私の推理小説家

アリスが原稿と格闘している間は、勝手にテレビを付けたり音楽をかけてはいけない。それがに唯一下されている〝命令〟だった。これが守れない場合は、直ちに退去してアリスの部屋を出て行く事。それがルール。

はそれを忠実に守って、少し丸めたアリスの背中をちらりちらりと覗き見しながら雑誌をめくっていた。

確か数時間前までは少しだけいちゃつきながらものんびりと過ごしていたはずなのだが、突然アリスは机に向かってしまい、以後数時間、は何をするでもなくアリスの執筆作業を眺めながら過ごしている。

がそんな風に何もしないでいるのは、ただアリスが「帰れ」と言わなかったから。帰れともここにいろとも言わずに机に飛びついてしまったアリスの後ろで取り残されたは小さくため息をついたが、こんな事は珍しくない。だから帰宅予定である翌日の昼までは気まぐれな推理小説家に付き合う事にしたのだ。

のめくる雑誌の乾いた音、そして壁にかかる時計の秒針の音だけが無機質に響いている。

アリスが机に向かってから、早3時間が経とうとしていた。

雑誌をめくりながらアリスの背中を眺め、それに飽いては時計を見る。それを繰り返していたは、そろそろかな、と雑誌を閉じた。アリスの突然の〝浮気〟が終わるわけではないのだが、どうも背中を見る限りでは作業ははかどっていないらしい。もうそろそろ飲み物の催促が出るはずだ。

、すまん、何か……

来た。は、静かに立ち上がってアリスの背後に歩み寄って肩に手をかけた。

「喉渇いた? お茶とコーヒーどっちにしようか」
……お茶がええな」
「はい。ちょっと待っててね」

思ったより作業は進んでいないらしい。アリスは覇気のない目でぼそぼそと言う。にとってはそれもいつもの事なので、優しく、かつ静かに応えてキッチンへと向かう。がお茶を淹れている間、アリスは背筋を伸ばして手首をぐるぐると回している。これも、いつもの事だ。

「お待たせ」
「すまん」

交わす言葉は短くていい。アリスがもういいと言い出すまでは、邪魔をしない。これはが独自に決めたルールだった。物書き相手に感情的になってみたところで疲れるのは結局自分なのだから、は無駄な抵抗はしないと決めている。

それでも少しだけ気持ちを持て余してしまうから、はアリスの頬に軽くキスをする。

音も立てないような、触れるだけのキス。それはが口に出来ない言葉をぎゅっと凝縮した思いの表れで、数時間に1度でも自分を思い出してもらうためのものだ。加えて、やはり口にはしない応援と労りを込めている。

先生はそこのところ、ちゃんと解ってるかな。

時折そんな風に考えては苦笑するが、低確率ながらもそのキスでアリスは息を吹き返して再度原稿に取り組む。または、これも低確率ながら早々に見切りを付けて机から離れる。しかし、身体はの元へと帰らせていても、頭は机に置き忘れていたりする。

どっちがいいのかな。

そしてまたは苦笑するのだが、今日のアリス先生は机に向かったままの手を取った。

「どうしたの?」
「いや……あの秒針の音が」

アリスは身を捩って壁にかけられている時計を見上げた。

「うるさい?」
「いいや。ほとんど気にならないんやけど、たまに耳について、な」

住み慣れた自宅の、さらに自分で選んだ時計だ。それが突然うるさく感じる事もあるまい。の手を掴んだままアリスはお茶をすすり、カップを机に置くとゆっくりとの腕にもたれかかった。

「それに気付くたびに、ああをほったらかしにしとるんやなって……

しかしはそのアリスの言葉に少しだけ心を痛めた。邪魔にはなりたくなかったのに、そんな事で彼の仕事を妨げてしまっているのだろうか。そう思うと腕にもたれるアリスを突き放して今すぐ出て行きたくなる。

「邪魔してごめん」

そもそもはアリスがこんな風に在宅で仕事をしているのをいい事に、入り浸っているのも問題なのだ。はいい加減自重しなければならないなと思った。アリスの優しさに甘えた結果、仕事の邪魔をしてしまう。それだけはどうしても嫌だった。

だがアリスはを見上げて、力なく笑った。

「そんな事……。ここにいてくれると俺もありがたいんやけどな」
「でも……

反論しようとしたを遮って、アリスは首を振った。

「一仕事終えると、すぐそばでが待っててくれる。それがどれだけ癒されるか、知らんのやろう」

最後、少しだけいたずらっぽい目つきをしたアリスは手を伸ばしてを引き寄せると、満足そうに目を閉じた。もアリスの肩に両腕をかけ、手のひらでそっと頭を撫でてやる。アリス先生の頭は思うように進まない執筆作業に沸いてか、温かかった。

「アリスがいいなら、ここにいるよ」
「そうして下さい」

はアリスの頭を抱きしめて、返事の代わりに頬を摺り寄せた。

END