見つかったかい?」

油断ならない、けれど何もかもを見透かすような目のママに、は大きく頷き、はりきって答える。

「神羅なんて関係ない、私、レノさんが好き。これが真実よ、ママ」

ママは満足そうに微笑むと、いつかのように勢いよく煙を吐き出した。

END