非現実的恋愛小説

非現実的なのは私の書いている小説であって、あくまでも私の日常はありふれたものだと思っていた。火村にくっついていっては殺人事件に首を突っ込んでいるということも、稀ではあるだろうがひどく現実的であると頑なに信じている。異論はあるだろうが私はそれを譲るつもりはない。

だが、火村はにべもなく言う。

「じゃあこれはなんなんだよ」

言い返せない。雨の日に路上で女の子を拾いましたなんて、非現実的以外のなにものでもないじゃないか。

そう、あの日は雨が降っていた。だらだらと降り続ける小さな雨粒がいい加減鬱陶しくなる連日の雨空の下を、私はコンビニの袋をぶら下げながら歩いていた。数日前に短編の話をもらったところで、頭の中で密室トリックを捏ね回しながら歩いていた私は、奇異なものを目にして立ち止まった。

道端にぽつんとビニール傘をさして女の子がしゃがみ込んでいる。

何か落し物をした風でもなく、具合が悪いようでもない。雨続きで気温も低いというのに、その女の子は生成りのワンピース1枚で、なんと足には下駄というこれまた奇異な装いでしゃがんでいる。当然のことながら、私は素通りしてしまおうと歩き出した。関わり合いにならない方がいい。誰でもそう思うだろう。

しかし、好奇心だけは人一倍であることが災いして私はつい女の子の顔をちらりと見てしまった。

女の子はとてもきれいな顔をしていた。それは造作だけではなく、肌も髪も、ワンピースから覗く足ですらもきれいだった。その上、雨空の下をワンピースに下駄という危険を感じさせる装いに反して、とても無垢そうな、あどけない顔をしていた。迷子になってしまった少女のような少し寂しげな目に、私は思わず足を止めた。

「どうしました? どこか具合でも……

まさか「あなた、とてもきれいですね」なんていうふざけたことは言えない。具合が悪いようには見えないが、1番無難な問いかけを私は選んだ。声に気付いて顔を上げた女の子は、無表情で首を横に振った。それはそうだろう。寒そうではあるが、元気そうだ。唇もまさに薔薇色。

「そんな薄着では風邪を引きますよ。お宅は近所ですか」

その問いにも女の子は返事をせずに首を横に振る。やっぱり少し危険な人物かもしれないと私は後悔し始めた。しかしどうにも引っ込みがつかない。今すぐ無言で立ち去る理由が欲しい。そんな風に私が行き場を失った好奇心を持て余していると、女の子が突然か細い声を上げた。

「お腹すいた」

「それでまんまと持って帰ってきたというわけか」
「確信犯みたいな言い方するな」

火村はとうに呆れ返っているが、興味はあるようだ。

……で? どうすんだこの女。お前未成年者略取でお縄になりたいのか」

私も真っ先にそれを考えた。推理小説家が本物の犯罪者では笑い話にもならない。だがそこには、推理小説というよりも安物の恋愛小説のようなオチが付いていた。仕方なく自宅に連れ帰ったのだが、そこですぐに年齢だけは判明した。

「それが、どうも未成年やないらしい」
「自称、だろ」
「いや、保険証持ってた」
「は? それなら自宅に送って行けるだろうが」

訝る火村には悪いが、さらに安物な展開は続く。

「あの子、その保険証破って燃やしてしもうた」
「おいおい、精神状態はまともなんだろうな」
「たぶん……

住所が大阪でなかったことだけは読み取ったはずだが、未成年ではないのだなと安堵していた私の手から保険証をもぎ取ると、彼女はビリビリと破ってしまったのだ。そして無数の紙片になってしまった保険証をキッチンで燃やしてしまった。

「で、居つかれたっていうわけか」
「面目ない……

その女の子――が私の部屋に転がり込んできてから、今日で4日目だ。火村には事前に何の説明もないままになってしまって、元々用があって彼は出向いてきてくれたのだが、ずいぶんと驚かせてしまったというわけだ。今、はみやげ物の着物ガウンを羽織って私のベッドで寝ている。

真っ赤な鼻緒がついた塗りの下駄をはいていたし、は和風なものが好きなようで、東京は浅草みやげだというサテン地の着物ガウンを見つけて以来ずっと羽織っている。私としてももらったはいいが使い道に困るものだったから、そのまま羽織らせている。

「自分のことはまったく喋らん。でもその他はどうということもなくて」
「なんだってまた保険証なんだろうな」

火村の興味はのパーソナリティーでなはくて、隠された彼女の背後に移ってしまったようだ。無理もない。私も推理小説家のはしくれとして色々と考えてみたのだが、無責任にも今ではその真相究明を投げ出している。

大変言いにくいことではあるが、それはが可愛いからだ。

1人きりで机に向かう日々の中に突然舞い込んできた。彼女がいる生活が今はとても楽しい。楽しいというとずいぶん盛り上がっているようにも聞こえるが、はいたって静かな生き物で、ただ〝居る〟だけなのだが、それでも私は楽しかった。

着物ガウンでぼんやりしているは「獄門島」の月代を髣髴とさせて、それもまた趣がある。

そんな私の身勝手な心情を読み取ったのか、火村は険しい顔をして煙草に火を点ける。

「いつまで置いておくつもりなんだ?」

言葉に詰まる。出来るならずっと傍に置いておきたい等と言おうものなら、私は貴重な友人を失ってしまう羽目になる。火村の険しい顔がそれを物語っているような気がして、私は意味もなく咳払いをした。

「俺がとやかく言うことじゃないが……どうなっても知らんぞ」
「それは……解ってる」

火村はそれ以上何も詮索することなく帰っていった。

火村が帰るなりは起き出して来て私に抱きついた。言い訳がましいかもしれないが、私はこんな風にが抱きついてきたりする以外に彼女には一切触れていない。が私のベッドで眠っているのは、床を共にしているのではなくて、私がベッドを譲ったからだ。

とはいえ、リビングに敷いた来客用の布団で眠る私が目を覚ますと、が潜り込んで来ているので、あまり説得力はないかもしれない。その度にたしなめるのだが、は私の目をじっと覗き込むばかりで了解した様子はない。

「うるさかったか?」

火村と私の会話に目を覚ましたのだろうか。私はの頭を撫でながら聞いてみた。

ぎゅうと抱きついたまま、はもそもそと首を振る。すっかり私の部屋の匂いが移ってしまったの頭を、背中を撫でながら、私は耳に残る火村の言葉に言いようのない不安を感じていた。をここに置いておくということではなく、失うことに、である。

今すぐ警察に届けるべきだ。ろくに言葉も発しないによく言って聞かせて出て行かせるべきだ。そんなことは百も承知なのだ。解っているが、を手放したくない。人としてまっとうな道を踏み外しかけていることも、解っている。それでも、情の移った動物を手放せないように、を失いたくなかった。

繰り返すが、私はには一切手を出していない。これも下手な言い訳のようだが、不思議と彼女には欲情しないのだ。成人しているということは承知しているが、は女というより女の子だった。純真無垢で何も知らず、むしろ性別など持たない存在のようで、情は移っても決して燃え上がらない。

「お腹減ったんやろう。何か食べるか?」

私はまたも現状との決別から逃げ出してに笑いかける。もこっくりと頷いて笑顔を返した。

だからこの夜に起こったことは、無責任な感情のままにを独占しようとした私への罰だと思っている。火村に釘を刺され、それを痛いほど理解しているというのに、何もしようとしなかった私への罰だと、そう思っている。

が突然まともな言葉を話し、帰ると言い出したのだ。

「ごめんね、先生」

夕食の後片付けをしていた私の背後でがそう言った時、私の背中に冷たいものが走った。

「え?」
「迷惑かけてごめんなさい。私、ちゃんと帰ります」

着物ガウンも脱ぎ捨ててしまっていて、私の貸したパーカーに裾を折り返したジャージのはぺこりと頭を下げた。言葉だけでなく、表情もすっかり変わってしまっている。とろりとした夢見るような目つきはもうどこにもなくて、年相応のしっかりした表情だ。

、さっきの話聞いてたんか。あれなら気にせんでも……
「いえ、それは無理です。先生も、解ってるでしょう」

火村に同じことを言われるより、何倍も辛い。私は自分で思っているよりに依存していたのだろうか。

「先生の優しさに甘えてしまって――私も短慮でした」
「そんなことは……それはお互い様やないか? どっちが悪いとかそういうことでは」
「ありがとう、先生。私も出来ればずっとここにいたい。でも、ね」

言うことを聞かない子供をたしなめるようには困った顔をする。そう、私がどうにかしてを引きとめようとするのはまったく子供じみていて、浅はかで、一応は社会人である以上は愚かなことだ。そんなことは解っている。解っているがを失いたくないのだ。

「解ってるよ、でも、俺は」
「だめ、先生。だめだよ」

思わずの両手首を掴んだ私の手を、彼女は丁寧に振り払う。それでも私はしつこくの手を取り、無理矢理唇を押し付けた。は抵抗しなかったが、やはりゆるゆるとかぶりを振って、私の手を解く。

「私も先生のこと好きだよ」
「それなら……!」
「だから、だめなの。先生はちゃんと解ってるよね。全部、解ってるよね」

私の手を解いたはそう言うと、そのまま振り返り玄関に向かって静かにドアから出て行ってしまった。

……

1人残された私は呆然自失でその場に立ち尽くすしかなかった。こんなに簡単にを失い、残ったものといえば、彼女の香りが染み付いた着物ガウンと、そしてたった4日間の記憶だけ。キッチンで棒立ちになったまま、私は何度もの名を呼んだ。返事がないと解っていて繰り返す私の声は、微かに震えていて滑稽だった。

その夜、私はの香りが漂うベッドで着物ガウンを抱きしめて眠った。

「無様だな」
「なんとでも言え」

電話だけで済むような用しかなかったのだが、が帰ってしまったことを聞きつけると火村はいそいそとやって来た。笑いたくて仕方ないという目で私を見ている。私はそんな火村に構わず、着物ガウンを羽織ってソファにひっくり返っている。足元にはから届いた荷物が開けたままになっている。私の貸した服を送り返してきたものだ。

「発送元は本人、と。用意周到なことだな」

送り状にの住所氏名は記載されていなかった。新品らしいダンボールに私の貸した服と、4日間の食事代のつもりか、1万円が入った封筒が添えられていただけ。

「お持ち帰りした女に手も出せず、たった4日で逃げられた――か」
「淫行目的みたいな言い方するな」
「本人はプラトニックな関係だったと主張、ね」

火村は咥え煙草でにやにやし通しだ。

が消えてから、もう3週間以上が経つ。その間私は仕事が手に付かない――ということもなく、自分でも呆れるほどすんなりといつもの生活には戻れていた。ただの羽織っていた着物ガウンを手放せないだけで、に出会う前にもらった短編の進み具合も悪くない。

目覚めた時にがいない、そのことにも慣れないでいたが、起き出して机に向かってしまえばいつも通りだ。

そのとき、私は軽やかに鳴るチャイムに首を捻った。ではないかという期待はとっくに無くしている。1週間くらいはチャイムが鳴るたびにドアへと走ったものだが、宅配やら書留やらの応対をしている間に期待は消えうせてしまった。

「出ないのか」
「どうせ勧誘か何かやろ」
「どれ、俺が出よう。宗教ならいいんだがな」

火村は意地悪く、しかし楽しそうに笑った。勧誘を論破して蹴散らすつもりなんだろう、なんて悪趣味な。だが、玄関のドアを開けた火村は凶悪な渋面をしてすぐに戻ってきた。また郵便か何かだったのか。

「ふん、もう少し捻りが効いていたって罰は当たらんだろう」
「なんなんや」
「先生、ハッピーエンドですよ」

楽しそうに目を細める火村を訝りながら身を起こした私が身体を捻ると、突然何者かが懐に飛び込んで来た。

「先生、ただいま!」
!?」

まるで少女趣味なイラストのようだったは、すっかり普通の成人女性の装いになっていた。突然のことに目を白黒させている私を見下ろしながら、火村は吸いさしを灰皿に押し付けてにやりと笑う。

「おい、保険証の謎、後で教えろよ」

そしてそれだけ言うと「じゃあな」と出て行ってしまった。私ももう、何がなんだかよく解らない。が戻ってきて、火村は保険証の謎がどうのと、ああもう、一体どうすれば。を懐に抱きながら、私は相当うろたえていたと思う。無理もないことと広い目で見てもらいたい。

……どうして」
「全部、ちゃんと話します。保険証の謎も、私のことも、全部。聞いてくれますか、先生」

装いは変わっても、のままだ。そんな単純なことに安堵すると、いくらか混乱も治まった。

何も知らずに愛して、何も知らないから触れることもなく失った。にこにこと可愛らしい笑顔を振りまく唇に私は吸い寄せられた。の身体を目一杯抱きしめてキスをすると、2週間の間に積もり積もった想いが柔らかく溶けていくのが解った。私はを抱いたまま言って、そしてもう1度唇を寄せた。

「できるだけゆっくり、な」

END