ミスキャスト

後編

本を読むのがとても遅いに4冊も貸してしまったことを望月が悔やみ始めたのは、1月も半ばになってからのことだ。遅いとは言っても本を読むペースは人それぞれ、好きなように読めばいいのだが、本を返してもらうか貸すかしない限り、には会えない。それはのせいだと思いたくなってくる。

休み中に望月はのことをEMCの仲間から突付かれ、まったくもって興味ありませんという風に装った。事実、望月はに心から惚れているというわけではない。ただがあまりにも可愛い女の子なので、それにはしゃいでしまうという程度のものだ。

主人公になれるのかもしれないなどという淡い期待は、努めて本気にしてないようにしている。

努めてはいるが、習慣で用もなく立ち寄る書籍部や古書店にて、いわゆる〝軽め〟のミステリなど見つけてしまうと、つい手に取ってしまう。成人式に出席するために帰省しても、実家の物置に積まれているジュブナイル・ミステリを発掘してみたりしてしまう。

直後、緩やかに襲い掛かる自己嫌悪にのた打ち回るわけだが、それでもが好きだという自覚にまでは至らないままになっている。結局持ち帰ってしまった江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」を前に、望月は胡坐をかいて腕を組み、かくりと頭を落とした。

だってそうやろ、あんな可愛い子が。こんなミステリオタクに。

都合の悪いことに、休み中望月は先輩である江神二郎の男前な後姿に感嘆したばかり。同時に、織田と2人少しばかり粗相をしでかした彼は、主人公ならざる自身に改めて気付いてしまった。人並みにを可愛いと思う気持ちとは別のところで、を現実のものとは思えない自分がいる。

そんな理屈と望月自身の感情はまったくの別物であっていいはずなのだが、どうしても切り離せなかった。

「推理小説研究会、だもんねえ。やっぱりすごく詳しいんでしょ」

無邪気にそんなことを言われるのが、素直に嬉しかった。望月の演説を誘発するようなことをが言い、つい調子に乗って喋り倒す。それをがうんうんと一生懸命聞いている。それが楽しかった。例え、本を貸すか返されるかの短いやり取りの間だけ、それも校舎の廊下がほとんどだったとしても。

ところどころ擦り切れて色あせた「少年探偵団シリーズ」に、そっと手を置いてみる。こんな古いものを貸してもいいんだろうかとためらう。買ってもらったばかりの本をすぐに開き、寝食を忘れて夢中になった本は、おやつの滓などでかなり汚れているはずだ。

は、それを受け取るだろうか。汚れてると言って、返されるだろうか。

アホなことをしてもうたな……

大切な思い出の詰まった本に、少し申し訳なく思う。もう少しきれいに読んでいてあげたなら、胸を張ってに貸し与えることも出来ただろうに。お前たちも、あんな可愛い子に読んでもろたら嬉しいやろう?

それでも、いつかが「館シリーズ」の4冊を返してくれるまでは静かに待つしかない。

望月が積み上げた「少年探偵団シリーズ」と共に過ごし始めてから、1ヶ月が経とうとしていた。

いつものようにEMCが活動場所として使っている学生会館へ向かおうと、足取りも軽く烏丸通りを渡ったところで、後輩の有栖川有栖と行き会った。彼はちょうど学生会館の方からやって来たところだった。

「あれ、帰るんか」
「あ、モチさん、今日誰もいてませんよ。みんなバイトだそうです」

なぜかアリスは「バイト」のところでニタリと口元を歪めた。

「お前は来たんやろう? 俺も行くけど」
「あ、僕も用あるんで。ちょっと顔出しておこうかなと思っただけです」

そう言いながら、アリスは既にその場を立ち去りかけている。何を急いでいるのだろう。

「モチさんも今日くらいは帰ったらどうですか」

変わらずニタニタしながら、アリスは手を振って去って行ってしまった。今日くらい? さて何のことだろうか。望月はアリスに置いていかれて、なおかつ誰もいないという学生会館の方を見ながら首を傾げた。そのままアリスのように帰ってしまってもよかったのだが、望月は1人学生会館のラウンジへと足を向けた。

誰もいないというなら、それも仕方ない。既に買ってしまった缶コーヒーを飲んで、読みかけの本でも少し眺めてから帰ろう。望月には今日、アルバイトの予定はなかった。

学生会館に足を踏み入れた望月は、普段とは違った光景に気づいて辺りを見渡した。今日は出入りする人が少ない。アリスの言う「誰もいてません」は、EMCに限ったことではないらしい。不思議に思いながらも望月が足を踏み出した時、突然何者かに腕を引かれて彼は後ろによろめいた。アリスか?

「望月くん、久し振り!」

だった。

実に1ヶ月以上の対面に望月は目を剥いた。本当に言葉どおり久し振りだ。

「お、おお、久し振り。こんなとこでどうしたんや」
「うん、ここに来れば会えるかと思って」

に腕を取られたまま、望月は冷静を装った。相変わらず、可愛い。白いマフラーに半ば埋もれる頬は2月の風にさらされてピンク色に染まっている。それとは逆に、望月のダウンの袖に乗る指先は寒さで白くなっている。ずっと外にいたのだろうか。まさか、ずっと外で俺を待って?

「ね、ちょっといい?」

望月はそんなを気遣って中に入ろうとしたのだが、は彼の腕を引いて外に出てしまった。いやいや、そんな寒そうな顔色してなんで外やねん。

はぐいぐいと望月の腕を引き、学生会館の横手にある通路へと引っ張っていった。そして、突然足を止めると、手にしていた紙袋を突き出した。望月が文庫本を入れて手渡したものではなく、白地にピンクの持ち手がついた紙袋だ。

「これ」
「え、読み終わったんか? まあまあ早かったやないか」
「え? あ、うん。それも入ってるよ」

それも? 望月は意味が判らずに紙袋を受け取ると、ちらりと中身を覗いた。文庫本が4冊入っていると思っていた紙袋の中には、なにやら赤い箱状の物が追加されている。

「何これ。気ィ遣わんでええのに。『館シリーズ』まだ残ってるで」

謙遜のつもりで言った望月だったが、は明らかに困った顔をしている。まったく意味が判らない。

「お礼、ていうのもあるけど……今日ほら、ね?」

困り顔のまま、はもじもじと恥ずかしそうにつま先をかき回した。やっぱり判らない。

「ねえまさかとは思うけど、今日が何の日か……
「なんやったっけ?」

困り顔のは、今度は呆れ顔に変貌する。いやいや、そんな顔されても、今日は……何日やったかな?

……バレンタイン」

がそう言うなり、紙袋を指に引っ掛けたままの望月は雷に打たれたように肩をぎくりと強張らせた。実際、望月自身は雷にでも打たれたような痺れを全身に感じていた。2月14日。日本では本来の意味から大きく外れた、しかし大いに盛り上がりも盛り下がりもするイベントではないか。

で、この赤い箱は?

望月は自分の指に引っかかっている紙袋が突然重くなったような気がした。まさかこの中にはチョコレートという甘美な物質が入っているのか。そういえば去年は家族にしかもらえなかった。

いや待て落ち着くんや周平、この世知辛い世の中には〝義理〟という殺人的なまでに残酷な二文字があるやないか。高校時代に義理ではないチョコレートをもらったことはあるが、それがから出てくるとは考えにくい。きっとこの赤い箱を開けば、無難、としか言いようのないチョコレートが出てくるはずだ。

「そ、そうか、悪かったなわざわざ。義理でも有難く頂戴するよ。必ず1人で全部食べる」

望月にとっては、精一杯の感謝を込めた言葉だった。たかだかチョコレート1つで舞い上がるド勘違い男になってはならないという、自戒も込めて。だがは、少し俯いて、困った笑顔、とでもいうような表情をしている。

……それ、本命、なんだけど、な」

そんなの呟きに、望月は顔に張り付いた笑顔のまま硬直した。本命? それってなんやったっけ? だから、つい口が滑った。滑ったというよりは、本当にそう思っていたからなのだが、言うべきではなかった。

「嘘やろ」

信じられないのだというニュアンスは、伝わらなかった。は頬を引きつらせて悲しそうに眉を下げた。

「ご、ごめんね、いらなかったら……捨てて」

は今にも泣きそうだ。そういう意味で言ったつもりのない望月は、の言葉に頭を殴られたような衝撃と、同時に胸が熱くなる。しかし、頭は不思議と沸騰しなかった。指に掛けた紙袋をだらりと脇に提げ、俯いているのように頭を垂れた。

「いや、そういう意味やなくて……本命とか、信じられんいう意味で……嫌やていうんやなくて、その、なんや、おかしいやろ。本貸しただけやのに、何で?」

に言っているというよりは、自分に対して問いかけているようだった。

「どうして俺なんかに、みたいな」

みたいな可愛い子が。思わずそう言いそうになって望月はハッと口を閉じた。片方に紙袋を掴んだ両腕を突っ張り、少し身を引いてしまう。成人してなおこっ恥ずかしいことを言ってしまうところだった。

俯いたままのが、つと顔を背ける。曇りのバレンタインの空が少しずつ暮れていく。は、薄暗くなった2月の空のようにどんよりとしている。どう取り繕えばいいのか判らない望月もまた、立ち尽くす。

「だから、いらなかったら、捨ててよ」

そう言うの声が震えた。

「俺は、主人公やないのに」

同じように、望月の声も少し震えていた。

「私には、主人公だもん」

かさりと望月の手にある紙袋が音を立てる。は改めて望月に向き合うと、彼を見上げた。

「ていうか、主人公じゃないとか、何の話? 望月くんが主人公でも脇役でも、そんなこと関係あるの? じゃあ、私は何になるの? 何のことか解らないけど、望月くんが主人公じゃなかったらチョコあげちゃいけないの? 主人公じゃない望月くんのこと好きになっちゃいけないの?」

は早口で畳み掛けた。ついうっかり告白までしてしまっているが、それも含めて全て本音だっただろう。

「そんな、こと……ない」

主人公になっても、いいんだろうか。脇役に甘んじても仕方ないと思っていたけれど、力不足な配役にしかならないと思っていたけれど、自分にはもったいないような可愛い女の子にこんなことを言われて、それでも名もなき端役でいいだなんて、言いたくない。

「でもやっぱり、嘘みたいや。が俺のこと、好き、や、なんて……

こんな風にどきまぎしたのも高校以来だ。望月は紙袋を掴んだ手が冷や汗に震えているような気がした。本当にええんか? ミステリオタクのくせに探偵も務まらない、こんな俺で。が本当はどんな人物であるかなどということは、この際どうでもよかった。こんな可愛い子の、彼氏になってもいいなら。

「でもこれ、本命、貰う。の気持ちも、貰う」
「ほんとに?」
「本当に本当。返せ言うても、もう遅いからな」

望月の言葉を聞いて、やっとは笑顔を取り戻した。望月が微笑んで見せると、は眩しいほどの笑顔を浮かべる。そのまま、手をそっと差し出して望月の手を取った。すっかり冷えたの指先が、やはり冷たくなっていた望月の指にするりと絡んだ。

「あのさ、周平くんて呼んでもいい?」
……ええよ。じゃあ俺はちゃんて言えばええんか」
「呼び捨てでいいよ」

望月が思わず舞い上がるほどに可愛い女の子が、絡ませた指を揺らしながらそんなことを言う。途端に辺りの様子が気になってちらりと見渡してみるが、暗くなり始めている学生会館周辺は人気もなくて静かだった。いや、よく見れば遠くの木陰に揺れる人影がある。そうか、今日はこういう日なんやな。

バレンタインという日の意味がよく解った望月は、絡んだ指を引き抜くと今度はしっかりと手を繋いだ。

「ありがとう。……

ふにゃ、と微笑んだは、手招きをするように繋いでいない方の手を挙げて、ちょいちょいと折った。内緒話をするからちょっと耳貸して、というような仕草だ。誰にも聞こえないのに、可愛いことをする。望月はもう耳がくすぐったくなっている。

しかし、寄せた耳には何も聞こえてこない。代わりに、柔らかいものが唇に触れた。

あまりに素早い一瞬の出来事で、望月は目を白黒させている。それを見てまたふにゃりと笑ったは、望月に身を寄せると腕を絡ませて言った。

「私は主人公だと思うよ。すらっとしてて、眼鏡掛けてて、私に貸してくれる本も一生懸命考えてくれたし、本当に探偵さんみたいだと思うよ。私が周平くんのことが好きだって気付かなかったとこだけ、減点だね」

体型と眼鏡と本を選んでやることは探偵に必要な要素とは思えないが、の想いに気付かなかったこと、それは確かに観察力と洞察力が足りていないかもしれない。望月は思わず吹き出し、絡まっているの手を取って指を組んだ。いつのまにかずれていた眼鏡も、きりっと上げなおす。そうか、探偵か。悪くない。

「俺が探偵なら、は助手になるか?」
「推理のお手伝いは出来ないと思うけど、悲鳴ならあげられるよ」

探偵と共に古びた屋敷に招かれた可憐な助手が、事件現場の第一発見者となって金切り声を上げる。ますます悪くない。眼鏡をついっと上げ、スカーフタイを襟元に押し込んだスリーピースで颯爽と現れよう。そしてその姿に劣らぬスマートな推理をしてみせるのだ。

この物語に、EMCのメンバーは出てこない。だから、望月が主人公でもいいのだ。
早速明日は、『館シリーズ』の続編を持ってこよう。に、渡そう。

繋いだ手が暖かい。望月はの手を引いて歩き出した。

END