ミスキャスト

前編

その日、望月周平は予定より文庫本一冊分重くなったバッグを担いで登校した。

文庫本のタイトルは、『Xの悲劇』。彼の愛するエラリィ・クイーンの著作で、発行当初は別名で出版されていた4部作の1作目に当たる。当然自分では読了済みだし、その後も幾度となく読み返した作品でもある。その『Xの悲劇』の文庫本は、友人に貸すために本棚から引っ張り出してきたものだ。

突然本を貸せと言って来た友人、に渡すために。

「ねえ、最初に読むミステリって、何がいいと思う?」

がそう問いかけてきたのは、夏休みが明けてしばらく経った頃だった。その日たまたま1人で食堂にいたところに声を掛けられた。カレーを頬張っていた望月は、スプーンを銜えたまま首を傾げた。

確かに、は同じ講義を受けている顔見知りではあるのだが、何の前置きもなくそんなことを尋ねられる間柄とは言いがたい。しかも、望月が自称《英都大学が誇る少数精鋭の推理小説研究会》に所属していることなど、どこから聞きつけたのだろう。

いまいち目の前の展開に着いていけない望月を他所に、はにこにこと可愛らしい笑顔を見せている。

「望月くんて確かミス研だったよねえ? 何がいいと思う?」

ミス研などと安っぽい呼び方はやめて欲しい。当研究会には《EMC》というスマートな略称があるのだから――などと言ってみたところで、話が進むわけでもない。望月は、まずは質問に質問で返すことにした。

「どうしたんやいきなり。ていうか、ミステリ1度も読んだことないんか」
「うん、ないよ。漫画なら読んだことあるけど。秋だから、読書してみようかと思って」

はことも無げに言うと片手で頬杖をついてペットボトルのお茶を取り出した。の言う「漫画」は望月もある程度想像がついたが、彼はそれをミステリだとは認めていない。しかしそれはマニアックな持論に基づくガイドラインであるから、素人相手に演説を始めるのは遠慮しておいた。

それに突然ではあるが、このというド素人にミステリの何たるかを知らしめるいい機会かもしれない。

広く本格推理小説というものを広める活動を起こす気はなかったが、せっかく興味を持ってもらったのだ、何か選んでやるのも悪くない。なにしろ、目の前で頬杖をついているのは破格に可愛い女の子なのだからして。

「そうやな、1冊で終わらせずにこれからも読もうと思うんなら、古いのから始めても」
「うん、面白かったらたくさん読むつもり」

つまり、今後がミステリというものを「面白いもの」だと思うか否かは望月の采配次第ということだ。この世にまた1人ミステリマニアを輩出できるかどうかは、その先を行く望月の肩にかかっている。

「そんなら、明日何か選んで持ってきたるわ」
「え、いいよ、自分で買うから」
「読んでみて面白かったら買うたらええやないか」

だいぶ気が大きくなっていた望月は、スプーンをぷらぷらと振ってに笑いかけた。

「そう? じゃあお願いしようかな、ありがとう」

頬杖を解いて、はテーブルに両手をついてペコリと頭を下げる。1拍おいて顔を上げると、望月に向かって最大級の笑顔を輝かせた。窓から差し込む日の光にも助けられて、きらきらと光るような笑顔だ。

ああやっぱり可愛い。

「これでどうや」
「『Xの悲劇』? あれ、聞いたことあるような気がする」

あまりにも有名なタイトルだ。がいくらド素人でも、どこかでタイトルだけ耳にしたことがあっても不思議はない。もちろん望月もそれを見越してのセレクトだった。いくら古典だったとしても、あまりにマニアックなセレクトは避けた方がいいと思ったし、絶大な支持を得る作品ならば、外れがないだろうというわけで。

「ミステリの基本とでも言うたらええかな。作者がエラリィ・クイーンとなってるけど、最初は別の名前で出版されていて、まあその辺りは序文を読めば判ることやけども……

つい喋りだした望月だったが、は黙って頷きながらそれを聞いていた。クイーン大好き望月としては、本当に基本的な薀蓄をばら撒いただけの内容だったが、それでも数分は喋り続けた。

望月の演説を黙って聞き終え、じゃあ借りていくね、とは文庫本を受け取った。手渡す瞬間ほんの僅かに指先が触れ、望月は慌てて手を引っ込めた。しょっちゅう布団の中にまで連れ込んでいた愛読書が、今触れてしまったばかりのの手の中にある。何も塗っていないベビーピンクの爪が、表紙にそっと添えられている。

「すぐ読むからね。次、講義だけど」

パタパタと走り去るの後姿を、望月はぼんやりと見送った。

望月はこれまで、ミステリに限らず様々な物語を読んできた。物語の中には、必ず主人公というものがいて――彼の場合その殆どが探偵、ないしは探偵役であるわけだが――八面六臂の大活躍を見せた。子供心には、当然自分も大人になったらこんな風になってやるのだと思っていた。

だが、去る夏休みに巻き込まれてしまった事件を機に、自分はどうもそれには向かないのかもしれないと考えを改めるようになった。推理に自信がないわけではないし、推理するのが好きなことに変わりはないのだが、主人公というポジションにはいまひとつ力不足なのではないか。なにしろ…。

身近な人物が、本当に殺人事件の謎を全て解き明かしてしまったのだから。

もちろんそれは彼の所属する《EMC》の部長である江神二郎という人物のことなのだが、に手渡した『Xの悲劇』を例に取ってみても、目の前で絡み合った謎を解いていった江神という人物を差し置いて、自分がドルリー・レーンのポジションを担えるとは思えなかった。

江神がドルリー・レーンなら、望月はさしずめブルーノ地方検事かサム警視あたりが妥当なところだろう。織田と2人、このあたりがまっとうなポジションのような気がする。ただし、醜男という表現がついているサム警視は遠慮したいのが本音ではあるが。

アリスはドロミオあたりでええやろ。クェイシーじゃちと可哀想やからな。

ふとそんな想像をして、望月はにやついた。だが結局のところ、探偵役とするには自分が力不足であるという認識は覆らない。年が明ければ成人式を迎える年齢である望月は、所詮は自分も圧倒的大多数である脇役でしかないのだと納得し始めていた。

だがどうだろう。果たして脇役であるはずの自分はとびきり可愛い女の子に、愛して止まないミステリを薦めている。自分が本当に脇役であったなら、こんな展開は与えてもらえないのではないか?

誰にでも主人公になるチャンスはあるのだ。望月は1人得心がゆくと、ずれた眼鏡をそそくさと直した。

「ごめん、これ無理だった」

の顔と、彼女の差し出す『Xの悲劇』の文庫本を交互に見ながら、望月は目を剥いた。おいおい、無理ってどういうことや。この稀代の傑作を指して無理とは、この身の程知らずが。

「え? 無理って……
「なんかね、外国人の名前、頭に入らなくて」

というかお前実は本と呼べるものを読んだことすらないのと違うんか!

「そんなに難しかったか?」
「ううん、難しいわけじゃないと思うよ。でも、私ニューヨーク行ったことないし」

そんなん俺もないわ! と、望月はあやうく怒鳴り声をあげそうになって、ぎりぎりのところで踏み止まった。落ち着け周平、本を読むというてもそれは人それぞれ、カタカナの登場人物が覚えられんというオバハンみたいな女もおるやろう。それでもが可愛いことに免じて文句は言わないでおく。

「ねえ、他にはどんなのがある?」
「他!?」

これに懲りてミステリはやめるものと勝手に了解していた望月は面食らった。は読書の秋にミステリを読むという初志は貫き通すらしい。もう何でも好きなものを本屋で適当に買ったらいいだろうとは、言えなかった。返された文庫本に残る、の手の温もり、それがじんわりと望月を崩していく。

「わ、わかった。明日また、持ってくるから……
「楽しみにしてるね!」

の笑顔にはどうしても、逆らえないのだ。

翌日から望月はが生涯最初の1冊とするミステリを必死に選んでは持って行った。だが、望月のセレクトがやや的外れなのと、ド素人の激しい食わず嫌いがぶつかり合い、栄えあるのファースト・ミステリとなるタイトルはなかなか決まらなかった。

いくら同じ講義を受けているからといって、毎日顔を合わせられるというわけでもないから、最初のミステリ探しは遅々として進まず、の言っていた読書の秋はすぐに過ぎてしまった。そろそろ冬支度も本腰を入れた方がいい11月、望月は今度こそと気合を入れて1冊選び出した。

「これはどうや。人物名はカタカナが多いけど日本の話やし、ほとんどが学生や」

望月が差し出したのは、『十角館の殺人』。これまた有名なタイトルである。

「へえ、いかにもなタイトルだね」

ド素人がいっぱしの批評家みたいなことを言うんやない。

「これは読みやすいと思うんやけど……
「グロくない?」

前回、『殺戮にいたる病』という、傑作ではあるがやや殺害描写がリアルな叙述ミステリを貸してしまった望月にはいたずらっぽく笑う。当然、は『殺戮にいたる病』を読了していない。血生臭い描写に耐えられなかったという。これは薦めた望月が悪い。

「大丈夫……やと思うけど」
「じゃ、借りるね」

犯人当てを目的としたミステリ、どうせ人間が殺されるのに違いはない。大なり小なりその凄惨さは覚悟しなければミステリなど読めたものではないと望月は思うが、相手が可憐な女の子であることを前提にした意見ではない。そのことに早く気付くべきなのだろうが、生憎ミステリのこととなってしまうと、そんな余裕は生まれなかった。

そして数日後。望月はやっとのことで読了宣言を獲得する。

「面白かったあ! これ、すっごい面白かったよ! 最後、徹夜しちゃった」

少々興奮気味のに、望月は勝利の腕組みで頷いた。しかし、相手はド素人の女だ。

「ヴァンが超かっこよかったよー」

登場人物の1人をいたくお気に召したらしいは望月に返す文庫本を胸に抱いて、いやいやをするようにかぶりを振った。刮目すべきなのはトリックやそれを巧みに表した文章であるというのに、そんなところには目がいかないらしい。登場人物など物語の駒に過ぎないと言っては語弊があるだろうが、それでも第一に評価されるべきなのは人物描写ではないのだ。

――と、に言い聞かせられたらどんなにか気が楽か。望月は組んでいた腕をだらりと下げて、ため息をついた。はまだ登場人物の評価を喋り続けている。満足するまで喋り倒すと、ようやく文庫本を返す。

「ありがとう。ミステリって、面白いね」

人物描写という的外れな所に面白さを見出してしまったのだろうかと落胆していた望月だが、その一言は何にも増して嬉しい感想には違いなかった。そう、ミステリは面白いものなのだ。望月のテンションを再度上昇させるのには充分な言葉だった。

「それシリーズものやから、次のも読むか? ……ヴァンは出てこないけど」

仕方なしに断りを付け加えつつも、望月はまた本を貸してやってもいいという気になっていた。今はまだキャラクターに目がいってしまっていても、続けて読んでいく間にはトリックについての会話をすることもあるだろう。そうなれば、いかに作中に仕掛けられたトリックが大事であるかを説いてやる機会にも恵まれるはずだ。

君はまだ、ミステリの本当の面白さを知らないのだ。

「え、ほんと? 読む!」

はい、よく出来ました。

望月が疑ったように、は本を読むということに不慣れな人物であったらしい。『十角館の殺人』を返すまで一週間近くかかっていたが、それは会えなかったからではなくて、本気で1冊に1週間費やしてのことだったらしい。しかも、多忙を極めるがゆえに就寝前くらいしか読み進めることが出来なくて遅いのとも違う。本当に遅い。

それでも本人は「ずっと読んでたんだよ」と言う。最終的に徹夜までしたのは誇張表現ではないらしい。

『十角館の殺人』を返してもらい、続く『水車館の殺人』を貸すまでにも数日間をおき、貸したら貸したでヴァンが出ないことでクールダウンしたらしいは、2週間近くかけて読み終えた。そんなことをのんびりとやっている内に、もう冬休み。望月は自身の本棚の前で腕組みをしていた。

もうすぐ休みに入ってしまう。本を貸して返してもらうだけの間柄だから、きっと休み中にどこかで会ってまでシリーズ続巻を貸してやるようなことにはならないだろう。そもそも、望月はのメールアドレスも携帯の番号も知らなかった。

ま、こんだけあれば余るくらいやろ。

望月は床に積んだ文庫本4冊を掴んで、紙袋に突っ込んだ。当然、『水車館』に次ぐ『迷路館』『人形館』『時計館』『黒猫館』の4冊である。中でも『時計館』は少々厚みがあるが、もうも文句は言うまい。分厚いからこれは無理、と『ドッペルゲンガー宮』を突き返された前例があるが、「館シリーズ」が面白いと感じているらしい今なら気にならないだろう。

「これ、休みの間の分」

文庫本が入った紙袋を望月が差し出すと、はいそいそとそれを受け取った。

「わあ、まだこんなにあるの。休みの間に全部読めるかな」

まあ無理だろう。休み中どこにも出掛けず部屋に篭って読み続けるというならまだしも、冬休みという休暇はイベントが特に多い。も年が明ければ成人式だってあるはずだ。その中で厚めの1冊を含む4冊など到底読み終えられるわけがない。その辺は望月だって期待していない。

「別に休み終わったら返せとは言わんから、ゆっくり読み」
「うん、そうする。ありがとう」

それだけの会話で2人は別れた。もうクリスマスも目前に迫った、12月も末のことである。

走り去るの後姿を見送りながら、望月はまたぼんやりと考えた。

クリスマスとか、予定、あるんやろうか。

聞いてみればよかったと後悔したが、もう手遅れだ。やっぱりお互いメールアドレスも携帯番号も知らないままだ。望月に関して言えば、休みに入ってもサークルに顔を出すなどして学校に出てくることはあるが、はどうだろう。何かのサークルに所属しているという話は、聞いていない。

まさか、あんな可愛い子が、そんなことはないやろうな。

そう勝手に解釈して、望月はくるりと踵を返した。